L'inutile
かっこ兄さんの母さん
幸か不幸か、この国で孤独であることは難しくない。だからそのまま行けば、俺はやがてお袋と同じ病理に落ちていたかもしれない。 なぜなら答えを持たぬままに家族を棄て、人々の間をさまよい歩くという流れは、母のたどった道とまさに同じだったからだ。 事実、俺は社会性に問題のある、きわめて危げな子どもとして十代を生きた(高校の教諭から後年、マークしていたとはっきり言われたことがある)。 ある日、授業で芝居をやるはめになった。 心底下らない……、と思っていたのに、その経験を通して、俺は変わった。 あれは、素晴らしかった。 今考えても素晴らしかった。 そこでは大勢の人間が一時運命を共にする。利用も依存も湧き立って、情と計算がごちゃまぜになる。 でもみんなが夢中で努力すれば、その行き着く先は貪りあいでも虚無ではなく、美しいなにか。 美しいなにかなのだ。 人が二人以上でいると、何かが生まれる。 一人でいるときよりも、或いは禍々しく、或いは美しい、なにものかが。 そう分かった――というよりもまさしく信じられた、あの日の感動は、忘れられない。 あれが俺の信仰の祠だと今でも思う。 だから再びあそこへ到達しようといつも思っているし、そのためには手段は問わない。 先に言った高校の教諭は、卒業後、自分が劇団のリーダーをやっているんだと言ったら笑ったものだ。 にやりにやり。してやったり。 つまり俺は、運がよかったのである。 「それでも、いまだに病的なお袋の言動にも落ち着いて向き合うだけの余裕ができてきたのはやっと最近だ。 電話したりすると、あいつは――俺が言うのもなんだが、迷子になって警察署に保護された子どもが親からの電話に飛びつくみたいに、全神経を集中させて夢中で応対する」 「…………」 「メロメロなんだよ。犬みたいに。ハートが飛んでる」 戻ってきてくれたのね。分かっていたわ、あなたはやさしい子どもだって。あなただけは私を見捨てたりしないと。 だって家族ですものね。家族ですものね。お前は私の息子で、私はお前の母親。 永遠に、その絆は途切れないわ。 ――彼女が自分の立場を利用して、安心し幸福になろうとしているのが手に取るように分かる。母の両足が自分の胴に絡みつけられ、内臓を締め付けているのが分かる。 デミトリは、まったく軽蔑するし、心底うんざりだし、たまらないと思う。 が……。 「……それでも、パリに来るといわれたら、オフの日つぶして付き合うのか」 ジダンは苦笑し、灰を落とした。 お母さんは大変な化粧をして若いぴかぴかの服を着ている。 そして息子とべったり腕を組んで歩く。 今はエッフェル塔の前で、子どもみたいにおおはしゃぎ。 大人同士、対等な付き合いでないのなら、それに彼女がもし恋人と一緒にここにいるつもりになっているなら――そのさまはかなり痛いし、滑稽だ。 「しょうがないだろう。そういう人なんだよ、病気だ」 「復讐はどうしたんだ、復讐は?」 「うるさいな。分かってるよ。マザコンだろ? そう言えばいい」 「いや、お前はマザコンじゃないな」 「……」 「前はそうだったかもしれないが今は違う。立派だよ。俺よりも数倍な。――今度、クリスティナと一緒に、改めて事務所に邪魔するよ。メンバーを紹介してくれ」 「……ああ」 デミトリが頷くと、ジダンは携帯灰皿を鞄に戻し、にやっと笑った。 「でも、そのうち普通に女の子とも付き合えよな?」 「! ほっとけ!」 「みんな手ぐすね引いて待ってるんだよ? お前が女と付き合うの」 「からかいたいからだろう?!」 「あたりまえじゃないですか。 おー、連中やっと戻ってきた。満足そうな顔だなあ。どうするよ? おふくろさん、きっと街に戻ったらモノスゲー多量の写真を送ってくるぞ」 「……一枚、事務所に飾るさ。いましめにな」 あっはっはと軽く笑っていたジダンには予想外のことがあった。 ごきげんで郷里に戻ったデミトリの母は、幸せのおすそ分けとばかり、ジダン家にまで写真をどっと送ってきたのである(住所は考えなしのヨシプが喋ったらしい)。 「アキやお前が写っているものはともかく……」 派手な赤いコートのおばちゃんだけが嬉しそうに写っているエッフェル塔写真が、三十枚。 さらにいつの間に映したのか、デミトリが中心でジダンが半切れになっている写真が同じほど。 これを一体どうしろというのだ。 デミトリは約束どおり一枚を事務所に飾り、ほかは机にしまい、新しい劇団の旗揚げ公演に向け、毎日彼らしく、がんばっている。
(了) |
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