scene 3
終了と同時にロビーへ出て、客を待ち受ける。挨拶や意見やお世辞などをありがたく頂戴しつつ、彼らを送り出していった。 やがてほとんどロビーが空っぽになった頃、フェイがジダンの前へ現われた。 ジダンは、思わず両手をだらりと下ろしたまま、真正面から彼の顔を見つめてしまった。劇団を解散して以来五年、まともに話もしていない。 別れた頃は昨日まで大学生だったと言っても通じるような、簡潔な格好を好む目元の涼しげな青年だった。今は季節柄もあるが、三つ揃えのスーツを着こなし、油断のならないビジネスマンの面持ち。革の鞄を下げ、靴は磨かれ、先端に白い光が滑っている。 ジダンは、何を言ったらいいか分からずにそのまま突っ立っていた。というよりも、彼は芝居で全てのことを話してしまっていたのだ。今更何か言おうとすれば社交辞令を持ち出すほかなかった。 だが彼は、そんなことを一言もフェイに言いたいとは思わなかった。そんなことをしたら、今まで型にはめることなく、絶えず生かしていた二人の関係を、もっと分かり易い別の容れ物に放り込んでしまうことになる。 それは嫌だったのでいっそのこと黙っていた。フェイも挨拶しなかった。多分、同じ気持ちだったのだろう。 しばらく経った後、彼の方から、口を開いた。 「―――――金が足りないのか」 「…え?」 その言葉の意味は分かった。だがそれよりも、声の懐かしさにうろたえて口ごもってしまった。 フェイは冷静な顔のまま、上着の内ポケットに手を差し入れ、独特の硬さと厚みを持つ印紙を取り出した。 小切手だった。精確に、嫌味でもなく足りなくもない程度の金額が書かれている。 「照明をなんとかしろ。そうしたらまあ、いくらか見れる舞台になるだろう」 終演後、客席で用意したものらしかった。ジダンはとても手を持ち上げられなかった。するとフェイは腕を伸ばし、彼のジャケットのポケットに紙を押し込んだ。 「――――フェイ…」 ジダンは、ようやくのことで彼の名を呼ぶ。 「遠慮するな。うちのスペースでやってれば余ってたくらいの金だ。 …書類を見た瞬間、思わず却下してしまった。理由は未だに…、よく分からないんだが」 彼は首を斜にねじりながら、皮肉な笑みをひねり出した。 「…だがまあ虫の知らせかな? こういったものを見せられるんじゃないかという」 「…すまん」 その目を見た瞬間、ジダンは知ってしまった。フェイは今日まで、全く何も知らなかったのだと。 結婚した後、マリーが、ジダンの下にあやしい決意をもってやってきて、痛々しい一人芝居をしたこと。ジダンが、失望を味わい逃げ出したこと。二人ともが、それを何年もの間彼に内緒にしていた。 彼は一体どんな気分で、南へと彼女を送り出したのだろう。そして今日、家へ帰り一人になった時、何を考え眠るのだろう。 だが、とてもそんな箇所へ手を伸ばす勇気はなかった。口では別のことを謝っていた。 「知らなかったんだ。あのスペースを君の会社が管理していたとは…」 「――――出資したからな」 遮ぎられる。 「楽日にでも、また来させてもらう」 「分かった…」 「ジダン」 昔と同じ音で呼ばれ、生物的な素直さでジダンはついと顔を上げた。フェイは変わらず静かな笑みを浮かべている。 美しい切れ長の眼の中に、落ち着いた黒い瞳。けれどジダンは凍りついた。その背後で感情とプライドが激しく相克し、血が下から上へ逆巻いているのが分かった。 ぴしりと笑顔に苦いひびが入る。だが、そこまでだった。彼は、途方もない自制心をもって体面を維持したまま、声だけに全てを込め、言った。 「――――お前という奴は…!」 彼がロビーから姿を消すと、遠くで一部始終を見ていたクリスティナが、近寄ってきた。 ジダンは黙ったまま、彼女に小切手を渡す。 「すぐにジャンと相談して、追加機材を手配するわ。それから舞台で、みんなが待ってるわよ」 「分かった…」 彼女と別れ、中へ戻った。 キャスト、スタッフ共に、舞台上で或いはブースの中で演出の講評と指示を待っていた。ジダンは概ね満足だと素直に彼らに伝えた後、気になった箇所の稽古、修正を始めた。 役者達は若いせいかまだ全然元気で、テンションと集中力を保っていたが、実のところ、客席でジダンは少し泣きたかった。 俺は下らない。俺は本当に下らない。フェイは、あいつは、俺なんかよりよほど寛大で優れていて強く、そして孤独な人間なんだと思うと、それだけで涙が滲んできた。 やがてヨシプとデミトリを呼び、台詞を変更する旨を伝えた。『デミトリ』役の説明を掛け合いで行う場面に、以下の二文を追加し、あわせて前後を少々修正したのである。 『なにより、彼は俺の芝居を愛してくれた』 『かみさまみたいだった』 そうしてゲネプロは終了した。 翌日から公演が始まった。 |
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第22章 了 |
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