scene 2
ジダンは酒を飲んで帰ることにした。空腹で消沈し混乱したまま部屋には戻れない。とにかくワンクッションおいて、落ち着かねばならないと思ったのだ。 二度か三度入ったことのあるカフェーに入り、カウンター席について赤ワインとサンドイッチを頼んだ。携帯が震えるので取り出すと、クリスティナからだ。 アキの顔は、まあ腫れてはいて、あざが出来るかもしれないが、幸い顎関節や骨などに異状はなかった。とのことだ。本人もようやく落ち着いて、先ほどヤコブと一緒に帰っていった。 ごくろーさん。と友人の文体でジダンは返信した。また明日昼までに変わったこと(メンバーの離脱とか)があったら教えてくれ、と付け加えて。 携帯を投げ出してサンドイッチを食べる。心が塞いでいる分、集中してがつがつと食べた。我ながら行儀の悪い中学生みたいだと感じたが、もう恥や外聞というレベルじゃない。 その後、ワインを二杯ほどお代わりした。水みたいに飲んだ。 前にもこれに近い飲み方をしたな。と三杯目の終わりに考えた。エマにやられて、ビールを立て続けに煽って、街をふらついて地下鉄でギター弾きに諭されたっけ。それから無理だ、と思い、それから…? ええと、それから――――― 葡萄酒くさい吐息でそこまで考えた時、思いがけない男が彼の横に滑り込んで来て、 「こんばんは、レスコーさん」 にこやかに挨拶した。 ジダンは驚きのせいか思わず石みたいな無表情で彼を出迎えてしまった。 そこにいたのは相も変わらぬ黒づくめのセレブ男。 LDだ。 LD氏は今夜も饒舌で、生気のないジダンの横で一人、笑みながら縷縷と喋った。思えば夜間、彼に会うのは初めてのような気がするが、随所に昼にはない夜気を滲ませ、手の上げ下げ一つをとっても、驚くほど貴族的で流麗な印象が生まれていた。 おそらく大体が夜属性の人間なのだろう。あまりにしっくり馴染みすぎていた。カフェーの扉の外に張りつめた春の夜や、灯りが届ききらぬ店内の陰影と彼の瞳は、兄弟であるかのように同じ色をしている。 疲労したジダンはろくに話もしなかったが、彼は気にせずいつまでも一人で話した。耳元に流れ続けるその低い声は、不快なようでもあり、――――不思議なことに、救いのようでもあった。 とにもかくにもこの孤独で沈黙の辛い夜に、彼は影の如く自分に寄り添い、意地悪さなど微塵も見せずやさしく囁きかけてくれるのだ。 じきにジダンは眠たくなってきた。大体春の夜ということだけでも眠気を誘うのに、ワイン。それに昨日の夜から一睡もしていない。 立ったままでもいい。冷たそうな大理石のカウンターに突っ伏せたらどんなに気持ちがいいだろう。 ジダン、大丈夫ですか? 眠いながら眠ってもいいんですよ。 LDの声が聞こえる。いやしかし、そんな非常識な。こんなところで倒れちゃ駄目だろうに。 そう思っている肩に、LDの手が触れる。支えてくれるというのだろうか。上着ごしなのに、何故か恐ろしく気持ちが良かった。疲れが吸い取られてぞっと体が浮いていくようなたまらない感じがする。 眠い。――――眠い。 五分間だけでいいから、ここでダウンしたい。 手綱を放しかけたその時。 誰かが反対側からジダンの隣に直線的に切り込み、どん、とどついてきた。ジダンは驚いて目を覚まし、その客の邪魔にならないように咄嗟に体を引き起こす。 隣に来たのは、小太りの、三〇前後の男だった。赤茶けた頭髪は薄く、同じ様に眉も薄いので、上まぶたがせり出した額に切られていかにも不機嫌そうに見えた。 「ジダン・レスコー。俺のことを覚えてるだろうな」 「……?」 どうやらジダンのことを知っていて話に来た、という様子だった。が、どうにも友好的な雰囲気でない上に、記憶にない。 「…すまん。どこで会ったんだったかな。最近どうも物覚えが悪くて」 目をこすりながら言うと、男はいきなり悪意を剥き出しにした。 「とぼけるんじゃねえよ、ヴァカが」 「―――――は?」 ジダンはこれは夢か何かか、と考える。夢では、見知らぬ人に追っかけられたり、不可解な目に遭ったり、面識のない相手に狙われたり、あるではないか。 「俺はお前に恥をかかされた。局でな。