L'inutile
かっこ兄さんの母さん





「おっ?!」
「……あっ」
「えーっ?!」
「…………」




 誰がなんと言おうが、パリは観光で食ってる街だ。復活祭の前後は特別混雑する。でもどれだけ一時的に街の人口が膨らんでいても、やはり、会うときは会う。
 赤いロングコートに身を包んだ女性を腕にぶら下げたデミトリは、まったくついていない、という表情で顔を赤らめた。女連れなんて滅多にないので一瞬ぽかんとしていた我等がジダン、アキ、ヨシプ(彼はいつもぽかんとしているわけだが)だが、三十秒ほどで一転、目つきが冷やかしに変わる。
 なにしろ、デミトリときたら真面目で演劇一筋で、しかもお堅い。ここ一年を思い出しても浮いた噂のひとつもなかった。
 こちらばかりがお恥ずかしい話をさせられて、何のお返しもないわけだから、みんななんとなく、彼に払いすぎているような、いつか取り戻してやりたいような気分になっていたのである。
「やだ、デミトリ! すごい偶然! しかもあなたが彼女と一緒だなんて、珍しい!」
「いやもう、ホントだな。紹介してくれよ。その彼女!」
変な勢いで前に出る二人を、ヨシプが横目で見ていた。
 デミトリが、ぐるんと頭を回して視線を前に戻した。だが、彼が何か言うより、彼に寄り添った女性があはは、とあけっぴろげに笑う方が早かった。
「いやだわ。私、彼女じゃないのよ。この子の母親なの。はじめまして」
「……」
 三秒ほど時が流れた。それから、周りの人が振り向くくらい素っ頓狂な声が、二人の喉から漏れる。
「――でええええええーっ?!」







 そう。「かっこ兄さん」デミトリの母さんはえらいこと見た目が若かった。大変な美貌と言うことはないが、自分の体をきっちり手入れしてきた女性の持つ清潔感と艶やかさがある。
 メイクも衣服も非常に今風で、間違いなく息子デミトリよりもずっと派手で、とても四十三歳には見えなかった。
「っていうか、四十三……?!」
 二十代半ばという彼の年齢を考えるとそれ自体、若すぎる数字だ。
「俺とトントンじゃねえか!」
「十代でおれを産んだんだ。珍しいことじゃねえよ」
「まあそれはそうだけどな……」
 自分に同じくらいの子どもがいることを想像すると、ジダンは感心してしまう。
 彼とデミトリはシャン・ド・マルスの一画で煙草を吸っていた。他の三人はというと、エッフェル塔を見物したり写真を撮りに行っている。
 お母さんは田舎から遊びに来ているから観光コースめぐりだ。加えてアキが「そういえば、私もここで写真を撮ったことない!」と言い出し、ヨシプを引きずって家族に送る用の写真を撮りに行った。
 今、三人は団体の旅行者に混じり、昔ロベスピエールがわあいわあいとやった辺りでデジカメ片手にはしゃいでいる。
 デミトリは朝からずっと観光地めぐりだったとかで少々くたびれていたらしい。ここらで一服して、休憩である。



「しかし、お前らしいな。休日に母親の案内だなんて」
「……」
「せっかく普段の貸しがいくらか取り戻せるかと思ったのに」
「勝手に借り貸しするなよ。――何が言いたいか分かってる。いい年してって思ってんだろ?」
「なーに、男はほぼ全員マザコンさあ。優しくするのは当たり前だ。あんなエネルギッシュで魅力的なお母さんなら尚更だろう」
 ジダンは遠くで明るく振舞っている女性を眺めつつ、煙を吸った。
「若いし、身奇麗だし、元気一杯で素敵な女性じゃないか」
「……」
 普通の会話のつもりだったのに、デミトリは答えなかった。煙を口に含んだまま、ちょっとジダンの顔を見て、笑う。
「……なんだよ」
「元気すぎる」
「いいじゃないか。少女みたいで」
「あとでどっと来るんだ。はしゃいだ後はな」
「――……?」
 変な顔をしているジダンを置いて、デミトリは話題を変えた。
「ジダン、メールするつもりだったんだけど、会えたから名刺渡しとく。これ、新しい劇団事務所だ」
「……なに? お前、また劇団やるのか?」
「ああ。大学生の演劇グループとつながりができて、立ち上げてみることにした。ミラも一緒だ。ジャン・バチストは今、地方公演に出ててまだはっきり返事が出てないんだが、出来れば……」
 受け取った名刺を一瞥した後、ジダンは眼鏡の奥からデミトリの顔を見た。ちょっと、呆れたという感じだ。
「大変なのに……」
 ジダンは、一度劇団を解散した後は別の道を採った男だ。劇団の楽しさ、利点はよく分かっていたが、その分ノンストップで降りかかる面倒くささがネックで、もう一度同じ事をしようとは考えなかった。
「よくやるな、お前……」
 デミトリは煙草を持つ手をあげた。褒められたのではないことはちゃんと理解している。
「俺は劇団って形が好きなんだ。運命をひとつにして家族的なつながりを持つところがな」
「……おれはそういうのが荷物になったクチだけどな。全員のわがまま被ることになるぞ。また……」
「ああ」
 デミトリは言った。彼はその正直で邪心のない性格のせいで、人から利用されることも多い。だいたい役者だの興行主だのと言った舞台関係の連中は、格別モラルの高い層でもないし、よくできた人種でもない。
「分かっている」
「本当かねえ。……でかい借金だけは背負い込むなよ……?」
 デミトリは、諦めたげなジダンの言葉に振り向いて、ちょっと笑った。風が髪の毛を流して行く。
「信用ないな。そんなに危なげか?」
「いや。俺も地方の出だし、お前が劇団の何を愛してるか、まあ分かるよ。どうしてもやっぱり大家族的にやりたいってんなら――。ただ、お前はなんかな、ひたむき過ぎるところがあるから……」
 犠牲にならないように。
そう言いかけたジダンは、デミトリの寂しい笑みに口を噤む。
「――家族なんて、偽善の牢獄で、弱者を犠牲にするだけだと思ってた」
「……」
「人が集団になって、いいことなんかひとつもない。家族もそうだ。病理を拡大して、メンバーの人生をゆがめるだけ。
 ――芝居をやるまでは」





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