L'inutile
夢としりせば






 消毒液の香り取り巻く病室の中で、その人は横になっていた。顔を合わせるのは二十数年ぶりだった。
 私は病院が嫌いでたまらない。
どうして人生の最後をあんな無機質な、何も語ることのない壁と床。幾ばくかの私物を置いたからと言って決して自分のものにはならない棚を傍に、過ごさなければならないのか。
 痩せこけたその人は持っていた文庫本の一ページを開いて、私に押し付け、笑った。
 そこに業平の歌があった。



いつか来るとかねて 聞いてはいました
でもそれが今日だとは 思っていなかった






まちこ。分かっておいでで
しょうね晃さんには決してあのことを言ってはなりません。あなたの身を助ける道はこれのほかにないのだからしっかり肝に銘じておきなさい。たとえ夜の寝言にでもそのことを口に出さないよう。そしてあなた達はこの世で二度と会ってはならない。分かっているでしょうねあなた。これが母の最期の願いなのですから くれぐれも くれぐれもお願いしますよ。














「――マダム? ……マダム、大丈夫ですか?」
「…………」
 目を開くと、目の前にジダン・レスコーの顔があった。
 黒いツーピースを着た彼女は抱え込むような大きな椅子に腰掛けたまま、いつか眠っていたのだ。
「……あらいやだ……。わたしったら、ごめんなさい」
 片膝をついた男はコートにマフラーを回したままだった。胸と膝の間には、ウールの帽子がへしゃげている。
「起こしてすいません。出直そうかとも思ったんですが、少しだけ、うなされておいでだったので……」
「うなされて?」
「ええ……。そういうふうに、見えました」
「――そう……」
「大丈夫ですか? 今日はお休みにしますか?」
 マダムは、黒い、つぶらな瞳でジダンを見つめた。そして微笑んだ。
「いいえ大丈夫よ、ジダン。でも少しだけ、待ってくださる」
「はい」
 彼を部屋に残して、廊下に出た。家内のことをしてくれるメイドのソランジが紅茶の盆を持って来るのに頷きを送った後、洗面所に入る。
 うたた寝をするなんて私も耄碌したこと……。そんなことしようものなら昔は、竹の定規で膝を叩かれたものだのに。
 鏡の前に立って、見苦しいところがないか検める。ふとその手が止まり、低い囁きがもれた。
「それにしてもまあ、ずいぶん久方ぶりだこと……。引っ張られておいでになったの?」
 普段は私の体に、埋もれておいでのあなた。


 ジダンはその頃、一人書斎に座って、メイドの振舞うお茶を受けていた。






思ひつつぬればや人の見えつらむ
夢としりせばさめざらましを 


「『思いのあまり、あなたの夢を見た。夢と知っていれば、目覚めないでいたのに』」
「この小野小町という女性は、女性版の在原業平とでも言うべき人ね。平安一の美女として、今も紫式部と同じくらいの知名度を持っているの。東京で人を呼び止めて誰に聞いても、大抵名前を知っているわ」
「マダム、質問が」
「何かしら?」
「この女性、漢字的にはマダムと同じ名字に見えるんですけど、――オノノ? 全然違う姓ですか?」
「いいえ。同じ姓よ、よくお分かりになったわね。
 昔は姓の後に『ノ』をよけいにつけて呼ぶのが慣わしだったの。つまり小野家ノ誰々、ということだったんでしょうね。こちらでいうところの『ド』に近いものがあるわ、貴族が昔、家名の前につけていた。
 フランスでも革命前後に、それを省略する動きがあったように、荒々しいさむらいの時代がやってくると、いつの間にか呼び方が変化して今ではオノはオノと呼ぶだけ」
「じゃ、先生とこの小町さんは、同じ名字なわけだ」
「そうね」
「子孫ですか?」
 彼女は微笑した。
「いいえ。『オノ』は日本ではごく一般的な姓なの。しかも私は、結婚して名字が変わっているのだから……」
「なんだ」
「どうしてがっかりなさるの? おかしな方ね」
 ジダンは黙って笑われたが、この歌のイメージが、マダムにどこか重なると思ったのだ。
 穏やかな二重のせいだろうか。現実の男女の関係を知っていながら、尚どこかふわふわして、遠くを見ているような感じ。ここではないどこかに、意識がつなぎとめられているような感じ。
 こんな歌を送られたら、男心はさぞ迷わされることだろう。
 男は非理論的で、自分の言うとおりにならない摩訶不思議な女が、実は結構好きだから。



 中休みの最中、マントルピースの上の古い写真を拝見した。集合写真。白黒で、幾人かは和装だ。
「ご家族ですか」
「ええ……、まだ戦争をしていた頃に撮ったもので、兄が学徒出征するというので、みんなで集まっているの」
 確かに後列中央には真っ黒い学生服を着た青年がいて、その前に両親、祖母と思しき羽織の人物が並んでいる。心なしか、悲愴な雰囲気だ。
 マダムがどこにいるかはすぐ分かった。少女ながら今に通じる面影がはっきりあって、まなざしもそのままだ。その横には弟妹と思しき子供達が並んでいたが、彼女のような目をしている者は他に見当たらなかった。学生服の青年はやや彼女に似ているようでもあったが。
「で、こちらが、ムッシウ・オノですね」
 どこからどう見ても結婚式の写真へ移る。年若く白無垢姿のマダムの傍に立つ、口ひげの男。
「ええ」
「ムッシウは今は?」
「外交官を引退したすぐ後に、癌で亡くなったわ。どうも家系のようね」
「では他にも?」
「ええ、双方共に。夫の父も癌だったし、私の兄弟のなかにも……。あなたも注意なさい。煙草はやめたほうがよろしいわよ?」
 ジダンは勉強をがんばれと言われた子供のような笑みを浮かべた。
 家族はそれで全て。マダムに子供はない。




 彼を送り出した後、窓辺に立っていたら、ちゃんとその位置を把握している彼が下から手を振った。
 子供じゃあるまいし。微笑んでレース越しに細い手を振り返す。
 それから部屋に戻ると、鍵のかかった小箱の中から、小さな文庫本を取り出した。
 伊勢物語。古い古い版だ。
全体が渋柿色に染まり、注釈さえ旧仮名遣いでプリントされている。
 マダムは椅子に座り、それを胸に当てて、目を閉じた。





いとせめて 恋しき時はむばたまの
夜の衣をかへしてぞきる






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