scene 3
アキはその晩、嫌なことがあって不機嫌だった。夕飯を食べていたカフェーで変な男に絡まれたのだ。チャイナ? コリア? ジャポン? 言葉ワカル? 何故だか知らないが、昔、夜一人で電車に乗っていたら、中学生らしい男の子からいきなりジュースを引っ掛けられたこともある。本当に理由がわからない。 気持ちを切り替えようとタルトを買って帰った。と、部屋にいたる階段でジダン・レスコーとすれ違った。 「あれ。今から襲撃しようと思ってたのに」 「そうか。ごめん、ちょっと出てくる」 ジダンはろくに返事もせず、そのまま消えた。何か、微かな揺らぎを感じながらアキは昇る。 ジダンの部屋の玄関は開いていた。声をかけて中へ入ると、ヨシプが居間のラグの上に座り込んでいた。壁で静かに、時計が動いている。 「…どうしたの?」 彼がぼーっとしていることはよくあることだ。だが、その時の彼の両目には感情が滑っているように思えて、戸口からアキは尋ねた。 「彼はいい人だけど。やっぱり駄目かもしれない」 と、彼は呟いた。 「え?」 「僕はここにもいられないかもしれない」 「どうしてだろうな、クリスティナ!」 ジダンは、携帯で面食らうクリスティナと繋がりながら、人気の無い春の夜を、飛ぶように歩いた。 疲れているはずなのに、血と肉と骨の間で熱い爆発が心音のリズムで繰り返し起きて、足をバカみたいに速く回していた。 『え? なんですって?』 雑音が多くて聞きづらいらしい。彼女が高い声で聞き返してくる。 「なんでこう、うまくいかないんだろうなってさ!」 空を見上げた。住宅地だから、そんなには明るくない。建物で区切られた黒い布に、ぽつぽつと星が見えた。 春の生ぬるい風が顔にあたる。月が重たく光っている。爽快だった。顔が歪むくらい。 「俺は全力で疾走したいだけなんだぜ! …嘘やズルや誤魔化しなしに、本気で夢中になりたいだけだ! そんなこと、星も風も鳥も当たり前にやってのけてることなのに――――俺は恥かしいよ」 『………』 「バンコックは面白いのか?! 人間が上等か?! 同じだろ?! どこでも、こんなもんなんだろ?! 屋上に上ったあいつの気持ちが分かるぜ。こんな気分になったのも、別に初めてってわけじゃな……」 『ジダン、今、どこにいるの?』 眼鏡を取るのに忙しくて返事が出来なかった。暗闇の中で、耳に聞こえるクリスティナの声が綿のように柔らかかった。 私の家の場所、わかる? ――――ねえジダン、いらっしゃいよ。 |
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第14章 了 |
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