L'inutile -20-
アキ、口説かれる





「あ、もしもし、伯母ちゃん? こんばんは、アキです。うん。お馴染みの月例報告〜。
 元気だった? あ、そう。よかった。うん、あたしも大丈夫。ていうか、メール見たよ。なにアレ? どういうこと? 笑っちゃったんだけど。
 ……だから、シン君は二つ下に住んでる近所の人なの。韓国系レストランやってて、顔見知りだから、あの人たち連れてった時も、かなり親切にしてくれたわけよ。でも普通それだけでそこまで勘ぐる? ……は? マジで?! 結婚……?!
 馬ッ鹿じゃない。どうかしてるよ、あの人達。一体どういう発想でそういうことになるんだろ。もー。
 ひょっとしてアパート移ったのも、新しい恋人と一緒に住むためだったんだとか思ってんじゃないの? うっわ〜……。
 困るよね、ほんと。げんなりだわ。ていうか伯母ちゃんもげんなりだよね。適当に流しといて。なんていうか、勘違いのレベルじゃなくて既に妄想だから。あれ。今、お付き合いしてる人はいません。って。ちゃんとあの人たちにも言ったのになあ。
 え? …ううん? 寂しくはないよ。一人暮らし、慣れた。つか前も結構一人の時間あったしねー。
 仕事もまあ、うん、順調かな。いやいや、そんなことはないですよう。…ありがとうございます。
 今ね、オペラを芝居に直した作品やってるの。そ。かなりメロドラマな感じ。ん? ――『蝶々夫人』
 あはは。やっぱそう来る。違う違う。私、それじゃないの。え? うん、だから切腹する役じゃないんだって。おもしろいんだよ。その『蝶々夫人』ねえ、人種が逆になってるの。
 あれって日本人の女がアメリカ人の男に裏切られて自殺する話でしょ? でもね、今やってるのは、それが逆転してるの。そ。だから無垢なフランス人の女性が、アジア系の男にたぶらかされる話に変わってるわけよ。
 ね? ちょっとおもしろいでしょ? うん。演出家のジダンのアイデア。彼、一年前にはシェイクスピアの『オセロ』を人種逆でやってて、これもすごくおもしろくてね。今回はそれの『蝶々夫人』版なわけ。
 だから私はオペラで言うところのピンカートン夫人役。そうそ。蝶々さんを裏切った男が母国で迎えた、正式の奥さんね。だから終盤にその男と登場してきて、あくまでも優しく、蝶々さんに言うわけよ。
 『あなたにはまことにお気の毒です。でも私も主人も、あなたの子どもさんを引き取りたいと思っているのです。どうですか?』って」







「――本当に、おかわいそうな方! でも心配はいりませんわ。子供は、私達の本当の子供として育てます。愛情をたっぷり注いでね。きっと彼も二、三年経てば周囲に馴染んで、私のこともお母さんと呼んでくれるようになると思いますわ。
 今まで、さぞご苦労をなさっていらしたのでしょうね。どうか少しお休みになって」
「苦労? …子どもは…。私の子どもは…」


 パピヨン(この芝居における蝶々夫人)はカフェに勤めていたただの女給で、天涯孤独で、その上、愛に弱い女だ。
 誰からも注がれたことのなかった愛情を国費留学生のモリから注がれて有頂天になり、みなが眉をしかめて「やめとけ」と見つめる中、同棲を始める。
 子どもが生まれる頃、彼は友人の勧めで日本に帰国。必ず戻ると約束したが、それから三年、なんの音沙汰もなかった。
 その間、金持ちのデュノー氏がパピヨンに結婚を迫ったりするが、彼女は頑として応じない。
 三年後、立派な官吏となったモリはついに欧州へ戻ってきた。だがあろうことか、妻を伴って。
 その上、現れたモリ夫妻はパピヨンとモリの間に出来た一人息子を引き取ろうとする。多額の見舞金と引き換えに――。





