L'inutile
扉の閉じた家(後)




 「今日で三度目だね。そろそろこの部屋にも慣れたでしょー? でもあまり学習してくれないみたいでがっかりだなあ」
 青年社長リシャール・レイザンは暖房をガンガンに入れて、Tシャツにビンテージジーンズといういでたちだった。モップ頭は後ろで結んでますますギークっぽさが増す。
 その上猫背で、そわそわと玩具から玩具へと歩き回った。地に足がついていない感じだ。
「もうあと明日さえしのげばお休みだからさー。もー待ちきれないよ。こんな寒くて退屈な街、すぐ出て行ってやる」
「ご旅行ですか? どちらへ?」
「トーキオ、アキハバラ! 最新のアニメと持ち出し不可のヘンタイアダルトゲームを探りに!」
「……」
「これ、よくない? 友達が送ってくれたんだよ、抱き枕!!
 ほんとあの国の人って、この手の発想にかけては天才だよね。今度ウチでも作ろうと思ってるんだ。売れると思わない?」
 聞いた私がバカだった。クリスティナは肺に空気を入れた。
「ムッシウ。公演のスタッフ達はみんなつらい状況にいます。休暇なんか楽しむ余裕もありません。演出チームと何度も話をしましたが、やはり今から舞台を大きく変えるのは無理です」
「えー? 嘘だあ、無理ってことはないでしょう。
 ハラキリをした三島由紀夫の逸話を知ってる? 昔NYで舞台公演をしようとしたことがあって――結局実現しなかったけど、そのために彼はプロデューサの求めに応じて自らの作品を容赦なくブツ切りにし、三本の作品を一本にまとめるという離れ業をやってのけた。
 彼は知っていたんだと思うよ。人に評価されると言うことが、どれだけ大事かね」
「でもそればかりを追い求めると、消えてしまうものもあります。全てのクリエーターがスーパーの店員みたいに『安いですよ』『お得ですよ』と言いながら作品を作るのがいいことだと仰るの?」
「――何が悪い?」
 レイザンは立ち止まると、茶色の毛の並ぶ腕を組んで、言った。
「特権階級だと思ってるでしょ?」
「……」
「自分達は特別な眼と感性を持ち、特別な高級品を扱っている誇り高い貴族であって――リシャール・レイザンのように、大衆に媚びる必要など微塵もないのだって、そう思ってるんだよね? 君も」
「……」
 数々の伝説を持つ二〇〇人がやっとの小劇場。名だたるヒーロー達の演劇史。美しい隠れたホテルでの授賞式。
 それは学校だ――生きている。
École de Paris(エコール・ド・パリ)。
「みんながみんな顔見知りみたいな狭い世界の中で、自分達は特殊な世界に根ざした誇り高き神官で、人々が忘れてしまった神にでも仕えているつもりなんでしょ? それが自分の義務だって」
「――もし」
 今更、無益な謙虚で取り繕ってもしょうがないと思った。まさに古代の神官じみた雰囲気を持つ演出ダイクの不器用な顔を思い浮かべながら、クリスティナは尋ねる。
「その通りと申し上げたら、どうなります?」
「僕は神学には興味がない。金は引き上げる。よいクリスマスを」
「彼らは裁判を起こすと言ってます」
 背を反らしてレイザンは笑い出した。
「いいよ! するといいよ。自分の公演すら自前で打てない連中が裁判とはね! うちには企業弁護士がついてるからいくらでもどーぞ。法廷闘争には慣れてるしね」
 日本の会社から著作権侵害で訴えられたことがあるのだ(和解に持ち込んだ)。
 意地悪な声が、立ち去る彼女に追い討ちをかける。
「で、裁判費用は誰が出してくれるの?」


 ――どうしてこの不愉快な男が、アレックスと重なるのだろう。
 振り向いて、彼とにらみ合う引き伸ばされた数秒のうちにクリスティナは思っていた。
 眠りが浅いせいか、この二、三日よく夢を見る――おかしな夢ばかり。
 アレックスとリシャール・レイザンが交互になる。引くときはアレックスで押すときはレイザン。


 いったい私は、壊れてしまったんじゃないのか。今まで大事にしてきたなにもかも、もはや次の瞬間には投げ出して、身を任せてしまうんじゃないのか。
堕落に。


 クリスティナは冷静な顔のままRERで市内へ戻ったが、頭の中はごちゃごちゃで、詳しい未来のことについて考えるのが恐ろしくなっていた。
 胃炎になって病院に逃げ込んだセニエの、弱々しい笑みがまぶたに浮かんだ。





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