scene 2




 実際、本番は一〇日後に迫っていた。舞台裏の様々な仕事が狭い出口めがけて殺到してくる。稽古が終わって帰れる役者達は幸せだ。
 ジダンはお馴染みの喫煙スペースで照明担当のジャンと話し込んでいた。会場に持ち込む照明機材だが、金を払って最新のを借りるか、それともやや古くて光が弱いがタダ同然で借りられる備え付けの機材を数吊るしてしのぐか、というような貧乏くさい話だ。
 とにかく予算のない舞台なので、こういったことも可能な限り切り詰めねばならない。しかし舞台がケチくさくなるのはいけない。ジャンから色々な提案を受けるが、段々聞きすぎてしまいには訳がわからなくなってきた。
「お疲れ様です」
 その時、すうっとジャン・バチストがやって来た。着替えを済まし、Tシャツにあっさりしたスーツを着ている。
「やあ、お疲れ様。上がりか」
「ええ。一服してから」
「そうか。…ジャン、五分待ってくれ。俺も一本吸う。その間に整理する」
「いいとも。俺も疲れた。コーヒーを買ってくる」
 ジャンが疲れた目元で言って、階下へ降りていった。練習場のビルの隣がチェーンのカフェーだから、買ってくるのだろう。
「…大変ですね。中々」
 ジャン・バチストは煙を吐きながら言った。彼は吸煙機を挟んでジダンの対面に立っている。背後の窓に、そのしなやかな後ろ姿が映っていた。
「まあここが踏ん張りどころだな」
と、ジダンは新しい煙草に火をつけながら言う。泣き言を言うわけにはいかない立場だ。
「ああ。さすがに忍耐強いですね。ベテランは違う」
と、ジャン・バチストは言った。全く心のこもっていない、帳尻合わせのお世辞だった。
 それでジダンは彼の顔を見た。彼がどうしてそんなことを言うのか分からなかった。
 すると、ジャン・バチストは、冬の夜にも負けぬ静かな声で、続けたのである。
「――――とある人から、聞きました。あなたはテレビ局から、ほされたそうですね」
 ジダンは、彼の肩の向こう、窓に映った自分の間抜け面を見た。
「それは必死だ。この舞台は大事だ。あなたにはもう、後ろがないのだから」
 いい声だった。それこそ、ジャン・バチストは素晴らしく「舞台を回す」才能のある役者だ。長い台詞も、難しい場も、巧みに間を仕切って上手に作り上げる。
 けれど、最近は稽古に再三遅刻する。ジダンの注意に謝りはするが、繰り返す。技術をいいことに、手を抜いている。
「僕が降りるといったら、困るでしょうね」
 彼は事も無げに、穏やかに笑った。その前で、ジダンの紙巻が無駄に短くなっていく。
「――――すみませんが、レスコーさん。僕は今日馴染みの店へ行かねばならないのですが、お金を切らしていましてね。お貸しいただけないですか」
「………」
 筒になった灰を落として、煙草を唇に運んだ。煙と一緒に、言葉を吐き出した。
「前借なら、制作のクリスティナに言ってくれ」
「出演料の前借ではないです。今、個人的にあなたからお借りしたいんです。
 …僕には、悪い癖が色々ありましてね。いい加減、負けてる分を払わないといけない感じなんですよ。
 もし今日間に合わなかったら、僕はそっちの連中につかまって、もう、稽古に来られなくなるかもしれないなあ」
 ジダンは、もう一度煙を呑んだ。ジャン・バチストはもう目を伏せ、笑っているばかりだった。極めて上品な顔だった。
 灰皿に煙草をひねり潰し、ジーンズの後ろポケットにねじ込んである紙幣の束を取り出した。ジャン・バチストは二本指を立てた。
「そんなに持ち合わせがない」
 ジダンは札を手繰り、程近い金額を差し出した。そこにジャンの足音が近づいてきた。彼は階段を上がりきると、二人の姿を見て、驚いたように立ち止まる。
「どうも」
 ちらりとそちらを一瞥し、ジャン・バチストは紙幣を受け取った。スーツの内ポケットにねじ込み、来た時と同じ様にすっと、いなくなった。
「お疲れ様でした。また明日」
ジャンに挨拶してその側を通り抜ける。
 しばらくして、彼を見送るのにも飽きたのか、ジャンが戻ってきた。コーヒーを二つ持っていて、一つをジダンに押しやる。
「ありがとう」
 台の上に肘をついて礼を言うが、ジャンの顔は曇っていた。
「おい…。今の、まっとうな金か」
首を振った。
「借りられなければ、降りるとさ。『負け分』とか言ったから、賭け事の類だろう」
「…なんだって…? 何だよ、それは…」
 ジャンが呆れたような声を出す。彼はジダンが劇団シリスをやっていた頃からの付き合いだ。
 シリスにはこんなことは無かった。怖い副演出が睨みをきかせていたからだ。
「やめろよジダン。俺、こういうのは嫌だぜ。全く見ないわけじゃないが、そういう現場は嫌いだ」
「俺もだよ」
「…勘弁してくれよ…。げんなりだ。こんなこと、シリスだったら有り得ないのに…!」
 その頃にはジダンの目は、もうジャンの方を見ていなかった。やはり着替えを終えて、控え室から廊下に出てきたデミトリを見つめていた。
 彼は今出てきたばかりで、さっき起きたことは知らないようだ。ただ無言で、喉元まで生きにくさで一杯という態で、そこに立っている。
 苦しそうだ。
ジダンに負けず劣らず。
 未だに、この青年のほっとした、気を許した顔を見たことがない。彼は半分で現世にあって年をとりながら、もう半分で過去に足を取られ、引き裂かれたまま生きているのだ。
 そうだよな。と、ジダンは目を閉じ、顎を引いた。
よく分からなければ困難にぶち当たった時にすぐそう考えてしまうんだ。
 今、ジャンがいみじくも言ったように、シリスなら、――――「α」なら、こんなことはないのにと。
 デミトリは、どうして自分の劇団が壊れてしまったのか、分からないのだ。だから心がすぐにも戻っていく。人として傷つくことがある度に。
…甘えだけどな。
「故郷だったんだな、君の」
 声をかけられて、デミトリの顔に僅かな狼狽が見えた。怪訝な面持ちでいたジャンが、かなり遅れて背後を振り向く。
「一度会ってみるといい」
新しい紙巻を取り出して唇に宛がう。
「昔の仲間に。気持ちが変わることもある。それとも、怖いか?」
返事をせずに、デミトリは帰って行った。
 ジダンとジャンは、照明の話に戻った。が、結論は出ず、明日に持ち越しと言うことになった。






