scene 2





 開始五分前のベルが鳴る。ここで一旦ドアを閉めるため、それ以降の来客はスタッフに任せて二人とも客席へもぐりこんだ。
 客は十数人しかいないから席はガラガラだ。適当な場所へ体を滑らせ坐ると同時、ジャンが客電をすーっと落とし始めた。
 何回かの段階を踏み、最後には夜の海のように、真っ暗闇になる。誰かの咳払いが聞こえた。足を組替える音もする。
 客たちは気楽に最初の仕掛けを待ち受けているわけだが、ジダンは祈るような思いで手先が落ち着かない。
 ヨシプはちゃんと練習通り動くだろうか。足音を消してやってくるだろうか。暗闇の中で正しい立ち位置に立つだろうか、灯りは魔法のように入るだろうか。
 そもそも芝居はちゃんと成立しているのだろうか。実際面白いのだろうか。客に終了後「くだらねえ」と言われたらどうしよう。
 次々に湧く彼の心配とは別に、舞台上に光が落ち、正しくそれを浴びてJRの姿が浮かび上がった。想定したとおり、本人と見分けがつかないほどそっくりな雰囲気で、「魔法のよう」に。
 喉元にたまった息をそっと吐き出す。彼は、ちゃんとやったのである。




「ファンタジーばやりである…。
 皆さんお望みで金になるとあっては、いつか自分もするかも知れぬ。
 そんなものだ。いつまでたっても仕事はあまり選べない。天から降ってくるか地から湧いてくるか。」


「だが、今回は珍しく何もからんでない舞台だ。ほとんどが初めて仕事をする連中で、皆若くて、貧乏人で、全然無名。だからここだけの話、興行成績に気を使う必要もない。
 評論家の先生方も誰一人注目してるってこともないから、プライドをかけてやんなきゃいけない訳でもない。
 捨て鉢だ。捨て鉢の舞台へようこそ」





「――――うまくなったわね」
 耳元でクリスティナが囁く。
「ああ」
ジダンは一心に彼を見つめたまま答えた。
「怖いくらいだ」
 さっきも袖で初心者らしからぬことを言っていたが…、実際、ヨシプは少々化け物じみていた。毎日、稽古を重ねれば重ねただけ成長した。もう伸びようもないと思っている部分も、台詞を言う度、透明の壁をすり抜けて正解へとますます近づいていった。
 ジダンは他の役者達が「信じられない」といった顔をするのを時折目にしていた。ミラなどは、ある時こう言ってたっけ。
 私は最初から真面目に全力疾走で、中盤では正直いって彼よりもずっと前を走ってると思ってた。それなのにヨシプは、ゴール前で突然加速し、訳もなく私を追い抜いていった。
 しかもそのタネが分からない。見ていても真似できないのだ。『まるで手品みたい』と。
 今はもう、役者達も誰も彼のことを甘く見ない。普段は前と同様ぼんやりして、垢抜けたところのまるでないもっさりした青年だが、一度舞台へ上れば、魅力的な声を揮い、刻一刻と変わっていく彼から意識を逸らさないでいることは難しかった。
 彼は驚異と不可解と羨望の目で見られた。彼は出所の分からない馬力を持っていた。おそらく人が、才能と呼ぶものだ。
「私、あの子の未来を見届けてみたいわ」
「いいじゃないか。君が彼をもっと広い場所へ導いてやるといい」
「部屋はどうするの?」
「まだ何も話し合ってない。ここ一週間、お互い飛ぶような毎日だったからな。だがまあ一旦実家へ戻るんじゃないか。とんでもなく遠いわけでもなし」
「…ふふ、寂しいんじゃない?」
「いいや? シリアルの残りをどうしようかと思ってるだけだ」
 ジダンは即座に否定した。自戒の意味も含めて。彼らの部屋の上階には、ヤコブとアキが暮らしていたのだ。




