L'inutile
人の冗談を真に受けるな
「あんたのしつけの悪い飼い犬のせいで、あいつの未来は台無しだ。俺の未来も台無しだ――。分かってるのか」 目の前の男は、無抵抗だった。ただ組んだ膝の上で手を組み合わせて、丸い眼鏡の奥からじっと俺の顔を見ている。 演出家であるらしい。そういえばどこかで聞いた名前のような気もする。 だが、今はそんなことは問題じゃない。 問題はこの男が面倒を見ているクソガキが、俺のマチルドの変容の原因であるらしいということだ。そのおかげでマチルドは父親と争うようになり、数年間の俺の努力が台無しになってしまったことだ。 彼らとこのカフェで会ったのは偶然だった。俺はもう二時間もしないうちにパリを離れる。最後にマチルドと話をしようと呼び出したのだが、着席しても進まぬ話に彼女がきょろきょろし始めた頃、こいつらがやって来た。 話には、聞いていた。 だが、実際その『犬』に会ったのは初めてだった。 何も持っていないと一目で分かる。無教養で愚鈍で、ただ少し若くて目元に色味があるというだけの男。 未来ある若い女の子が、その出口で蹴つまづくためだけに作られたような男だ。 マチルドは二人を俺に紹介すると、ヨシプ・ラシッチとかいうその男の腕を取って、そそくさと奥のカウンタへ消えてしまった。 それで保護者のような苦笑いを浮かべたこの眼鏡の男が、代わりに俺の前に座ったという次第。 俺は突然、なんの挨拶もなしに男に最初の言葉をぶつけた。眼鏡の男は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐ落ち着いて、俺に続きを促した。 八つ当たりだということは知っている。 それでも俺は――、マチルドの父親の信頼を失って惨めにフランスを離れる俺は、言わざるを得なかった。 「初めて会ったのは、あの子が一三の時だ。すごい有様だったよ。ふちにレースのついた真っ白いソックス。黒いエナメルの靴。青いビロード生地のワンピースで、頭には白いリボンがついてた」 「ぶッ……」 眼鏡の男が笑う。俺はテーブルを叩いた。 「本当だぞ! 小公女セーラそのままの姿だった! マチルドの父親は、郊外の広大な豪邸の中で、娘を自分の趣味と理想どおりに育ててたんだ。 学校はカソリック系の厳格な私立。ごく小数の決められた友達と、家庭教師と、大きなボルゾイ犬としか遊ばせなかった。俺はかえって感動したよ! そんなことが、実際にできるものなんだと知ってな!」 ところがままならぬものだ。父親は娘の若さに比べると、手のうちようがないほど年寄りだった。 しかも手のうちようがない病にかかってしまった。 父親は娘を誰かに託さざるを得なくなった。信頼できる、堅実な性格の誰かに。 自分は心からその期待に沿いたいと願った。 途中までは順風だった。 だというのに。若い犬が彼女に噛み付いて、それ以来全てが狂った。 「しかし、何もかも一概にヨシプのせいだなんて言えないだろう。たまたま彼はそこにいただけだ。だいたい、マチルドはそれまで父親の教育について、不満をもらしたことはなかったのか?」 眼鏡が言う。そんな偏った教育を受けたら、こどもは大変なはずだ、という意見が露骨に顔に出ていた。 「そんなことは決してない――。マチルドはまったく素直で聡明な子で、教えられたことはするりと自分のものにした。父親のことを深く愛していたし、また感謝もしてた」 「……言葉の上ではね」 「なんだと?」 「本音と建前だよ。分かるだろ? 君にだって」 と、眼鏡の男は足を組み替えた。 「人間、『これは正しくない』と分かっているものすら甘んじて記憶し、テスト用紙に書き写し、正解の丸をもらうことがあるんだよ。 器用な人間は、さらにそれを活用したり操作したりして、色んな利益を得ることができる。ところが改めて尋ねてみれば、『実はこの正しさをまったく信じてはいない』と答えるんだ」
