L'inutile -19-
一大抒情詩を聞け






「ふふふ……、さすがいいミルと高い豆だ。切れ味いいうえに、いい香りがするねえ。カフェって結局、焙煎中と粉ひき中が一番いいにおいがすると思わない? 飲んでる時はもはやその……」


「――で?」
 小型の珈琲ミル(彼女の私物)の取っ手をかき回しながら、自分の視界を右往左往するジダンに、クリスティナは我慢できず、とうとうペンを止めた。
 時刻は午後三時過ぎ。まったくお仕事時間だ。だというのにこの馬鹿演出は、昼前にふらりとやってきて、それからずっと取るにたらないことを言いながら、事務所のあちこちを流氷のようにさまよい歩いている。
 放っておいたらそのうち帰るだろうと思っていたが、おっさん一向おとなしくなる気配がない。
 ついに業を煮やしたクリスティナは、仕事を中断し、顎に手を当てた。
「一体、いつまでそうやって私たちの仕事を邪魔するつもりなわけ?」
「邪魔なんて。みんなにおいしいカフェを振舞おうと思っただけじゃないか。そろそろ豆も挽けたからいれてく」
「一時間前に飲んだでしょーが! まだ誰も要らないわよ。大体、カフェいれるのだってラファエルの方がずっとうまいわ。いい豆なんだから、ピンボケな味にしないでよね、もったいない」
「一生懸命いれたのに。女って時々ひどいことをさらっと言うよなあ。傷ついた」
 アホか。
 クリスティナは履いているエナメルの靴でジダンを蹴り飛ばしてやろうかと思った。
「大体、あんた、なにしにここにいるのよ?! これから仕事なの、仕事じゃないの?
 仕事なら、いい加減時間つぶしは別の場所でやって。本屋でもカフェでも川辺でも映画でも、この街にはいくらでもあるでしょー? 仕事でないなら、尚更どっかに消えなさいよ。こっちは忙しいんだから! ヨシプに電話して、無料で回収に来てもらうわよ?!」
「あ、それはやめて」
 片手でミルを抱え込みながら、ジダンはもう片方の手でさっと止めた。
「そもそもそれが怖くてここに来てるんだから」
「――はあ?」
 彼女は眼鏡の奥で眉を寄せた。
「なにそれ? 彼と喧嘩でもしたの?」
「い、いや……。実は……」
 ジダンは悩み疲れた深刻な表情を浮かべると、ついに打ち明けた。
「実は昨日、なんの連絡もいれず、無断外泊してしまってね……」



「……思春期? あんた思春期?」
「仕事帰りにカフェで飲んでたら、なんかもう明らかに一晩付き合えやっていうオーラを発している女の子がいて……」
「道理でなんかシャツがくたびれてると思った……」
「何故かその子が妙に俺を気に入って、酒を飲んじゃどんどん絡んでくるんだ。俺もだんだんこー……、面倒くさくなってさあ。たまたま初めて入ったカフェで、知り合いも周りにいなかったから、いいかあって……」
「で?」
「いやもう、その子の部屋が汚い汚い。どっかのOLさんだと思うけど、映画のポスターとかベタベタ貼ってあって十代の部屋みたいでね。ベッドの上もなんか雑誌やら散乱してえらいことで。
 部屋に着いた時は、まさに『正体なくすほど』潰れちゃってて、でもまあ据え膳だしと思ってそこに泊まったわけですよ。
 ――朝起きたら、向こう、なーんも覚えてなくて。俺の顔見るなりさーっと青ざめて、きゃーダレあんた!! ってもう大騒ぎ」
「…………」
 クリスティナは手の位置を額に変えた。
「もーパニック起こしてキーキー叫ばれて、なんの弁明も説明もできないまま通りに放り出されてね。まあ警察呼ばれなかっただけマシかも。
 ……きっと気付いたら午後一時で、それこそ会社に連絡も入れないままそんなに寝坊しちゃたもんだから、その時点で頭真っ白だったんだろな。しかも悪いことに、前夜愚痴ってた内容の大半が会社の上司についてのことだったからね……」
「……つまり、あんたは昨夜、そういう始めから終わりまで安っぽさ全開の、考えナシのつまんない真似をしてて、家に戻らなかったわけね?」
 芸の肥やしどころか、思い出すたびやめときゃよかったと後悔するようなヘタな遊びだ。
「……聞く方ががっかりするわ。ったく」
「それで悩んでるんじゃないですか。家に帰って、ヨシプと顔を合わすのが怖い」
「自業自得でしょうが!
 ――大体、ヨシプはそんなこと気にもしないでしょ? あのコがそんなので怒るなんて思えないんだけど?」
「いやー、それが最近ねえ」
 ジダンは意味なくミルを回す。
「あいつもちょっと人間らしくなってきたんだな。前ねえ、俺が帰省で長いこと家を空けたとき――、戻るなりあいつに言われたことがあるのよ」




『 あんたがいないと、道に迷う 』




「これ、どういう意味だか分かるでしょ?」
 クリスティナも同じだった。ジダンと同じようにかなり驚いて、ちょっと呆然とした。だが、それでも質問には答える。
「ええ。分かるわ……」


 わたしはあなたをたよりにしています。
 わたしにはあなたがひつようです。
 あなたがいなくて、さびしかった。


「そういう態度が出てくれば、当然嬉しいし、こっちだって同じように家族として愛しくなってくるじゃないか。自分を理解してもらうために、ちゃんと説明とか、行動をすべきだと思うようになってくる」
「ええ、そうね。それが当然だわ」
「――そうするとさあ、昨晩のことに関しても、ただごめんねで済ませるわけにはいかないってことになるだろ。
 一体、何だって俺は遠くの恋人を忘れて、そんな見え透いたくだらねえ罠に引っ張り込まれちゃったのかって話を、ちゃんとしないといけないと思うわけだ」
「……」
「そりゃ俺がバカだと言われりゃそれまでだけど、そこでつっと流されちゃう理由はやっぱりちゃんとあるわけだ。相手の女の子の何がヒットしちゃったかって理由も俺なりにあるわけだよ。
 どーして俺はこの年になってまで、時折思い出したみたいにこういう安いポカをしでかすのか、いつまでも大人になれないのはどうしてか、ということについても色々説明はしたい。
 しかしそれを話して聞かせるとなると、俺の幼少期の淡い憧れとかから話を始めて、今までに俺の人格形成に関わってきたすべての事柄を話すことになるだろ?
 かてて加えて心理の奥に潜む失敗願望とか、年老いていく自分の肉体にたいする恐怖だとか、遠い女性は俺にとって母親と混同される傾向があるんだとか、単純にいつまでも貧乏根性が抜けないって話とか、誠実に全てを語って理解してもらおうとなればそれはもう、一時間や二時間ではすまない男の一大抒情詩なわけで」
「…………」
「もちろん俺としては、同性のヨシプにそこまで分かって欲しいし、説明したいわけだけど、実際にそんなことしたら寧ろすげえ冷ややかな目で見られるんじゃないかと思うと心配で心配でこうして家に帰られず――」
 クリスティナは怒りのあまり、手にしていたボールペンを投げ付けて言った。
「――さっさと家に帰りやがれ!! この役立たずの中年男!!」








 結局、一時間後にジダンは帰宅し、家でテレビを見ていたヨシプにけっこう冷たくあしらわれた。
 その時の有様を、後日あちこちで
「こわかったよう」
とめそめそ語ったが、あまり人からの同情を得られなかった。





(了)

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