scene 1





こぼした乳を嘆くなということばがある
それをいうならこの道もこの街もこの土地も
辺り一面 むせるほどに
ぬかるむほどに




 朝、稽古場の廊下でデミトリはミラに腕を押さえられた。彼女は何か思いつめた真剣な表情だった。
「デミトリあのね。いつか言わなくちゃいけないと思っていたんだけどね」
 デミトリは、何となくぼんやりした顔で彼女の懸命な様子を眺めていた。頭の中は半分以上、疲労と昨夜の寝床とに、まだ浸っているようであった。
「デミトリが、私たちのことを大事にしてくれているのは本当によく分かってるの。オーギュ達が離脱した時も、取り残されたメンバーの為に、どれだけデミトリががんばってくれたか知ってる。
 …だから私、あんなことがあった後も、まだお芝居を辞めずに済んだんだと思う」
 オーギュストは英明な男で、劇団を離脱する際、有能な人間はほとんど引き抜いて行った。残された人間は、離脱そのものと同じくらい、自分が選ばれなかったことに暗い思いをさせられたものだ。
「本当に、感謝してるよ。解散した後も、励ましてくれて、一緒にここまで引っ張ってきてくれて。
 でもね――――でも、デミトリ。私たちの良くない点を、あなたが肩代わりしてそのために苦しんだり、人と喧嘩したりすることはないの」
 長い前置きに苛立ちを隠そうとして頭へやられたデミトリの手が、前髪を払う途中で停止した。
 心臓が肋骨の中で重い痛みを伴い、ぐん、と跳ねる。ミラの瞳は底なしに黒い。
「――――私、下手くそだよ。それはもうよく分かってる。だからオーギュは私なんか連れて行かなかったんだし、今回もマリー役を降ろされちゃったんだもの。―――そういうふうには考えてないけど、傍目から見たらそういうことだよね。
 でも、それは当たり前だよ。私が実力不足だから、苦しいの。私が至らないから演出に叱られるの。
 それをデミトリが、私の代わりに苦しむことはない。私は甘えん坊で今までずっとデミトリに励ましてもらってきたけど、もう自分のことは、自分で受けられるからね。
 私のことも、ジャン・バチストのことも、あなたがそんなに…、新しい仲間との間に軋轢を生んでまでがんばることはないよ。
 勿論、嬉しいよ。嬉しくないはずない。でもデミトリ、演技も普段も今、ボロボロだよ。すごく疲れてる。三人分を負ってるんだから当たり前だけど…」
 背から壁に落ち、めまいがした。
手や足の末端から血の気が引いて、妙に痺れて感度が悪くなった。
 ミラは続ける。
「私、ジャン・バチストに言うから。遅刻するなって。色々甘えるなって。私も甘えてた。本当は『α』にいた時に、皆でそう言わなくちゃいけなかったんだよ。
 でも、その度面倒だからまあいいかって逃げちゃってた。
 あの人、演技については尊敬するけど、でもやっぱり駄目。人間関係をぐちゃぐちゃにするもの。デミトリには大丈夫? お金たかったりしてない?」
 何のことだか分からなかった。それで聞くと、ミラは、ジャン・バチストが『α』で何人かのメンバーに金を無心していたことを話した。それで彼は嫌われていたのだと。
 勿論デミトリも、ジャン・バチストが一部の人間からひどく不評なことは知っていた。オーギュストとも馬は合わなかったようだ。
 しかしそれは、彼のシニカルな性格のためだろうと考えていた。ジャン・バチストは生真面目な彼には、そんな面をちらとも見せてはいなかったからだ。
 デミトリは呆然としながら稽古場へ入った。身が浮ついて頼りない上、ひどく頭が混乱していた。




 稽古開始と同時に、ジダンは変更した台本を全員に配った。全部ではなく、挿入箇所だけ。昨夜、クリスティナの家で徹夜で刷り上げたものだ。煙草の吸いすぎで未だに喉がいがらっぽかった。
 ミミとヨシプを呼んで演技をつけると、ミミのうまさが発揮されて、芝居全体の中で落ち窪むほど醜悪なシーンになった。絡んでいない役者達が周りで息を止めて見ている。
 無論、ジダンは恥かしかった。やりながら胃が痛かった。しかし、同時に俺はちゃんとしたぞ。とも思っていた。
 予定調和や、良識や、娯楽の安全なパターンや、自己弁護や、おもねりなどに負けずに、自分はちゃんと自分らしく仕事をした。後はこれを、突き詰めるまでだ。
 腰が据わったのを感じた。開き直りとも言うかもしれない。自分の友人や例えばフェイが、これを見てどんな思いをするかと考えると胸は騒いだが、それでもこれ以外にはない、という気持ちが体に大木のような芯を通していた。
「ジダン、これ本当にあったこと?」
 ジャン・バチストが大幅に遅刻してやってきて、ようやく通し稽古を始めようという直前、ミミが彼にそう聞いた。そうだと答えると、彼女は両腕を回して抱きしめてくれた。







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