scene 4





 二度目の通し稽古の後は、ことに問題のある場ごとの稽古に移った。
 ジダンは残りの時間でヨシプを捕まえられないかと考えていた。部屋で二人きりだと逃げられてしまう可能性が大なので、ミミやアキとも一緒に、物真似から演技へなんとか移行出来ないものか、足掻いてみるべきだと思ったのである。
 ヨシプは無気力に抗ったが、ミミやアキ、ミラは協力的で、当人嫌々ながらも稽古は重ねられた。
 とっくに日は暮れ、窓の外は真っ暗だ。ふと時計を見ると夜十時を回っている。稽古の習熟度も思うように上がらず、さすがにみんなの疲労も濃くなっていた。
 デミトリなどは壁際に座り込み、行き場のない男のように顔をぐったり伏せている。
 彼は草臥れ果てていた。今日一日の中で、あまりに激しい葛藤と苦渋を味わったため、彼自身の理性が麻痺してしまったのを感じていた。
 疲労は重い水のように彼の衣服にまとわりつき、失われて回復の見込みの立たぬ絶望が、彼の本質に深刻な傷をつけようとしていた。
 人はこうやって、音もなく、人々の側にあって、擦り切れていくものなのだ。
 その時デミトリは何故か、いつか書店で会った、全身黒づくめの男のことを考えていた。
 一方ジダンも、そろそろ切り上げるつもりではあった。まだ今日以降のこともある。明日の稽古は午後からだが、役者達のモチベーションはどちらせによもう限界だろう。
「じゃあ最後に一度七場から八場を通して、それで終わりにしよう。皆、集まってくれ」
 稽古場に喝を入れるように手を打ち鳴らす。ヨシプの周りにいなかった役者達がそれぞれ無言で集まってきた。
 デミトリは、一番最後に腰を上げ、立ち上がってすたすた中央へやって来た。立ち位置はJR役のヨシプのすぐ側だ。
 女達にあれこれと演技指導されながらも、無抵抗で無気力なヨシプを見ていると、デミトリは胃の底から、熱くもない嫌味の泡が、少しずつ食道を昇ってくるのを感じた。
「お前みたいな無気力な奴に何やっても無駄だよな――――」
 ああ。何か俺は今、浅ましい水を飲もうとしてはいないか。デミトリはそう薄く感じながら、ジダンが開始を告げて両手を打ち鳴らしたのを聞いていた。
 だが意識は麻痺から戻ってこなかった。湯をかけられても、今なら何も感じないかもしれない。
「無駄だと思うなら、黙っていればいい…」
 珍しいことに、ヨシプは低い声でそれに応酬した。一月にならんとしている二人の付き合いの中で、初めてのことだ。
 おそらく、ヨシプも長時間できぬことをやれと攻め立てられて参っていたのだろうが、結果それはデミトリの相手をすることになってしまった。
 稽古は続いている。今はミミが喋っているところだ。
「…お前はいいよな。いつも無表情で、人間らしい感情のひとつもない。機械みたいにな。だから悩むことなんか何もない。結構だ」
「………」
「だが機械には向上心はない。だから周りが何言ったって駄目だ。無駄だよ。人間じゃないんだからな」
「…偽善は止めろよ…」
 ジダンや、アキや、周りで見ているスタッフ達が、彼らが芝居とは別にもそもそ喋っていることに気付いて怪訝な顔をしていた。
「…なんだと?」
「――――」
 二人の視線が絡み合った。珍しく攻撃的な表情を浮かべたヨシプは、やがてこう続ける。
「あんたは俺には文句を言う…。でもあんた自身が台詞や出をトチることは問題ないってわけなんだろ…。都合のいい演技論だよな…」
 満場の注意がデミトリに集中した。
会話の内容が聞こえたわけではなく、彼の台詞の番だったのである。
 だが、デミトリはその瞬間、こわばった顔を朱に染めて、一言も発することが出来なかった。ヨシプの言葉に見事急所を突かれたのだ。
 立ちすくむ彼を見て、ヨシプの口元が僅かに笑みを刻んだ。
「あんたの台詞だよ…。ほら、
『違う。悪かったのは僕ではない。
裏切られた僕に、咎などがあってはならない』」
 それを、信じられないほど自分に似た声と、全く同じ言い回しで言われたデミトリは、目の前に鏡を置かれたような気がした。
 世界が横様に真っ赤になった。
スローモーションのように引き伸ばされた時刻の中で彼は引きつり、壊れて空気漏れを起こす機械のように無音で長く叫んだ。
 そして肯んじることの出来ぬ自分自身に向かって、拳を突き出した。