『けれども、それが実際には、有益だから』 「同時に人は、実際には通用しないと分かっている理想を、敢えてこどもに教えることがある。大人とこどもは、その本音と建前を真ん中に挟んで緊張しあいながら立つものだろう? その摩擦をないと言いたいのは大人の勝手だけれど、大抵は――」 俺は、テーブルの上に体を乗り出した。大きな目で、男の目を見ながら、彼の言葉を封じるように、 「ないんだよ」 と言った。 「……」 「あんたの話がそれなりに事実を示しているのはわかる。だが世の中にはな、そんなインクルージョンを含まない、純粋な粒だって同時にあるんだ。学校で教わること、親が言うこと、教会が言うこと――」 『他人をねたんではいけません』 『人は互いに尊敬しあわねばなりません』 『人は人種や生まれに関係なく平等です』 『一生懸命にやれば必ず報われます』 『正直な人は尊敬されます』 『誰でもこの国では夢をかなえることができます』 「その全てを言葉どおりにまっすぐに飲み込んで、言葉どおりに振舞う。そんな言葉どおりの人間だっている。言葉と行いをばらばらにして二重に生きる、あんたらには思いもよらないことだろうがな!」 眼鏡は動じなかった。 ただこれのせいでよく年齢不詳と言われる大きな黒い俺の目を、どこかアジアを思わせる造詣のまぶたで一度遮った後、言った。 「――誰の話をしているんだ? クリフ」 「……」 俺は無意識のうちに、座席に座り込んでいた。無念さがどっと襲ってきて、頭を抱えたかった。 初めてマチルドに会ったときのことが思い出された。 夢と理想の国の住人。この子は、父親を信じてる。 父親の語る世界を信じてる。 そんなもの、本当は何の役にも立たないのに。 尽くせば報われると信じてる。 人にも認められると。 この子は俺だ。 守らないと――。 「マチルドの父親もフランス人なら、いつか娘が自分の世界から出て行くことを知ってたはずだけどねえ……」 眼鏡が言った。 「その夢の続きを、純粋で真面目な人間に担わせようとしたわけか……。なかなか業が深い」 俺は何か、つき物が落ちたような気分で、ただ黙って、足に当たるスーツケースの硬さを感じていた。 「クリフ。マチルドの父親が何を言ったか知らないけど、君が責任を感じる必要はないでしょう。あまり人の冗談を真に受けてはいけないよ。 この国じゃ、男女を密室に二人きりにしたら何が起きるか中学生でも知ってる。それしきのことで人生は壊れない。壊れるならそんな人生は壊していいと知ってる。 我々は巨大な建前とただれた本音の間で、罰当たりな悪い人間としてぬけぬけと生きる。こどもが自分の理想から離れて、そんな世界に染まっていくことを罰してやりたいと思うのは自然かもしれないけどね……」 けれどもほかに、お父さん。どのようにしようがあるのでしょう。 わたしはあなたがたの正しい言葉の世界に、永遠に生きつづけなければだめなのですか。 一週間前に、自分が吐いた言葉を思い出した。 『俺は君のはたらいた裏切りのせいで、君の父親の信頼を失い、こうしてアメリカへ帰るんだ』 マチルドがヨシプと一緒に、テーブルへ戻ってきた。気のせいか、彼女の目の淵が少しだけ赤いようだ。だが彼女は微笑んで言った。 「そろそろ時間よ、クリフ。ペットホテルにも寄るんでしょう?」 「……ああ」 俺は勘定をテーブルの上に投げ出すと、男達と格好だけ握手をして、外へ出た。マチルドが小走りについてきて、タクシーを拾ってくれる。 まるで何か悪い事をして、飼い主の機嫌をとりたい犬のように。 びくびくとして。 荷を積み込み、タクシーの扉が閉まる前に、彼女が言った。 「なにもかも、わたしのせいね。ごめんなさい」 俺はさっき眼鏡の男に言われたあの言葉を彼女に返した。 違うんだ。 人の冗談を真に受けるな。 道でいつまでも手を振っている彼女の姿を見ながら、なんとなく、お互いに出発なのだという気がした。 真面目で誠実だけれども、言葉にしばられた言葉どおりの人生から、俺と彼女の。 二人ともが。
(了)
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