scene 1
昔仕事で、イギリスの国営テレビ局が作った「アガサ・クリスティーのポワロ」を10本くらい見たことがある。ディヴィット・スーシェが主役を務めていたっけ。 懐かしいなあ。 ピストルがパンパンって、一編のうち二回発射されればいい方なノスタルジックな探偵ものだった。 そういやシムノンのメグレと、「タンタン」をもう一回読み直そうと思ってたんだ、忘れてた…。 喉が渇いたな。 エマの作ったサングリア飲みてえ…。でなきゃキルケニー…。「カイロリ」のグラッパでもいい…。 ジダンは、稽古場の演出机について稽古を見ながら、裏でいらぬことを考えていた。理由は簡単で、稽古がつまらなくて、集中できないのである。 今日は、ある意味で最高に山場なシーンの稽古をしていた。話の筋としては全然そうでもなく、寧ろ平和な情景なのだが、ジダンですら恐れをなして何かと理由をつけては演出を後回しにしていたのである。 場面に登場するのは三人。 JR(ヨシプ)と、フェイにあたるデミトリと、マリーにあたるミミ。 劇団の一番よかった時代の情景である。後に分裂することなどつゆ知らない彼らが、他愛もない話をして、無邪気に幸せに笑い合う。言ってしまえばそれだけの、よくある「幸せな子供時代」的なシーンだ。 しかし、ヨシプとデミトリとミミである。 ヨシプとデミトリとミミ。 恐ろしい。 恐ろしかったが逃げ回ってばかりいるわけにもいかず、今日とうとう稽古した。 予想通りの出来だった。 彼らの呼吸の噛み合わないことといったらやり切れない漫才の如く、眼が死んでいることといったらギリシア彫刻のよう、そんな状態で繰り広げられる「素晴らしい仲間との楽しいシーン」の出来ときたら与党の選挙コマーシャルのようだ。 ♪ランランラララ ランラララ [字幕]たゆまないリーダシップ [字幕]明確な明日へのビジョン [字幕]子供の未来を託せるのは 政府与党です こども『楽しいよ! ほら、みんなもおいでよ!』 「結構です」 二回目の演技が終わった時、ジダンは休憩を告げて席を立った。スタッフ達が見守る中、なんともいえない雰囲気に満ちた稽古場から廊下へと、煙草を持って逃げ出す。 普段なら喫煙所で済ますのだが、体が勝手に階段の方へ向いた。ひやりとした暗い階段を一段一段昇っていく弾みに、生気のない役者の顔や、まずい演技や、本番までの期日、スタッフ達の、閉じられた口の代わりにすばしこく動く目を意識から振り落とそうとした。 最上階へ到った。シーンとしている。 階段の踊り場から出ると、やはり会議室のような空き部屋がひとつ。廊下の突き当たりに、ガラス張りのドアが見えた。 大した広さではないが、テラスがその向こうにある。ジダンは鍵を開けて、コンクリートの灰色を踏んだ。 午後三時すぎだ。晴れていた。 この頃は大分暖かい。春が近づいているからだろう。 高所恐怖の気があるので、あまり際には近寄らなかった。見返るとプラスチックと鉄で出来たいいかげんなベンチが置いてある。腰を下ろし、紙巻を唇の間に挟んだ。 火をつけて最初の一吐きが、長いため息と一緒になった。 ……全く、役者という生き物は。 照明にしろ音響にしろ装置にしろ制作にしろ、スタッフ達は普通、辛いことややりにくいことがあってもある程度我慢し、大人として仕事の責任を果たしてくれる。締め切りが迫れば誰だって大変だ。本番ともなれば仕込み・バラシは体力的に役者と同じかそれ以上にきつい。 しかし、彼らは特に「ちゃんとやれ」と言われなくてもちゃんするように最初から上に教わっているし、例えばそりが合わないからといって、役者に明かりをあてないなんてことはない。 装置をでたらめに作ることもありえない。 仕事は仕事、自分は自分として責任を果たすのだ。 ところが、役者と来たら。 ジダンは今、どうしても素行がよくならない生徒を前にしている教師の心境だった。 どうして連中は、ちゃんと自分の仕事をしないのだ。 遅刻はする(ジャン・バチスト)、喧嘩はする(デミトリ)、いつまでも受け身で無気力(ヨシプ)で、実力が足りず(ミラ)嘘つきで萎縮している(アキ)。 毎日黙々と仕事をこなすスタッフ達、内外を飛び回って自分達を売り込んでくれている制作連に対し、恥かしいとか申し訳ないとか思わないのだろうか。 思わないのだ。 それが役者という生き物だ。 勿論人によって差異はあるが、基本は「演出」という人間の合図がないと、何も始められない連中の集まりだ。 役者の人間性に気を使っても始まらない。 彼らは歪めてナンボ、叩いてナンボ、泣かしてナンボなのだ。逆にそういう汚い作業を経なければ、連中は成長できないのかもしれない。 忘れていた。タイムブランクのせいか、ちょっと忘れてた。もっと冷静にいけるものかと思っていたが、やっぱり駄目らしい。理解ある演出の椅子など、今、この屋上から下へ投げ捨ててしまおう。 このまま遠慮しいしいやっていたら地獄の結果になる。たとえ連中に憎まれても、自分には舞台の質に対する責任があるのだ。 BBC。デビット・スーシェ。 アガサ・クリスティーのポワロ。 何かでこんなシーンがあった。 殺人が起きて初動捜査が終了した頃、スーシェ演じるポワロが関係者を全員部屋に集める。最初はにこやかに話しているのに、途中いきなり両手で机をばん! とやるのだ。飛び上がる関係者に、ポワロは一喝する。 「よろしい! 皆さんは私に隠し事をし続けるおつもりなのですな!! ポワロを甘く見るのも大概になさい!」 正確に何を言ったかはこの際いいのだ。 あれがやりたい。ジダンは火を消して吸殻の端を掴んだまま、夢見る瞳でベンチを立った。 やれるものなら、あれがやりたいなあ。 「よろしい! この叱られないと仕事の出来ないアホウども! 部活みたいにしごいてやるからそう思え!」 ――――ふと、ジダンはそのまま、呼ばれたように前に進んだ。 ここのテラスにはまともなフェンスがなく、端は膝くらいまでの高さのゆるい塀があるだけだ。体が怯えるのを我慢して、行けるところまで近づいた。 徐々に奈落の幅が開いてくる。下からは時折車のエンジン音が昇ってくる。 対面の建物にはテラスがなく、最上階も全面が住居(?)として使われているようだ。はめ込まれた窓には、白いカーテンがかかっている。 実はジダンはその建物を、よく知っていた。昔、クリスマスの頃、そこから知り合いが飛び降り自殺をしたことがあったのだ。影の薄い、自殺の予行練習以外に趣味もなさそうな男だった。 彼はたまたま親戚の女の子、アンヌと下にいた。 確か屋上に立っていた記憶がある。勿論、その建物は自殺した男の家ではない。彼は勝手にどうにかして昇ったのだ。テラスもないのに、屋根の上まで。 もう五年くらい前のことなのに、建物の上から不吉に突き出す、ゴルフのピンのような影がはっきりと脳裏に蘇ってきた。 「よく、こんなところで……」 目を細めてジダンが呟いた時、風が平筆のように、辺りの空気を一撫でしていった。 飛び込むにはまだ早い。ジダンは勢いよく階段を下りて、ズカズカと廊下を突き、稽古場の扉を力いっぱい押した。 そこには彼の不心得な生徒達がばらばらにいて、気の抜けた面で教師の帰還を出迎えた。 |
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第十二章 了 |
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