scene 3
「何の真似だ、LD…! その子は俺の客だぞ。あんたがどうしてもそこで一曲踊るというなら止めないが、その子は放せ!」 「踊るのは貴様だ、ジダン・レスコー。粉々になったこの女の体の周りで、せいぜい狂乱するがいい」 「――――な、に…?」 ジダンは耳を疑った。LDはあてずっぽうでアンヌを連れてきたわけではなく、最初から彼女を狙っていたのだといっているように聞こえた。 しかも血なまぐさい風の中でとんでもないことを。彼女を下に突き落とすなどと言っている。自分も一緒のつもりか、彼女だけなのか、知らないが。 ――――こいつは、真剣に狂人か。風の一撫でですらもう落ちてしまいそうな彼らの立ち位置に対する緊張も手伝って、ジダンは目がちかちかした。 「何を言ってるんだ。お前は…、いい加減にしろよ!」 だが叫びながら、ジダンには、彼がふざけているのではない、ということが何故か分かっていて、自分の声までも、未経験な役者の台詞のように、軽く虚しく聞こえた。 心臓が重い。何か今までに経験のない、上から押さえられるような強い圧力を感じていた。それはさながら相手の存在に圧倒されているかのようで、実際呼吸が苦しかった。 「…そんなこと…。そんなこ……」 ジダンは頭を振って、たよりにならない自分の良識を棄てた。 「――――何のために…?!」 「お前のためだ。ジダン・レスコー。お前のためにこの娘は――――本当にねえ、あなたが悪いのですよ、ジダン」 LDは突然あの優しい声に切り替え、楽しそうに喋った。けれど眼光は赤く炯々としている。ジダンはぞっとした。 「自分でこんな事態を招いておきながら逆らったりするから。私の話をよく聞いてもっと早くに屈していれば、この娘は助かったかもしれないのに。 私の望みはあなたの絶望です。あなたの魂が悪い歯車の中で諦めきって流されることです。 あなたに自らを裏切り、怠けきって世界を貪ったという罪を犯させること」 目の錯覚か、LDが鋭く声を張り上げるたびに、その黒い外縁が蠢く。水を蓄えた泥のように、強く押されるごとに辺りに黒が滲み出し、濃い霧となって彼を取り巻いていくのだ。 「人を憎ませること。人と争わせること。潰し合いをさせること! あなた自身の手で、あなたの精神世界をズタズタに滅ぼすこと…! 創作も赦しも理解もない。そんな不毛の地獄の渦に、多くの人間と同様あなたをも閉じ込めることです」 「なにを…。――――お前こそ」 芝居の見すぎだ。 言おうとしたが、ますます大きな力が、ぐうっと呻く彼の体を押さえつけた。疲労を十倍にしたような不可解な重さに、こらえられず、地に両膝を付く。 息を継いでも胸が苦しい。目の玉が飛び出しそうでまぶたを閉じる。尚受け切れなさを感じ、倒れこんだ。 「ジダン?!」 少女が叫ぶのが聞こえる。左胸に手をやり、甲斐なくシャツを掴んだ。汗がだらだら流れ、血が沸騰している。SOSを鳴らしている。核心が、何か悪い別人の手に握られているぞ、と。 LDははいつくばったジダンの様子を見ると、また口調を転じて残虐に笑った。 「――――もう逃れられぬよ、ジダン・レスコー。反論もならぬ。 お前が仕組んだのだ。お前が呼んだのだ。俺は呼ばれないと現れない。お前たちの自暴自棄で軽はずみな希望が、俺に力を与える。 そうだ、お前は願っただろう。もうたくさんだと。誰か、こんな不毛な物語を一思いに終わりにしてはくれないかと」 検察官のような声でそう指摘された時、ジダンの目の中で血脈が、一際大きく跳ねた。
