L'inutile
扉の閉じた家(後)
ヴーン ヴーン ヴーン
ピッ
『もしもーし?』 「……なによ、ジダン。まだ出先よ」 『都合悪いならかけ直すけど?』 「……いえ……、いいわ。煮詰まっていつ果てるとも知れぬ会議の最中だったの。晩御飯もまだ。せっかく抜けてきたから、一服する」 『そうしなよ。……サタジットの受賞について取材が来たから適当に答えといたよ。と言おうと思って』 「ああ、そうなの。ありがとう」 『うん。まーそれと、前の電話で声が随分落ちてたから、大丈夫かと思って』 「ふふ……」 クリスティナは喫煙スペースで火のついた煙草を持ったまま笑った。 「あたしあなたのそういう中学生みたいなところ時々殴りたいけど今は好きよ」 『いずれ電話でよかったよ』 「あのさあジダン……。私――私達、ちょっと今、岐路に立たされてるのよね。どっちに行っても地獄っぽいの。どうすべきだと思う?」 『詳しい事情が分からないけど……』 「話す?」 『いや、いらない。詳しい事情は分からないけど、君の感性に従うべきだと思うよ』 「……先が修羅場でも?」 『人間、地獄に落ちなくちゃ気が済まないことだってあるだろ。たまには』 クリスティナの脳裏に、リシャール・レイザンの横顔。アレックス。演出家。リズ。そして名前も知らない女性と――五歳の女の子の、幸福そうな笑みが浮かぶ。 額を押さえた。 「人を、不幸にするかも」 『そうだねえ。でもそんなことじゃブレーキがかからないから、君だって悩んでるんだろ?』 「…………」 『ヤコブに相談したってそう言うと思うよ。舵取りを彼に任せるなら、彼がビシっと決めてくれるさ。でも君がそれを握るのなら、西回りだろうが東回りだろうが君の決断次第だ。そしてリズは、君に任せたんだろ?』 クリスティナはしばらく返事をしなかった。髪の毛の中の耳元に、白い手を這わす。 「……ジダン」 『はーい』 「私が妻子のある男と不倫してるって言ったら、驚く?」 『いやあ? そんなのよくあることだし、なにしろ女性のアンチヒーローをたくさん輩出したお国ですから。もめたあげくに君が別の男の奥さんになったって驚かない』 彼女の口から煙と一緒に笑みが漏れる。 「意外と私らしいかしら」 『いや』 ジダンは言った。 『君らしくはない』 「……ありがと、ジダン。また連絡するわ」 煙草を一本吸い終わって、会議室へ戻った。 頭は。 真っ白け。 室内では演出チームと制作スタッフ、役者達が話し合いを続けている。いや、もはや会議ではなく、労働争議中の組合の集まりみたいになりつつあった。 我々には表現することがあるんだとダイクが言う。普通の人達が意識の外に追い出して思考しようとしない事柄。しかし人間の存在にとっては核心であるはずの事柄。 それは今売れるとか売れないとか、そういうこととは切り離して考えなければならない。そういう保護がなければ、この世界では真理がすぐ駆逐されてしまう。 だが我々は諦めないんだ。絶対にこれを信じるんだ。自分の感性を偽らないんだ――。 抗議の文章を発表するとか、同じく苦労しているはずの同業者に呼びかけて署名を集めるとか、他にもそういう案が出ていた。 クリスティナは黙っていた。大西洋を進む古い船の船長みたいに、腕組みをしたまま長い間黙っていた。 だがやがて、卒然と立ち上がると、言った。 「――ダイク。来て」 「……ど、どこに?」 ダイクのびっくり顔。 「ええ。リシャール・レイザンに会いに行きましょう。今すぐ!」 ――そうだ。もちろん分かる。ダイクの誇りは。 言いたいことは。 だがそのために彼が何をしただろう。 リシャール・レイザンは代理とは言え、人を派遣してちゃんと舞台の録画を見たではないか。 だがダイクは、最初に彼に対して挨拶をしたくらいで、後は仲間達と一緒に昼間でも深い闇の中で自分の世界を煮詰めていたに過ぎない。 そういう作業ももちろん大事だ。けれど、そのまま沈没していいのか。新しい陸へ着かなくていいのか。 ならなんのために船を出したのか。 ――とはいえ、やはり自分が彼独自のやり方や、ひょっとしたらその世界までも壊しているのかもしれないと疑いながら、クリスティナはただ自分の感性の声に導かれてラ・デファンスへ乗りつけた。 タクシーから降りると、内気な演出は驚き戸惑った顔のまま小柄な彼女に引きずられるようにして、勤め人達がぽつぽつと帰る間を抜け、化け物のようなオフィスビルの中心部へと進んでいく。