 ―――――まともに顔へ入った。背の高いヨシプが均衡を失って倒れる。皆が一斉に息を飲んだ。
「ちょ…、おい!」
「どうした?! やめろ!」
 うろたえた声が、次に体が殺到する。座り込んだヨシプに向かって進もうとするデミトリの腕を、背中から誰かが取ろうとした。
「まっとうな人間ですらないくせに!! 猿真似だけが芸のうすのろの出来損ないのくせに!!」
 デミトリは全身で叫んだが、自分が叫んだのではないようだった。麻痺とか何とかいう以前に、顔面が消失してしまったかのようで、どれだけ叫んでも、手応えがなかった。
 それで、うるさくすがる誰かの腕を振り払いながら、尚も喚いた。そうしていないと気絶しそうだった。
「お前なんかに人並みの感情なんか分かるわけがないんだ! 芝居なんかできるわけがないんだ!
 ――――人形!! …出来損ない!! 親を殺されたって間抜け面してのろのろ生きてるだけの不感症野郎が!!」
 演出机を乗り越えて前に出たてだったジダンはその瞬間、床に座るヨシプの目に、異様な光が流れたのを見て、全身の皮膚が粟立った。
 それは彼だけでなく、ヨシプの側に膝をついていたミミもぎょっと上体を浮かせる。
 その隙に―――――普段の魯鈍さに比べると、神がかりの速さだった―――――ヨシプは獣のような敏捷さで彼に飛び掛り、中空に拳を振りかぶった。
「ぅわっ!」
 叫んだのは多分、背後からデミトリを押さえていたジャン・バチストだろう。それほどヨシプの動きには殺気が漲っていた。
 その時ジダンは、瞬きを一度する間に、確かに、色々なものが砕け散る音を耳朶の奥深くに聞いていた。にもかかわらず止めることの出来ないその行為を、ため息のような悲鳴を漏らして見つめていた。
 だが実際にそのヨシプの拳を受けたのは、デミトリではなかった。直前に彼らの間に飛び込んだ、
アキだった。
「―――――ッ!!」
 ヨシプの拳が小さな顎を殴りつけた。アキの体が吹っ飛んで、肩口から床へ落ちた。みんなが信じられないような顔でその有様を見ていた。
「………!!」
 ヨシプも、デミトリも、興奮から目を覚ました殺人者のように、驚愕のうちに横たわる彼女の体を見ていた。
「――――アキ!」
 遠くでヤコブが叫んだが、その声より先に、彼女は自分で立ち上がった。向き直ると、拳が当たったらしい頬を押さえながら、口を開けたデミトリを怒鳴りつけた。
「――――馬鹿!! 馬鹿!!
 何でそんなこと言うの――――何でそんなこと言うのよお!!」
 彼女は泣いていた。唖然としたヨシプを背にかばい、上体を折り曲げ、見たこともないようなくしゃくしゃの顔で、泣いていた。
「謝ってよ! ヨシプに謝ってよ!! 何でそんなひどいこと言うのよ?!!
 言ったもの勝ちなの?! 人を侮辱するのがそんなに好きなの?! 失礼よ!! 無礼にも程があるわ!! どういう権利でヨシプをどうこういうの!! あなた方に何が分かるっていうの!!
 どうしてそんなひどいことを口に出せるの!!
あたしは―――――…! あたしは―――――」
 彼女の絶叫は、稽古場にいた全員の耳に届いた。
「あんた達のそういうところ、大嫌いよ!!」
 そう叫んで、二つ息を吸う後に、彼女は崩れ落ちた。人形の糸が切れたようだった。それから小さな女の子のように、顔を覆って泣き出した。
 クリスティナが黙って飛び込んで来てアキを立たせ、稽古場から連れ出した。手当てが必要だったからだ。
残る面々は未だ、呆然としていた。
 まずデミトリに、それからヨシプに帰るようにと告げた後、ジダンは皆を解散させた。
 演出机に戻ると、側にヤコブが立っていた。彼はなんとも苦い、苦い笑みを浮かべていた。
 アキが懸命に笑顔の奥に隠していたものがなんだったのか、ジダンにももう分かっていた。彼らは言葉を交わさず、別れた。




 そのまま誰とも連れあわず、独りで稽古場を出た。春の夜には重くて黄色い月が浮かんでおり、街は明るく、ジダンはまるで誰かの絵の中にでも紛れ込んだような気がした。





第16章 了



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