( 「誰か…」 ) 「…思い出しましたかあ? それで私が終わらせてさし上げるのですよ。あなたの世界を」 ジダンは、汗びっしょりになって喘ぎながら、自分の心臓を潰そうとしている手の冷たい正体を、生物の本能らしきものでおぼろに知覚した。 罰とか。報いとか。 罠とか。 自分で自分を罠にかけたのか。そのために、少女までも危険に曝しているというのか。 霞みそうになる意識を歯を食いしばって繋ぎとめると、ジダンは前を向いた。LDは待っていたかのように冷笑すると、少女を自分の胸から軽く突き飛ばした。 「……ッ!」 アンヌの細い体はよろめき、その場に居残りはしたが、さすがに恐怖の表情で、必死にLDの腕に手を伸ばしすがり付いた。 LDは接近を許さず、袖は持たせるに任したものの、何の実効もない気休めに見えた。 その震える小さな女の体を致命的にぐらつかせるには、腕の軽い一振りがあれば事足りるだろう。二秒や三秒。それで全てはおしまいになる。 もはやそれは夢でも言葉遊びでも、何でもなかった。 自分ではなく彼女に対する加害に、ジダンは鞭打たれて悲鳴をあげる。 「…やめろ!! 頼むからやめてくれ!! 何故だ、落とすなら俺を落とせばいいだろう!」 LDは、歯を剥いて笑った。目はつり上り爛々と燃え、衣服は風になぶられてそれ自体生きているよう。 体から滲み出していた黒い霧は嘘かまことか、いつしか禍々しい巨大な翼を形作って曖昧にゆったりと羽ばたいていた。 「残念ですね。あなたの望みは、『自死』ではなく『世界の死』でした。…契約は言葉どおりに果たされねばね。ここにきて自己愛が麗しい花を咲かすわけです。 もしやりたいなら、ご自分でなさい。この娘が死んだ後で、望みの場所で望みどおり存分になさるがいい」 「…ふざけるな! そんなことをして、ただで済むと思ってるのか! …アンヌに何かあったら、お前も同じ目に遭わせてやる…!」 言ったが、そんなことが実際に出来るなどと当人ですら信じていなかった。 だが、彼はその時暗い世界の一端を舐めたように感じた。 誰かに家族を殺されたらこんな気分になるのか。その扉をくぐった後では、何もかもが激しい怒りのために変質しているような気がする。そんな歪んだ世界では、自分も信じ難いほど際限なく人を憎むことが出来るような気がする。 だが、LDの哄笑はもっと別次元の否定だった。彼は床にうずくまるジダンの間抜けさを、その理解の遅さを大声で笑罵したのだ。 「はははは!! ジダン、君はまだ私が誰か分かってないと見える!」 「――――?!」 ジダンは思わず顔を上げた。視界に、やはりLDの顔を斜めに見上げるアンヌの横顔が映る。 LDは、顎を引き、黒い眼を光らして自分の胸倉に手を当てた。その唇は依然笑っていたが、眉間には深い皺が影を刻み、瞳は濡れ、どこか泣き笑いの表情にも近かった。 「私は既に一度落ちたのだ! もはや失うものは何もない。よしんばこの娘やお前と一緒に落ちたとしても、死ぬのはお前たちだけ。私には失う血も魂も残ってはいない!! 私が誰だか未だに分からないとは――――」 黒い目が細くなる。 「全体薄情な男だ…!! ジダン・レスコー!!」 「――――な…?」 ジダンは、今までとは別の意味で呆気に取られた。だって自分は今、恨み言を言われたようだが。 ――――何故だ? 自分が、LDを、昔から知っていたとでもいうのか? 馬鹿な。一度落ちた男などに面識はない。 大体一度落ちたら、この世にいるはずも――――ないではないか―――― その時、 「もう、いいよ…」 二語と同時に、屋上に吹き荒れていた春の風がふいにやんだ。 空気が止まり、ジダンを押さえつけていた力も、全ての音も、時間さえもが、一斉に静止したように思われた。 不思議な沈黙が辺りを支配した。誰か高貴なるものが白い裾を閃かせ、彼らの中を通り過ぎたかのように。 突然自由を取り戻したジダンは、訳が分からぬながら、膝を立て、立ち上がる。 足元はまだぐらぐらしていたけれど、目の前には、アンヌと、LD。背景はただ全面に水色の青空だった。 LDを取り巻いていた霧は、跡形も無く消えていた。するとそこには、黒い服を着た、一人の痩せた男が立っているだけになった。 アンヌは、すがり付いていたLDの腕から、自分の右手を、それから左手を引き上げる。それから、まっすぐに彼を見つめ、言った。 「彼の魂は諦めて」 「………」 「代わりに、私のを持っていって」 唇を開いたLDは、狼狽したように見えた。