L'inutile
理容師の嘆き




「私はパリ中の人のあたまを刈らねばなりません。大人でも、子供でも。女でも男でも。
 次から次へと差し出される。その髪の毛を彼らの望むようなかたちに切ってあげなくてはならない。
 絶え間ない労働に、次第に手は草臥れ、膝は震え、意識が朦朧としてきます。だが私ははさみを振るう手を休めることはない。朝でも夜でも、私は彼らのあたまを刈らなければならないのです!」





 彼は有名人だ。ロケット通りのとある、ラムの揃えのよいカフェの常連。ジダン達は二週に一度この店へ行けばいいほうだが、それでも彼のことを知っている。
 年のころは三十過ぎ。眼鏡をかけ、色白で、骨格が細く、くしゃくしゃの巻き毛を持った寧ろ哲学者っぽい雰囲気の男だ。
「大変な重労働ですが、散髪は私の責務です。私の任務です。私の宿命です」
 彼が真剣で真面目なのは誰もが知っていることだった。
 同時に彼がぜんぜん散髪屋さんではないことも、ごく当たり前に知られていた。
「聖パウル病院に通っているんです」
「清潔な身なりでしょう。お母さんがいい人で。でももう年寄りで、かわいそうでねえ」
「なに、いつもぶつぶつ言ってるだけでとてもおとなしい男です。気にしないでください、お客さん」
 店長が驚いたような顔をしている新参の客に、カウンタ越しに説明している。その間も、周囲のことはまるで意に介さぬ様子で彼は、サラダを咀嚼しているヨシプに理容師の苦労を切々と語るのだった。
 彼とヨシプは変に波長が合うらしくて、彼がジダンと一緒にいても、構わずヨシプの真横にやってくる。おかげでジダンは常に彼のお念仏を聞きながら、ラムを舐めるハメになった。
 気持ち的に余裕のある時しかこの店に来ないので、そんなに腹は立たない。帰りには彼の肩を叩いて(たいてい無視されるが)、「じゃあまたな」と挨拶して帰るのが習慣になっていた。



 病院通いをしている人間にも、ひとくくりにできないほど個性があるが、彼はその中でも不愉快にさせられるタイプではなかった。育ちがよく、根が真面目で正直者であることは、立ち居振る舞いから感じられた。
 母親にきつく酒を止められているらしく、いつもスチームミルクやカフェオレばかり飲んでいた。
 ある日、二人がまたそのカフェに立ち寄ると、彼の姿がない。珍しいと思って店の中を探すと、コの字型のカウンタの一番奥に引っ込んで、見た目にも分かり易く落ち込んでいた。
「どしたの?」
「さあ。今朝からずっとあの調子でねえ。今日は誰とも全然喋らないよ」
 二人は飲み物を手に、なんとなく彼の方へ近寄って行った。
 ヨシプが無言のまま、彼の肩をぽんと叩くと、彼はものすごくゆっくりと顔を上げて、ヨシプを、それから後ろのジダンを見た。
 ものすごく調子が悪そうだった。
精神状態がモロに表情に出ていた。顔色も悪い。
 こりゃ放っておいたほうがいいかな。とジダンが思ったとき、彼はまたがくんと頭を垂れた。そして、両手で自分の頭蓋骨を支えた。
 全世界のような重み。
 あんまり落胆しているので、ヨシプもジダンも手を出しかねた。隣に立って静かに酒を飲んでいた。
 と、
「――失敗してしまったのです」
声が漏れた。
「え?」
「今朝。妙齢の女性が髪の毛を切ってほしいと私の元を訪れました。私はとても疲れていましたが、最新のヘアカタログを持っていますし、清潔でよく切れるハサミも持っていたのです。それではりきって仕事にかかりました。
 ところが、私は失敗してしまった……。女性は泣きながら帰って行きました。なんということ!」
「…………」
「私は理容師なのに! 彼女の髪の毛を切り誤ってしまった! もちろん、できばえはそう悪くはありませんでした。しかし、鏡を見た女性は明らかにがっかりした顔をしたのです! そしてしくしく泣き始めました! 私はすっかり狼狽してしまって……」
「……あの……」
 ジダンは頭の中で事態を整理してから言ってみた。
「半年もすれば、また髪の毛は伸びるんじゃないの?」
「ええ。それはもちろんそうです!」
 彼はジダンを見なかったがちゃんと反応した。
「髪の毛だって、今はおかしくても三日すれば馴染んでくるかもしれません! しかし、それだけでは十分ではない!
 理容師のハサミは魔法のハサミです! 人々の夢をかなえなければなりません! 新しい世界の扉を開かねばなりません!
 それなのに、私は彼女を悲しませてしまった! 彼女をがっかりさせてしまった! なんということでしょう! 私は史上最低の、使えない理容師です!」
 彼は丸い眼鏡を取って、左の袖口を目元に押し当てた。
 鼻が赤い。
 泣いている。肩も震えていた。
「…………」
 カウンタの中の店長も、ジダンもヨシプも慰めようがなかった。
 ただ話を聞いていて分かったことは、彼は散髪屋さんが大好きなのだということ。
 そして彼はプロの散髪屋なのだということだ。
たとえそれが、夢の中の話でも。





 なんとなく気になっていたので一週間後に再びそのカフェを訪れた。彼は復活していて、またひとくさり二人に決意の程を話してくれた。
「この間は、見苦しいところをお見せしてしまいました」
 記憶もあった。
「あれから廃業も考えましたが、なんとか思いとどまって昨日も十人の髪を切りました!」
 ジダンは今日もヨシプの盾の隣で、カウンタに片肘をついてラムを舐める。
「つらいけれども、がんばっています。散髪は私の責務です。私の任務です。私の宿命です――」
 人生でそんな仕事に巡り会えることは、本当にしあわせなことだと考えながら。
「私は人のあたまを刈らねばなりません。大人でも、子供でも。女でも男でも。次から次へと差し出される。パリにはニ百万の人が住んでいます。百万人目の人の髪を切り終る頃には、最初の人のが伸びている。
 私は、パリ中の人のあたまを、これからも毎日刈っていくのです――。この魂が燃え尽きぬ限り!」





(了)


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