 午後十時過ぎ、家に戻ったが仕事モードが抜けなかった。本番までの時間のなさが、ジダンの両脇を締め付けていたことは間違いない。
 ヨシプを呼んで、読み合わせをした。もう「こういうふうに」とは言わなかった。
 君ならどう思う。こういうふうに責められたら、どういうふうに考える。
 ヨシプは、困惑した顔をしていた。それは今までの作業とはまるで種類の違うことだった。自分の心の土を掘り起こし、種を植え、緑色の苗を育めと言うのだ。
 青年は抵抗を見せた。しかしジダンは止まらなかった。我慢も限界だった。このまま本番を迎えることを、肯んじることは出来なかった。
「例えば、どう思うんだ。今日みたいにみんなの前で、デミトリに攻撃されて」
「……別に…」
「何も考えないのか? そんなはずがあるか。君は人から敵意を向けられて、攻撃されて何も感じないというのか?」
「………」
「そんな人間はいない。誰だって他人から危害を加えられたら、傷つくはずだ」
 ヨシプの体の中で、ガキン、と歯車が軋むような音がした。それから、足元からめきめきと、後ろ向きな影が、彼の魂まで這い上がってきた。
「…ジダン。僕は、役立たずな人間です」
「…何?」
「…だから、あなたの用事に僕が不足なら」
 ヨシプは、なんともいえないいじけた目で、ジダンを見た。
「僕を解雇し、別の人を、雇ってください」




 たまった疲労が、全身を突き抜けるのが分かった。いっそジダンは泣きたかった。
 そうじゃない。そんなことが聞きたいんじゃない。
俺は、君にがんばってもらいたいのに。
君に、伸びてもらいたいのに。
 立ち上がり、かろうじてコートを引っつかんで、部屋から出た。居間には、背中を丸めたヨシプが残った。






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