L'inutile
牡蠣
牡蠣。 大皿の氷の山の斜面に寝かされた生の牡蠣。 これを目の前に置かれるとジダンはろくに話をする余裕もない。 手を伸ばし、端から黙々と平らげてしまう。酒を飲んで、肉を食べて、酒で流して、汁をすすって。 一個残らずなくなるまで。気付けば体が冷え込み風邪を引きそうになるくらい、それに没頭してしまう。 「今までひどくあたらないのが不思議なくらいだよ」 ジダンは言う。 「何しろこれには目がないからね――」 「私の家では生の牡蠣はけっして出てこなかったわ」 彼の隣でアキが言う。その手はまだ少しおぼつかなく、生牡蠣を食べることに慣れていない感じだ。 「母も父も生の貝を食べると危ないって信じてて、必ず火を通してあった。確かにそれなら安全よね。ただどうしてもこのミルクみたいな濃厚なきわどさは犠牲になるけど……」 苦労して見苦しくならないようにそれを飲み込み、困ったように笑う。 「だから私、最初は怖かったわ。初めてヤコブに生牡蠣を食べに連れて行ってもらった時は必死で当たり前のような顔をしながら、その実、大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせてやっと飲み込んだの。 ヤコブのことだから知ってたでしょうね。おいしいと感じ始めたのが三度目くらいからだったかな。今では平気で誰とでも食べにいけるようになったけど、心の隅にまだなにか――禁忌とか、恐れみたいなものが、残っているのを感じるわ」 「……」 ヨシプはのんびり、自分の早さで数個を口に入れるだけである。 グルメが目の色変える季節の食材も新種の牡蠣も、彼にはあまり影響しない。ぼけっとしたような顔のまま咀嚼して飲み下すと、あとはテーブルに肘をついて、忙しく動き回る給仕達の観察に終始する。 バーガーショップでだって同じ順序で振舞うんじゃないかという様子だ。 「お前ほとんど食ってないな。牡蠣嫌いか?」 ジダンが新しい貝に手を伸ばしつつ尋ねるが――。 別に。 彼は無関心の顔で答えた。 あれば食います。 なければいいです。 「……」 四人がけのテーブルで、怒っている人が一人だけいた。マチルドだ。 ヨシプを食事に誘ったら二人も一緒にくっついてきた。多分ヨシプが電話での彼女の囁くような口調の意味を、ぜんぜん悟らなかったせいだろう。 休暇を迎えた静かな街での濃密牡蠣デートの予定だったのに、これじゃ中華レストランの家族パーティーじゃないか! アキだけが彼女の怒気を感じ取ってなんとなく遠慮するが、男二人は構いもしない。しまいにはジダンが 「おかわりー」 と言い出して火に油を注いだ。 女の怒りを理解しない男達の無神経さに、もう少しでキレそうになっているマチルドに、アキは同情した。 あるある。こういうこと。 実際、牡蠣の大皿を前に、つりあいを保っていられる関係性はさほどないらしい。周りのテーブルを見ても、けっこう同じようなことが起きている。 女の機嫌取りを忘れて食欲に没頭している男。その反対のことが起きて呆れ顔の男。いかにもパリ市民といった格好の老夫妻はさすがに向かい合って平和に静かに食べていたが、その脇につまれた牡蠣ガラの山には何かうっと来るような生々しさがある。 何か、出てくるらしい。この白い、つかみどころのない不思議な柔らかさの貝が、集められ砕いた氷の上に乗せられる場所では。 レモン汁と一緒にこの卑猥な肉を噛みしめた時、私も何かおかしなことを喋ったかもしれないぞとアキは思う。 ようやく、ジダンが指先を拭いたナプキンを放り出して息を吐いた。 「――満足しました」 ここぞとマチルドがチクリと刺す。 「『満足は牛がすることよ、ダーリン』」 ダーリンはへこたれない。 「なあにまたすぐ、腹は減るよ」
(了)
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