scene 3





 午前の通し稽古はしどろもどろで終わった。台本を追加した部分ではなく、全体が流れを失して淀んでいた。見ているスタッフ達には、主な原因はデミトリの集中力のなさにあるように思われた。
 勿論、見るべき進歩もあった。ミラの成長は素晴らしかった。幾箇所かでは手抜きなジャン・バチストよりよく見えたほどだ。アキもがんばって食いついている。相変わらず演技は固く、何かが足を引っ張っているようではあるが、一生懸命だ。
 しかし芝居では役者のうちたった一人が不調でも、全体の質が落ち込んでしまう。常からのジャン・バチストの生半可、ヨシプのロボット演技に加えて、デミトリまでが上の空と来ては乗算して解がマイナスになってしまう。
 芝居が走り始めた当初には予想していなかった構図だ。うつろな目をして、未だに起き抜けのようなデミトリの顔を眺めた後、ジダンは昼休憩を告げた。




 デミトリは動揺していた。
しかし自覚はなかった。重苦しい岩が自分を押しつぶそうとしているのを感じていたが、跳ね返そうにも体が動かなかった。
 自分の身に何が起きているのかすら理解し損ねていた。幾筋もの電気が体中を走り回り、意識をバラバラに分解していくばかりで、どこまでも言葉が跳ね返ってこないのだ。
 昼休みの間、彼は気遣う人々の手を避けてたった一人屋上に座り込んでいた。するとやがて廃墟の教会のように空っぽな頭の中に、朝通し稽古をしていた芝居の台詞がひとりでに再生された。


――――「シリス」は瓦解したのだ。「シリス」はもうないのだ。「シリス」は


 デミトリにはそれが全て「α」のことに聞こえた。思えば彼もジダンも最初の劇団に関しては同じ過去の持ち主なのだ。ジダンの心境と彼のそれが被ることは有り得ることだった。
 ジダンは、俺がどんな気持ちだか知っているんだ。いや、正直頼りないところがある、守ってやらねばならないと思っていたミラでさえ、俺が今どんな馬鹿げた状態にあるか、俺自身よりも分かっていたのだ。
俺だけが。何も知らずにいたんだ。
 その言葉にたどり着いたとき、胸の辺りから血が天に向かって逆流を始めたような心地がした。デミトリは頬を赤らめ、目を見開き、右手で汗の滲む額を覆った。
 俺だけが、何も知らず、訳もわからず。どうして、どうしてだと渦のような疑惑の中でもがいて、居あわせたジダン・レスコーに噛み付き、しかも――――それをしまいには、許された(彼は「昔の仲間に会ってみろ」と言った!)。
 デミトリは、今思いもかけない悲惨な形で、自分の敵と味方とを明白に理解した。
 彼がその思い出を後生大事にしていたオーギュストを始めとする多くの「α」の仲間達は、彼になんらの情報も与えずに、深刻ぶりながら出し抜くかのような形で劇団を去った。おまけに自分達には必要ないと思われた人間の世話は彼一人に押し付けて。
 彼らにはデミトリの責任感の強さが、都合が良かったのだ。これは理屈というより勘で薄々と分かるのだが、彼らのうちの何人かは、デミトリの馬鹿正直さを笑いさえしているだろう。
 彼らはデミトリを見くびり、なめている。そうでなければ、昨晩のようなあんな電話はかけてこられないはずなのだ。
 そしてジャン・バチストは。今日も連絡もなく何時間も遅刻してきたあの男は。デミトリが座長として彼らを信頼し守ろうと努めていたその頃から、彼の誠実さに泥を塗るような真似をしていたという。
 何と嘆いたらいいのか分からなかった。やたら血流が心臓を押し上げ、視界を赤くしているけれど、この間抜けな自分の立場をどう処理したものか分からなかった。
 強盗に遭うということはこんな感じなのではないだろうか。頭はもう真っ白で、一体自分が不注意だったのか、相手が凶悪なのか判断がつかず、反省すべきか憤るべきかまるで分からない。
 ただ願うのは、そんな犯罪は、なかったことにしてくれ、ということだ。頼むから、怒らないから、俺から盗んでいったものを返してくれ。それだけでいい。
 だが盗品は戻らないし、卑劣と狡知で引き裂かれた集団の過去を取り繕うこともまた、叶わぬことだ。
 デミトリは最悪の形で、また最悪のタイミングで謎を解いてしまった。本番まで僅か九日というこの晴れた日の昼下がり、彼は自らの支えとなる何もかもを、突然失ってしまったのだ。
 俺の歩く道にはこんなことしかないのか。まさにこの芝居のように、筋違いな批難や、嫉妬や、自己愛や、誤魔化しや、計略や、裏切りしかないのか。
 どうして。どうしてなんだ。どうしてみんな途中でやめてしまったんだ。「α」なら、ある極まで行ける。必ずたどり着けると俺は信じていたのに。
 今ここに残っているものは、空費された正直と、地下鉄のホームの闇のような、冷えた孤独。
 彼は劇団が解散してから後、あまりに必死になってきたので、絶望したことはなかった。だが、今は少し考えた。
 思えばなんておあつらえ向きの高さなんだ、ここは。そう思ってデミトリは前を見た。彼は勿論、向かいの建物から昔、男が一人落ちたことなど知らない。
 だが、死にたい人間が電車に吸い込まれるという気持ち、高い場所へ呼ばれるという気持ちが、今は何となく分かるような気がするのだった。
 座り込んだきり二度と立ち上がれないような気分だったが、スタッフの助手の一人が彼を探して呼びに来た。午後の稽古が開始になるというのだ。