「面白そうでしょ? 最初『蝶々夫人』って聞いたときには私も『えー?』って思ったんだけど、思えばジダンが演出やって、ヤコブがゴーサイン出すんだから当たり前な作品なはずなかったわ、うん。
 ああ、ヨシプも出てるよ。私の旦那。モリさん役。うん。そうなんだけどね。でも彼、髪は黒いし背はさほど高くないし。髪の毛にコテ当ててストレートにして、古い丸めがねかけて燕尾着てるとかなりそれっぽいよ。
 しかもそのモリさんがね、最後の最後まで『ああ、苦しい!』とか『すまなかった!』『悪かった!』なの。もう本当に見苦しい(笑)
 夫婦揃って勝手に親切ぶって、棄てた女に恨みごとのひとつも言わせないのよ? パピヨンがうかつなくらいに優しい女なのを知ってて、善人面で子どもがらみの取引しに行くの。卑劣でしょ。
 あれね、マジひどい話だわ。今回やっててよく分かった」







 ――舞台は、ついに子どもを渡すことに同意し、くたびれ果て絶望したパピヨンの自殺というクライマックスへ向かっていた。
 出の終わったアキは、モリ役のヨシプと装置の後ろで別れて、一人袖に入る。
 役者達の私物の置いてある椅子の傍に、ジダンが立っていた。腕組みをして、舞台設備の制御盤の傍に設えられた、モニターを眺めている。
 アキを見ると、お疲れさん、とでも言うように頷いて見せた。
「ひどいわね」
 ペットボトルの水を含み、アキは笑った。
「ほんと、ひどい話」
「……」
 舞台上では、パピヨンさんがまさに自殺するところだ。刃物ではなく、短銃を胸に押し当て。
 何も知らない子どもは目隠しをされて、鬼ごっこだと思ってそこらをはしゃいでいる。
 装置の後ろからヨシプのモリ氏が、彼女を呼ばわる声がする。
「パピヨン…。パピヨン…。パピヨン…」
 それは猫撫で声で、一幕の間は甘く聞こえたものだが、今では寧ろ追い詰めるかのようだ。
 ヨシプは執拗に、恐ろしく甘い声で、彼女を呼ぶ。その声が響くたびに、照明が変化し、舞台の上が驚くほど虚ろに見え始める。
 ついに何もかもがありのままの、貧しく虚しい姿をさらしてしまいそうになる直前――
 パン!
銃声一発。
 パピヨンが倒れると、モリはアイザワという同僚と一緒にやってきて、まだウロウロしている子どもの前に膝をつき、抱きとめる。
 そして彼を抱き上げると、子どもを守ろうとする時の早足で、すぐいなくなってしまう。
 舞台の上には、一人死にゆくパピヨンだけ。
 外国人にだまされたこの惨めな女給の話は、やっと終わる。

 ――明かりが落ちると、客席からは、苦しげなため息と一緒に、拍手が湧き起こった。カーテンコールのために再び舞台が明るくなると、観客達のなんともいえない表情も一緒に照らし出される。
 『蝶々夫人』と聞けば――どうしたって東洋萌え萌えのイメージを抱いてやってくる人々に、この舞台は食堂の冷えたスープのような物語を食らわせる。
 ジダンは各要素をひっくり返し、装飾と派手な音楽を主人公に対して疎外的に使い、信じられないほど単純で愚かな女の、破滅の物語を作り上げて見せたのだ。
 主役のパピヨンをやっているソフィが、公演前、くつくつ笑いながらアキに言ったことがある。
「昨日さ、両親が見に来たんだけど、こうよ。
 『よかったよ。いい舞台だった。セリフは美しかったし。でもお前、どうしてあの金持ちのデュノー氏が近づいてきた時、彼の元へ走らなかったんだい?』」
 今日も観客達は、舞台はすごかったけれど、なんでもっと、このお馬鹿さん! という感じで、いらいらしながら拍手していた。
 次から、彼等は当たり前の『蝶々夫人』も、もはや遠くて安全な悲劇だとは感じられなくなるだろう。
 それが、袖で腕組みしたままカーテンコールを眺めている、演出家ジダンの目論見なのである。






「そーだ。その舞台でね、照明を担当してる人がいて、その人もクロアチア出身なんだって。最初予定してた人が予定が合わなくなっちゃって、代わりに来た人らしいのね。
 若いのに、すごいセンスのいい人。あと自分で映像作ったりもするみたいでさ、ヒマさえあればビデオ回してんの。
 うん。そう。同じ国の人。だからヨシプと全然分かんない言葉でよく話してるよ。
 うん。いや、その人がね? あー、その人が。――何を思ったか…。どうもわたしのこと気に入っちゃったらしくてさ…。
 何かって言うと、傍に来て、すごい話しかけてくるのよね…」