「…たとえ残りの日で信じられない動員数があったとしても、二度とはやりません。これっきりの、『JRの最後の物語』にようこそ」




 黙礼をきっかけに音楽が鳴り始め、意図に相応しい空気が現われる。少なくとも導入は成立していた。よしよしと唱えたその時、一人の遅れた客が音楽に紛れ通路を下りてきたのに目が行った。
 フェイだ。
瞬間、席の中で体が浮き上がるような感じがした。
 影法師だが判った。背広の上着を腕にかけ、鞄を持っている。
 彼の方は闇の中でジダン達に気付くことなくすばやく進んで、通路を挟んだ斜め前あたりの空席に体を沈めた。
 舞台上では、ばくち屋のジャン・バチストが台詞を終えたところだ。クリスティナが合図するように視線を向けてくる。黙って頷いたが
――――来た。
というその出目に、胸中で熱い思慮が堰を切り、血流のように全身を巡っていた。
 彼は、どう思うだろうか。怒る。恨む。
…白ける?
 そもそも彼は知っているのだろうか。知らないでいるのだろうか。彼の妻であるマリーが、彼との生活は「虚しい」と言って…
 目が回るほど血が沸いたが、歯を食いしばるように我慢して、無理矢理に、舞台へと意識を戻した。
 もう幕は上がり、芝居は滑り出している。ジダンが客席でどれほど恐れても、止めることは出来ない。
続けるしかない。
 自分は、今まで好きなことをしてきた。結局それを許されてきた。
 舞台を作ろうという時には仲間がいて、自分の指示に従ってくれた。彼の話を真剣に聞き、補佐してくれる男もいた。ジダンは遠慮なく彼らの若さを貪った。
 だのに信念だのと抜かしてその劇団も解散させた。今は許可も取らずに彼らのことを芝居にしている。
だからそう、



「私には考えられない厚顔だ!」



 まさに彼が台詞どおり腹を立てたとしても無理もないのだ。
 この上彼に、どうか自分を恨まないでくれなどと要求することは有り得ない。それはフェイの感情であり、自由であり、決して手を触れてはならない場所だ。
 失礼はとうに為されて一本の芝居になり、目の前を流れている。何を言われても、途中で席を立たれても、絶交されたとしても、それを引き受けねばならない。彼にはその権利があるし、恐らくその覚悟で来ているだろう――――
 だから、とジダンは組み合わせた手を硬く握り締めた。自分も覚悟を決めて、彼に怯えず、ひるむこともなく、さらに先を目指すのだ。
 中途半端な態度で彼に媚びることだけは絶対にしてはならない。直感がそう告げている。
 フェイは、そんなことを望んではいない。彼はそういう人間ではない。いつだって真剣だった。いつだって燃えていた。
 自分は彼に惚れ、彼を通して世界を見た。
 だから本当に彼を「裏切る」ことがないように、今は同じくらい冷徹な目を以って、芝居の質だけに意識を集中するのだ。それがこんな児戯を企んだ、自分の責任だ。
 さいころの出目など知ったことじゃない。悪魔にでも呉れてやれ。
 二場が終わり、三場。四場、五場、六場。
谷を過ぎ、山を越え、出来ていることも出来ていないことも、客に対し恥かしいほど露わにしながら芝居は進んでいった。
 毎日稽古してきた舞台も、こうして最も厳しい観客の目を意識するとまるで見え方が違ってくる。弱点が痛いほど露わになるのだ。
 誰もミスしてないのに何故か間が外れ流れてしまっているところがある(多分誰かが急ぎすぎたのだ)。台詞が音としての重さに欠ける箇所がある(変更すべきか?)。最後に、――――やはりどうしても、照明が足りなかった(気付いていない振りをすべきなのだろうか?)。
 芝居自体は甚大なミスを起こすこともなく93分で走りぬけたが、終了した時、ジダンは客席で息も絶え絶えになっていた。
「いい芝居じゃない」
 クリスティナが言うのに、
「そーお?」
と胃を押さえながら返答する。これがループになるのだが、いわゆる「地獄みたいに熱い」カフェインが欲しかった。







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