L'inutile
夢としりせば
「つまりこれは、彼は夜な夜な恋人とSMショウをしていると」 ジダンのとんちんかんな発言に、スーツを着込み、真っ白い髪の毛を耳の長さで切り揃えた日本人女性は控えめに苦笑した。 「違います」 「え? 違います? つまり昼は消え入るけど夜は燃え上がっちゃうぜ、ということですよね。松明の灯りのごとく」 「まあよくお分かりじゃない、ジダンさん。つまらない冗談はおよしになったらいいのに」 「――ちょっとジダン! 無理言って教えてもらっているんだから、馬鹿なことしてマダムを困らせないでよ?!」 空いたドアの向こうから、プロデューサのクリスティナが叱咤する。その胸には携帯電話が伏せられていた。 水を差されたジダンはまるでクラス長に怒られる小学生の男子みたいだ。 「うるさいなあ。ちょっとボケただけじゃないか」 「ごめんなさいね、オノさん。お忙しいのに! いきなりこの男が日本の和歌について詳しい人を紹介してくれだなんて言い出して…」 「いいのよ。私も大学で学んで以来は独学だけど、そんなレベルでよろしかったら」 「あーもうまったくそれで充分なんです」 ジダンは彼女とクリスティナとで接する態度が違った。手をバタバタと振って、この七〇過ぎのマダムには惜しみなく愛想を振り撒く。 「どうもすいません。帰省の行き帰りの列車の中で読んだ本がものすごく面白くて、ついついどういうもんか知りたくなりまして…」 「この、マザコン男が…!」 悪態をついた後、クリスティナは仕事電話の相手に呼ばれて戻っていった。 「しっしっ」 「それじゃ、先ほどの歌ですけれど、これが恋の歌であるということは、置き換え訳でお分かりになったご様子ね。 あとは風味ですけれど…、歌の最後は消えて終わっているのだから、気分としては落ち込んでいます。 寧ろ、夜には恋人と会えて幸福に過ごせるのだけれど、昼には燃えかすのようにうつろな心で過ごしている。ため息にも似た恋の歌ですよ」 「はあ、何となく分かります。しかし、その本を読んだ時にも思ったんですが、俳句とか和歌ってのは予想より絵画的なものなんですね。形式も思ったより緩やかで、語呂合わせよりも寧ろこう…、言葉の糸で絵を引っ張り上げてくることを重視しているような…」 「まあ」 マダム・オノは黒ブチの眼鏡の奥で目を細めた。 「さすがにセンスがおありね。日本でも今なお愛唱されるような歌は、仰ったように情景やシーンがすぐ思い浮かぶような歌が多いのよ。 逆に単に字の世界で終わるようなものは、たとえ規則や文字数が合っていても、歌とは言えないという一面があるわ。不思議なことに人々はそれを、特に説明もされることなく、見抜いてしまうのね」 「ふーん…」 「では、次の歌に参りましょうか」
「『あなたには教えられました…。これが世の中の人が、恋と呼ぶものでしょう』…?」 「そうね」 「なんつーキザな…! …キザですよね?!」 「そうねえ、ふふふ。 この作者、在原業平は皇族の一員で、名うての貴公子だったの。死後も何世紀もの間、ほんの少しの失笑と共に、美男の代名詞として様々な芸能に転用され続けたのよ」 「…はあー…」 ジダンはしかめつらをしながらもガリガリとノートにメモを走らせる。 「…しかしこうしてみると、平安時代の貴族ってのは、ちょっと色ボケしてませんか? さっきの歌もなんか昼間はボーっとしてます、みたいな歌だし、仕事はいいのか、仕事は」 「そうねえ。じゃあ、これはいかが?」
いくら文句を言ったところで、世間にそむくことなんか出来やしない。でもつい、ぼやいてしまうな。いやな世の中だ。 「ルバイヤートのようだ」 「和歌はなんでも飲み込んでしまうわ。この国の詩が、なんでも編み込める表現であるように。 だから仕事の歌もあるし、家族の歌、季節の歌、旅の歌、辞世の歌、なんでもある。ここに彼らの人生があると言ってもいいでしょうね。 ただ恋愛の歌はとりわけ人気があるので、よく耳にすることになるのよ。風景の歌などに比べたら分かりやすいのかもしれないわね。現代の日本人にも、外国の方にも。 でも私、実を言うと、日常に疲れた平安人達の、こういう力の抜けた歌も大好きなのよ。 では宿題は別として、今日の最後にこれはいかがかしら。さっき気障な恋歌を読んでいたのと同じ、業平さんの作よ。 病気になって、もう自分が死ぬんじゃないかと思ったときの歌――」
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