「はいみんな、お疲れさん。おかげで無事折り返し地点まで来ることができた。明日の月曜休みを挟んで残り六日間、無事故で乗り切ろう。乾杯」
 ジダンの声に、みんながめいめいのグラスを持ち上げ、乾杯する。
 公演期間の半分を無事終えたということで、本日は軽く打ち上げである。
 本来なら最終日なのだが、今回の舞台は多忙にしている俳優が多く、特にパピヨン役のソフィは千秋楽が終わり次第ロンドンに行くとかで、全員が揃っての飲み会をなか日に敢行することにしたのである。
 乾杯を終えるや、早速アキの下へ移動してきた青年がいた。
「やあ、アキ! お疲れさまー!」
「あ、ルーク……。お疲れさま」
「今日も素敵だったね! 照らしてて楽しかったよ。ほんと俺、今回君のためだけに仕事してる」
「はは、ありがと……」
 照明のルークは、アキの隣に強引に入り込んで、隣でぼけっと座っていたヨシプをソファの端へ追いやってしまった。
 彼は落っこちそうになったところをやっと建て直し、お尻を半分残して、半分は空気椅子状態だ。
 そこまでされて無抵抗なのもどうかと思うが。
「……」
 アキは困ったような表情を浮かべるが、ルークはまったく気にしない。そんなものは見えませんとばかり、ニコニコ笑っていつものように攻めの一手だ。
「なー、アキ。俺が君と友達になりたいと思ってるのは知ってるよね。君も今度うちの家に遊びにおいでよ。珍しいビデオとかDVDいっぱいあるぜ。それに俺DJもやるからLPレコードたくさんあるしね。
 あと俺が作ったビデオ作品もたくさん落としてあるから、見せてあげるよ。自分で言うのもなんだけど、なかなかのもんだぜ?」
 これは本当のことらしい。とにかくこのルーク氏は、多芸多才のようなのだ。それに機械に強く、どんな機材でもすぐ使いこなしてしまう。
 ショートフィルムを作るのは趣味で、主にネットの動画サイトなんかで公開しているそうだ。
「アキ、日本人だろ? そういうの興味ない?」
 新しいオーブンの使い方が分からない日本人だっているんだってば……、と思いつつ、アキは曖昧に笑った。
「そうね……。こないだヨシプが出たって作品は、ちょっと見てみたいけど」
「あー。あれね! あれはまだ編集途中だから見せらんないな。他のは幾らでも! 今度、君も是非ビデオに出てよ。ギャラは払えないけど、飯でもおごるからさ」
「ごめんね、勝手に映像に出ちゃいけないって、怖い怖いプロデューサに厳命されてるの。それにネット配信だと、どこでどういう反響が起こるか分からないから、ちょっと怖くない?」
「あーまー、確かにそれは否めないけどね。
 一回、街中で会った子の映像を許可もらってビデオに使ったら、警察から電話かかってきたことあるよ。家出中で、家族が探してたんだって」
「へー。それって名前出してたの?」
「いや、素人さんだし、まさか出さないよ。でも分かる時は分かるんだろう。俺のビデオ、結構人見てるし」
 同じ国の出身でも、ルークはヨシプとは全然違うタイプの青年だった。彼はネアカで頭がよく、何でもさっさと出来てしまう。
 言葉もあと二ヶ国語くらいいけるらしいし、アウトドアやスポーツも大好き。メディアも音楽も服装もフードも、新しいものを意欲的にどんどん取り入れることでは、仲間内でも一目置かれていた。
 今は完全にパリに馴染んでいるし、多分ニューヨークにいればニューヨークに、東京にいれば東京スタイルにすぐ馴染むだろう。
 常識や伝統などにはとらわれない、国際人という感じだ。自信に溢れていて、クールで、明るく、怖気がない。
 見ていて頼もしいし、大変気持ちのよい男性ではあるのだが――。






「え? いや、結構ハンサムだよ。そりゃ、モデルさんみたいな顔じゃあないけど、自分の長所をよく分かってて、きっちり押さえてる人。おしゃれだし…。
 うん。実際モテてる。みたい。
 さあ……、何がいけないのかなー。まあちょっとお付き合いするくらいだったらいいかってちらっと思うこともあるんだけど……。
 なんだろ? なんでか、そういう気にならないんだよね。
 は? や。いいじゃん。オールドミス上等ですよ。私、その道をかなり順調に歩きつつあるって自覚あるし。
 ふふ、なに言ってんの、伯母ちゃんだってそうだったくせに…。うん。似てるよね、なんでか、母さんよりも。昔っからだもんね、分かってるって。
 でも私、正直言って親類の中に一人くらい味方がいてよかったよ。みんながみんなあの人達――うちの両親みたいだったら、多分キレてたもん。
 うん。ありがと。うん……。そろそろ切るね。また電話する。あ、そうだネコちゃんによろしくー。あはは、おやすみ!」