まさか俺が直接来るなんて思いもしなかったんだろうが、びびって今頃とぼけてみせても遅いんだよ」 ――――ああ。 そう言われれば、男の眼光のこの禍々しさには心当たりがあるようだ。半年くらい前だったか、一年前だったか、とある番組の演出をした時、あまりに手際の悪い音響スタッフがいて苦労させられたことがった。 打ち合わせの時話を聞いていない。一人合点で計画と違うことをする。技術がないのを誤魔化す。大雑把でミスが多く態度が悪いなど、色々と散々だったが、ある時彼が機器の設置方法を間違えていたためそれが動かず、ジダンは現場で誤りを説明し、正しい方法を教えたことがあった。 別段大声で怒鳴りつけたりしたわけではない。だが彼は、十分プライドを傷つけられたらしく、ろくに返事もしないで、上目遣いでぎろりとジダンを睨んだものだ。 その幸福な碧眼の持ち主が、今頃何の用事だろうか。 「無視すんじゃねえよ」 「え?」 「無視してんだろうが。俺から逃げようたって甘いんだよ。俺はお前から受けた屈辱は一生忘れねえ。その俺がかけてやった電話シカトすんじゃねえよ。変態ロリコン野郎が。ヴァカ。ヴァーカ」 「――――…」 なんかもう、ジダンはおかしくなってきてしまった。この仕事一つまともに出来ない男が、一人でぐるぐる自分の箱の中を回りまわって、自分が傷つかないために世間を馬鹿にし、人を罵倒し、――――ジダンの家の留守電に何十件もの着信を記録したりして長い二四時間を何年も何十年も回してきたのかと思うと、 ショウゲキだ。 すごいよ。神様はやはり偉大だ。こんなナンセンスな戯曲、人間にはなかなか書けない。 自棄にも近い心境でジダンは覚えずくすりと笑った。 だがこれは失策だった。 それを目にした途端、かっとなった男がいきなりジダンを殴りつけたからだ。 きゃあっ? というざわめきがたった。 受け身も取れず、ジダンはテーブル席へ続く仕切りまで流されて止まった。支柱に背中を打ちつけたが、切れた唇の方が痛かった。驚いた客の視線が方々からジダンを取り囲む。 ジダンは目を覚ましていた。眼鏡が無事でよかった、暴力沙汰の多い日だ。 もう眠たくはなかった。それどころか白けていた。 心がカラカラになってしまう感じ。ぐったりと草臥れきる感じ。この感覚を知ってる。名前も知っている。 現在の状況を嘆くに留まらぬ。 これは、「人」そのものに対する失望だ。 エマは俺を売って、ジャン・バチストは俺から金を掠め取り、マリーは俺を孤独の栓に使おうとし、この男は自尊心に凝り固まってほとんど狂人だ。 こんなことが人間の本質なのか。こんな下らない精神が人間なのか。人間には、こんな世界しか作ることが出来ないのか。こんな行為しか出来ないのか。 全身から力が抜けた。 もう考えるのはおろか、呼吸すら面倒くさい。 一方で場は何故かLDが引き受けていた。ジダンが殴られるとすぐ、彼の前に割って入り、男を止める。 男は、スポーツマンじみて上背があり、男らしく堂々と振舞うLDを前にした途端、人格が入れ替わるように萎縮した。どうしてそんなことをするんだと詰問するLDに、うって変わってぼそぼそと、意味の通じないことを言う。 「来い」 しまいにLDは彼の首根っこを掴んで、家畜でもぶら下げるような手つきでカフェーから連れ出した。その顔には何かとんでもない邪気が漂っていたが、ジダンは見なかった。 一瞬シーンとしていた店の空気が、またざわめきに埋まっていく。ギャルソン達は思ったより面倒にならなかったのでほっとしていた。今頃カウンターの中から大丈夫ですか? とおしぼりをくれる。黙ってズキズキ波打つ顔面に当てた。 五分ほどで、LDは戻ってきた。服から血の匂いがした。 「あの男、どうしたんだ」 尋ねるのに応えて静かに冷笑する。 「あんなものどうなろうが気にすることはないでしょう。生きていようが死んでいようが何の役にも立たないウジ虫ですよ」 LDはギャルソンに何やらややこしそうな白っぽいカクテルを頼んでいた。ジダンのグラスが空なのを見ると、同じものをこちらにも、と付け加える。 |
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