L'inutile
おおきな犬








『なななな何を言ってるんだ!! 今まで私がどれくらい苦労してそれを取ろうとしてきたか、分かっているだろう! それを……!
(キャンキャンキャン!)
 ……あっ、ダニエル。なんでもないよ。大丈夫大丈夫。落ち着いて』
 携帯を胸元へ下げてもまだ聞こえる声に、マチルドは苦笑いした。クリフは自信満々といった男なのに、反逆の兆しがあろうものなら、すぐこれだ。
『一体どうしたんだ、マチルド! 君は前からちょっとおかしかったが、今日はとりわけおかしいぞ! 寝ぼけてるのか?! 』
「起きてるわよ。
 私、二年前から今までずっと、あなた達の言うことに従ってきたでしょう。あなたと、パパの言うことね。あなたの計画はまるで、道路に石畳を敷き詰めていくが如きだった。何もかも、計算どおりで」
『君のために道を作ってやってるんじゃないか!
 ちょっとくらいカンがいいからってうぬぼれるんじゃない。無計画にやっていたんじゃ、移り変わりの激しい今の世の中、成功なんか絶対に出来ない! 前にも言ったぞ。成功する人間は、だれでも計算されたストーリーを正しく踏んで、システムに乗って進んでいくんだ。俺はその道を知ってる。だから俺の言うとおりにやっていれば、君は間違いなく財産と名誉を手に入れられるって。
 それが君のパパの望みでもある!』
「…………」
『お父さんは誰にも頼れず、若い頃舞台で散々苦労した。利用され困窮し、裏切りにも遭った。やっと一息つけるようになったと思ったら、突如肺ガン宣告で療養所入りだ。
 娘に同じ轍は踏ませたくないというその親心にうたれたから……、俺もステイツに帰らずここでがんばってるのに!』
「……システムから降りて、自分の足で歩くことにしたらどうなるか、あなた知ってる?」
 一拍の間の後、向こうからは脅すような声が聞こえた。
『……駅で眠る浮浪者になりたいのか』
「…………」
 そうだ。前から分かっていた。
クリフは人生についてそう考えているのだということは。
 だからこそ父は年老いて生まれた一人娘を彼に託したのだ。絶対確実な、保険にでもくるむようなつもりで。
「…………」
『マチルド、ひょっとして気分が不安定なのか? だったら精神安定剤を飲め』
「いいえ、気分は上々よ。薬なんか必要ないわ。
 ただ私は……、道に迷うことも、それはそれなりに、素敵なことだって知っただけ」
『――ああ……?』
「自分が意外と泥臭い種族だったってことが分かったと言ってるのよ。
 本当は、ずっと退屈だった。清潔なビルの中で、薬のにおいをさせながらカメラに映るなんて、私のガラじゃない。道なき道も、きっといいものよ。
 クリフ。私は今、『偶然』という名前の、おおきな犬の話をしているの」




『…………』
「混乱させてごめんね。明日、あなたのオフィスにちゃんと話しに行くわ。あなたの小さな犬によろしく」
『――マチルド。その獣は決して人には慣れない。するどい牙で、君を引き裂くぞ』
「知ってるわ」
 すでに昨日、それに噛み付かれた。
「それでも私は、それを追っていきたいの。人生を、もう少し偶然に委ねてみたくなったのよ」
『マチルド!』




 電話を切ると、電源も落とした。それからラグの上でふーっと息を吐いた。
 分厚いシェニールに、落とした掌をゆっくり這わす。
気付いたら、微笑んでいた。笑わなければならない場面以外で一人笑ったのは、とても久しぶりの気がした。
「ヨシプ――」
 思いに任せてラグに倒れこむ。
「へんな名前……」






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