落ちた前髪の中の、黒い眼が二つ、信じられぬように光って少女を映していた。 「アンヌ!」 思わず叫んだジダンを振り向きもせず、彼女は言う。 「いいの。…ジダン。私この人のこと知ってるの」 「…え…?」 「憶えてるでしょう。 …この人は、五年前のクリスマスの日に、私とジダンの目の前で、ビルから飛び降りて死んだ人だよ」 男の体がぐらりと揺らいだかと思うと、変に崩れた姿勢のまま凝固した。 表情は髪の毛で隠されて鼻と口元だけが見える。下げられた手は死体のように動かなかった。 そしてまたジダンも、その場に立ちすくんだまま驚愕のあまり、靴の下さえ流体に思えた。 「ジダンは…、関係ないって。ずっと私に忘れろって言ってたけど、私、忘れられなかった」 クリスマスの、賑わいの街中で、アンヌ・レスコーの前で、建物から。 「あの人は、私の代わりに死んだんだ。 あの人は、みんなの幸せの代償だったんだ。 うまく、言えないけど…。私の幸せも、あなたの不幸と係わりがないことじゃないんだって」 落ちた。死んだ。ジダンは、アンヌの声に気を取られ、彼を止めるのが一瞬遅れた。 彼に名を呼んでもらうことが出来ず死んだ男の 名はアンジェー。 …意味は、天… ふと気が付くと、ジダンは自分の口元を左手できつく押さえていた。頬は青ざめ、高熱で白く焼けた頭は今度こそ役目を完全に放棄した。 「――――だから。いいんだよ」 アンヌは「LD」に近づいて、自分からその腕を取った。黒づくめの「彼」はただ、酔ったように彼女を見つめ、されるがままだった。 「…あげる。あなたに。私の持ち物は全部。…私の命も、私の記憶も、彼の愛も」 目元に涙を浮かべながら、彼女は微笑む。 「…私、ずっと思ってたんだもの。楽しいことがあった時には、その時間を、あなたが私の代わりに生きればよかったのに。 誰かに、幸福な気持ちを分けてもらった時には、その幸福を、あなたに贈ることが出来たらよかったのにって。 …五年間、ずっとあなたのことを考えてたよ。 ――――私は、あなたに謝りたかった。ずっと何も知らなくて、ごめんなさいって」 ジダンはその時耳の奥に鳩の翼の音を聞いた。いつか遠い日、逃げようとしていた自分を平手打ちしたのと、同じ音だった。 暖かい、微かな風が、もう一度三人の登場人物の髪の毛と衣服を揺らす。 人類最初の日のような静寂の中で、LDと呼ばれた男は、長い間黙りこくっていた。 が、やがて、 「――――ジダン」 呼んで、落ちた前髪の下からきつく彼を睨む。だがそこにはもはや成功者の皮肉はなく、悪魔的な眼光も消え失せていた。 ただ小さく掠れた、そしてどこか懐かしい声が、ジダンの心臓を力いっぱいつかむ。 「二度と俺など呼ぶんじゃないぞ…」 苦く顔を歪める「彼」は、落涙していた。渦を巻く黒い瞳の奥からあふれ出る、この世に対する無念は縁で崩れて、美しい透明の筋を引き、赤い血と混じる頃には悔しい悔しい悔しい悔しいと言っていた。 ――――アンジ… ジダンは、思わずぼろぼろの声でその名を呼ぼうと喉を引きつらした。けれどそれが音になる前に、「彼」は顔を反らしていた。 傍に立っていたアンヌを一瞬引き寄せたかと思うと、体の向きを変え、両手でジダンのほうへと突き飛ばす。そして自らはたった一人、虚空へと身を翻した。 「ああっ―――…!!」 ジダンが叫んだのかアンヌが叫んだのか、それとも「彼」だったのか分からない。ジダンは夢中で地面を蹴り、放り出されたアンヌの体を追った。 彼が降って来る少女の体を受け止め、損ね、後ろへ派手に尻餅をついたときにはもう、傾いだ「彼」の姿は視界からなくなっていた。 転倒の派手な衝撃の後、寝転がった網膜に広がったのは大きな青空。 止めも突き放しもしない、美しくて、いつも抜けるように青く無慈悲な、天だった。 |
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