 午後も通し稽古から始まった。だが、午前と同じ道を通って同じところへ落ちた。稽古場に徒労感が漂い、ジダンはうならざるを得なかった。
 こんな状態では、例のあの、JRとミミとデミトリで笑い合うシーンなど、ほとんど地獄の宴会のようである。
 一度目の通し稽古が終わった頃、制作のクリスティナと一緒にプロデューサのヤコブ・アイゼンシュタットが稽古場に現われた。アキは目で挨拶をしただけで、少し難しい顔をすぐに伏せた。ベテランの彼にこんな稽古場を見られるのが、恥かしかったのである。
「――――ジャン・バチスト。一三場から一四場の転換部、もう少し落ち着いてちゃんとやってくれ。こなし感が見え見えだぞ」
「こう馬鹿みたいにしつこく通しやったら体力なくなって当然でしょ」
「言い訳するな。出来が悪いから繰り返すんだ」
 再度通し稽古をすると言われてジャン・バチストは不機嫌だった。ジダンは彼の側に身を寄せると、声を低く、だが鋭くして言う。
「金を返す気はないだろう。その分は働け」
「あんなはした金で」
彼は頬に皺を寄せて憎まれ口を叩いた。
「デミトリ…。…どうした?」
 次にデミトリに対して駄目を出そうと向き直った瞬間、ジダンは彼が蒼白になっているのでびっくりした。その視線が自分の方へ向かっていることを見てとったジャン・バチストが、素早く身を翻して離れていく。
 彼の背を凝視するデミトリの目はこう言っていた。
―――――ジダンに、まで。
 ジダンは彼に対して慣れだけで舞台を回さず集中して、などと注意したが、デミトリがまともに聞いていないことは明白だった。
 ミミは目で「やりにくいぞー」というサインを送ってくるし、ミラとアキは稽古場の雰囲気に歯痛をこらえるような表情だ。その横でヨシプはジダンに対し壁を作って牽制してくる。
要求するな。自分には不可能だと。
「なんつー素晴らしい稽古場だ。ここは」
 思わずぼやきながら演出席に戻り、二十分後再度通すと告知した。そろそろタウリンも切れかけていた。




 午後二度目の通しが開始された。やはりミラがよかった。コツを掴んだらしく、生きのいい魚を釣るようにぐいぐいと場を引っ張っていく。だが問題分子がそのままなので、結果つなぎは小気味良いのに、シーンは落ち込んでいるというおかしな状態になりながら、芝居は進んでいった。
「デミトリ君はどうしたんだ」
 壁際でヤコブが呟いた。デミトリが台詞を抜かしプロンプターの世話になるたびに、見ている方も呼吸が止まりそうになる。
「さあね。まあ苦しい時期ではあるでしょうけど、今日は随分ひどいわね」
と、クリスティナ。
「――――にしても、奴は台詞どおりのたらしだ」
「誰? ジダンのこと?」
 ヤコブ・アイゼンシュタットは顎を引き、組んだ腕を一層深く組みなおした。
「アキが、知らない女みたいに見える」
「…ああ…そうね。まだぐらぐらしている最中だけど、最初に比べるとかなり違う感じになったわね」
 またデミトリが台詞を間違えた。勘と根気のあるプロンプターでなかったならば、芝居が途中で止まったかもしれない。
 しかも失態をするたびに、彼の顔には影が深まり、ますます自分の首をしめていた。最後には彼が何かの理由でひどく苦しんでいることが、その場のほとんど全ての人間に伝わった。







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