ラスボスのように意地悪なレイザンのあの目は、非難していたのではない。挑発していたのだ。 今、突然ひらめいたが、彼にとってこんなはした金の行方はどうだっていいんじゃないのか。 彼は本当はもっと――別のことを、望んでいるんじゃないのか。始めから。 唖然とする秘書嬢に面会をねじ込む。まったく幸運なことに、レイザンはまだ会社にいた。 しかしこれから商売相手にでも会うのかもしれない。昼間の服装とは違い、ちゃんとスーツを着て、部屋の明かりも半分落としてある。今にも外へ出て行きそうな感じだった。 「…………」 彼は呆気に取られたように、現れたクリスティナと彼女に引っ張り込まれた演出の姿を見た。その目が、ほんの少し、開かれる。 「――……」 「…………」 30過ぎのレイザンと50を回ったダイク。異なる信条とキャリアを持って同じ世界を生きる二人の人間が、やっとまともに顔を合わせた。 ――瞬間、ダイクも覚悟を決めたらしかった。クリスティナに言われるよりも先に、自分から青年社長に歩み寄り、手を握って挨拶する。 そして力みすぎて時々つっかえながらも、自分の作品とその意義について熱心に説明を始めた。最後にはその価値の擁護を求め、不器用ながら細やかに言葉を尽くして懇願した。 リシャール・レイザンは彼の話を遮ることなく終わりまで聞いた。クリスティナは傍のキャビネットの上で笑う小さな女の子達と並んで部屋の隅に立ち、その様子を見ているだけだった。 十分後。レイザンは手を上げて、 「もう結構」 と言った。 「あなた達の主張はよく分かりました。完成間近でいきなり口を出したのは僕も悪かったかもしれない――。いいでしょう。今回は特別に、予定通り公演していただいて結構ですよ」 「……!」 顔を赤くするダイクに、レイザンはただし、と冷ややかな目で釘を刺した。 「あなた達が野暮ったくてクソ面白くもない、収益の上がらないしろものを作っているという認識だけは、変えませんからね」 「そ、それは結構です――!」 思わず出た本音にクリスティナの喉がぶっ、と鳴る。 レイザンはそんな彼女をじろりと横目で見た後、傍にあったヌイグルミを一つとって、演出に押し付けた。 「あなた達もね、意地になって私達を無視しないで、そのうち何か反応を返してくださいよ。非難なりなんなり、舞台のほうから。 そういう作品になら、僕もちっとは興味がわくと思いますからね。 あと、そっちのボラスさんに話があるんで――、ちょっと外してもらえます?」 演出は頭の大きなペンギンのヌイグルミを抱えて飛び出して行った。あの様子では、出たなりキッスでもしてスタッフに電話をかけまくるだろう。 レイザンは机の端に腰をつけて、まったく学生さんみたいに高級スーツの肩を浮かした。なんとなく憮然とした表情だ。 「ありがとうございます」 クリスティナが言うと、彼はへっと鼻を鳴らす。 「はした金ですから」 「私達には、貴重なお金です」 「――みんな僕が美大卒だってことをきれいさっぱり忘れてるんだから。現代美術専攻だったんですよ?」 えええええ。とクリスティナは本気でびっくりした。口には出さなかったが、率直に顔に現れる。 レイザンは再びじろりと彼女を見て、腕を組むと、言った。 「だからこそ、『芸術』にたずさわる連中のいやなところはようく知ってるんです――。 僕はね、ボラスさん。教授や同期生から散々馬鹿にされた大学時代にこう思ったんですよ。もし『芸術家』とかいうものが、自分の世界からは一歩も出ず、開くことのない扉に守られた家を作って喜ぶ連中のことなら、自分はそんなものに価値は認めない。 彼らがどれほど自分達を低級と見くびろうと、いつかは彼らの上位に立つ。そしてこう言ってやる――」 『ざまあみやがれ』 クリスティナも口の中で唱和した。その言葉と、その言葉を吐く心理のことを知っている。 彼女はレイザンに一礼した。 「これからも二つの世界のために、間に立って努力させていただきますわ」 「ふうん。そりゃ好きにしてもらったらいいけど、そろそろこっちは時間だよ。 ――休暇が明けたら、一度お食事でもどう? もっとも僕には奥さんがいて、他にセフレも三人くらいいるけどね」 クリスティナは笑った。 「フェアプレイに感謝しますわ」 「あと君も何かいる? ここのおもちゃ。新旧世界交流の証に、ひとつ持って帰りなよ」 「そうですね。じゃ……、それを」 「――これ? ……え? これを?」 「ええ」 「こいつは意外な選択だね」 言いながらも彼がすぐ与えてくれたのは、例のあの童女みたいな女の子のプリントされた抱き枕だった。 小脇に構えてクリスティナは笑う。 「どうもありがとう」 「その道は女子がハマると深いらしいよ?」 廊下に出ると、演出がわしっと彼女を抱きしめて頬にキスした。秘書嬢もどうやら餌食になったらしく、眉間に皺を立てて怒っている。 騒ぎの横を抜けて、ニヒルな顔のリシャール・レイザンが外へ出て行った。 馬鹿どもめ まったくお話にならない 馬鹿どもめ |
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