scene 1





 あっけなく公演の幕は開けた。
初日は夜の部からの開始だったので、追加の照明機材も無事間に合った。
「お金があるっていいことだなあ」
とはジャンの弁だ。思えばテレビ局ではついぞ聞かなかった涙ぐましい台詞である。
 ジダンは今回、初日が明けて以降の変更はほとんどしなかったので、キャストもスタッフも基本、決まった手順を繰り返すことになった。二日目くらいから余裕を覚えた一部の役者がアドリブをかまし始め、主に新人(つまりヨシプのことだが)の慌てぶりを見ては喜ぶといった人の悪い遊びを始めた。
「ジダン。ミミが三人の宴会のシーンで『そういえばあなたの頭の中のヒバリは元気?』とか言うんだけど」
 休憩中、ヨシプがのたのたやってきてジダンに苦情を言う。ジダンは一言、
「耐えろ」
と申し渡した。
以来そのシーンは我慢大会になった。
 彼女がふざけた時のヨシプの武器は、意外にも無表情だった。
「そういえばあなたの頭の中のヤマネ(だんだん進化していた)は元気?」
と来て、やばいくらい長い間感情ゼロの無表情を浮かべられたあと、
「――――――で」
と、おもむろに台詞を言われるとミミのみならずデミトリまでが吹きだしそうになってガクガクしていた。勿論、客席には「?」という空気が流れている。
 それでもミミはその悪ふざけをやめなかった。ジダンも特に止めなかった。寧ろスタッフ達と一緒に袖から舞台を覗いては、日替わりのネタを楽しみにしていた。
 ところでそのヨシプ青年に、見知らぬファンから花が届けられたことがあって楽屋は騒然となった。どうやら初日を見た演劇好きの女性らしく、その日また当日券を入手して見に来た二回目さんらしかった。
 メッセージカードの形式だったので、慎みのない役者全員と、一部スタッフにまで内容が流出し、特に「知的な中にも野性味があって」というくだりが轟々たる反響を巻き起こした。
 まあ当人がその後ろでチノパン一丁にて首からタオルを下げ、ペットボトルに入った甘ったるいリプトンを飲みながらウロウロ、ウロウロしていたのだから無理もないが。
 尚、ミミには固定層があるらしく、ファンからの手紙や差し入れも多かった。おそらく集客にも貢献していると見え、クリスティナが「様々ですねえ」と言っていた。
 ジダンは日々キャスト連の調子を窺ったり、スタッフ達と話したり手伝ったり、時々ダメを出したり、後は来客に対応したりして過ごしていた。
 初日までは随所で引っ張りだこの演出も、幕が上がるとけっこう用無しになる。 公演全体に関わる雑務があるにはあるが、実務の大部分は現場の人間のものになるからだ。
 あまりうろつくと彼らの邪魔になってしまうし、身の置場がないことも多く、どこか日曜日のお父さん状態である。
 その分、キャストたちの今後に繋がるようにと、来客への対応は細やかにした。プロデューサや演出家といった関係者が役者に挨拶し、刺を通して行くこともちょこちょこあったし、ジダンもかつての仕事仲間などが思いがけず顔を見せることがあると、まめにキャストと引きあわせるようにした。
 この舞台が終われば彼らはまた別の仕事を見つけねばならない。ミミのようにすでに自分の人脈がある役者はいいが、他のキャストたちは、これからだ。
 他にスタッフ・キャストの家族の来訪もあった。照明チーフのジャンの奥方や子供、音響サブの親類、ミラの両親などなど。
 ヨシプの叔父さんは仕事が休みの日曜日に招待チケットを持ってやって来た。あの無鉄砲な娘さんも一緒だ。
 丁度、ヨシプが例の花をもらった日だったので、彼女はカードを抜いたそれをお土産にと与えられた。
「うわあヨシップから花なんて信じられない!! 明日は雪だぁ!」
 当人の面前で騒ぐ少女の隣で、ラシッチ氏はジダンの手を握る。
「彼が一つの仕事をやり遂げられたことを、家内を始め家族一同とても喜んでいます。ありがとうございました。お世話になりました」
 ジダンはそれはこちらの台詞だと答え、彼には天賦の才能があるので是非芝居を続けるべきだということ、できれば今後も連絡を取り合いたいことなどを伝えておいた。
 さていざ帰ろうとすると娘さんがいない。彼女はいつの間にやら楽屋前の廊下でメイクを落としたデミトリを捕まえ、話し込んでいた。
「あの人優しい! かっこいい!」
と大層持ち上げていたが、その後しばらくデミトリは周りから「優しい兄さん」とか「かっこ兄さん」などと呼ばれ、ちょっと気の毒だった。
 土曜日となった十二日の夜公演が、今までの中で一番よい出来だった。
 失敗がなかったということではなく、舞台をしている間、役者達が本気で夢中になっていた。その興奮が客席にも乗り移り、終演後の拍手もまた、どの日よりも大きくて長かった。
 スタッフ達まで顔を紅潮させていたその夜、ジダンはジャン・バチストから飲みに誘われた。
 別にそこらのカフェーで立ったままサラミをつまみながら、めいめい酒を飲んだだけだが、ジダンは妙に愉快で一人でにたにた笑いながら、よく冷えた白ワインをおいしく飲んだ。
 勘定は彼がおごってくれると言うので逆らわなかった。
 ジャン・バチストは店内では給仕と話す以外には、本当に一言も発しなかった。ごちそうさま、というジダンの声にも無言だった。少しぼんやりしたなりで、彼と並んで酒を飲みながらも、眼差しがさまよい、どこか夢から醒めきらぬといった様子だった。
 彼らは一時間程度で食事を終えた。進む方向が逆だったので、店の前で軽い挨拶をして、あっさりと別れた。






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