*



 不快極まりない。ジダン・レスコーは自らの生い立ちから被った生きづらさに対する復讐心から、この芝居を作ったに違いない。
 彼は我々に対し、何かとても言いたいことがあるようだ。だが我々はそれに応じる必要はない。(中略)
 『蝶々夫人』は幼稚な怒りによって仕組まれたヒステリックな舞台であり、全編を貫く古臭く、あてつけ的な自虐性は見る者を憂鬱にさせる(F)




*



 彼の『オセロ』を見た時も思ったのだ。一体どうして我々はこれほど胸苦しくなるのだろう。レスコーはただその人種を逆転させてみせただけで、筋は同じなのに。もはや私達は彼女の悲劇を「楽しめ」ないのである。
 このいらだたしさの奥には、私達が物語に対して無意識に期待している慈悲がある。
 物語は時に過酷だ。だが『私達』のことは大目に見てもらいたい。『私達』だけは幸福にしてもらいたい。我々は物語に対し、常に一定の期待を抱いているのである。
 それでは我々は、この『私達』という感覚を一体何によって得ているのだろうか。
 レスコーがこの舞台によって西欧人、或いはその文化的なものの見方を攻撃していると考えるのは間違いだ。
 彼はただ、『蝶々夫人』を『私達』の物語に翻訳して見せただけである。
 その時、物語の要素のうち何をひっくり返せば『他者』が『私達』になり、『私達』が『他者』になるのか。彼は、人々にそれを思考することを要求しているのである。
 おそらく、『他者』性を『テロリスト』という言葉で覆い隠す手口が横行している、今この時だからこそ。
(R・ショーモン)



*




 零時過ぎ、会はお開きになった。それぞれ手を振りながら、タクシー乗り場やら深夜バスやら散らばっていく。
 悪いことに。といっては失礼だが、アキとルークは同方面で、同じバス停でバスを待つことになってしまった。
 まあアキもこの国に来てから、少しは男性のあしらいに慣れた。何とかなるさと覚悟を決めたが、ルークは思いの外しっかりしていて、態度はさっきよりも寧ろ控え目だった。
 とは言っても、やはりバスに乗り込むと、
「ねえ、途中下車して、遊びに来ない?」
と言い出したが。車内の棒を手にしたまま、アキは苦笑する。
「行かない」
「なんで? 俺のこと嫌い?」
「嫌いじゃないけど……。前も言ったでしょう。恋愛関係になりたいとは思わないって」
「ふーん」
 ルークの声が、少し普段と違った。気分を害したようだ。
 しかし勝手に好意を抱かれた挙句、勝手に機嫌を損ねられても困る。
 だからいやなんだよね…。アキは心ひそかにため息をついた。
「そんな難しく考えることかなあ」
 流れて行く夜景に集中しようとする彼女の横で、ルークが再び口を開く。
「アレなんて――喉が渇いたら水を飲むようなものでしょ」
 い、いや。あなたのお国のことはいざ知らず、私はそういう教育されてないんですけども。
 だがアキが反論する前に、彼は独りよがりにまた言い出した。
「いやまあ、分かってるんだけどね。俺は。分かってるんだ。ああ。――ちゃんと」
 ……どうもおかしいと感じたアキは、その時、初めて彼が酔っているのに気がついた。
 妙におとなしく思えたのは、それだけ飲んでいるからだったのだ。普段は自信に溢れ、明るいイメージの彼なのに、なんだかいきなり性格が暗くなり、思考が変に僻みっぽくなっているように見えた。
「……ちょっ、ルーク。大丈夫?」
「ああ。キミがごまかしたって、俺には分かってるよ。――君が俺の誘いに乗ってこないのは、あいつがいるからだって」
「……は?」
 一瞬、ヤコブのことかと胸がドキリとしたが、ルークの指していたのは、別人だった。
「ヨシップ・ラシッチだよ。君の夫だ」
「――や。それは役の上での話でしょう? しっかりしてよ」
 その時、アキはぐいっと手首を握られた。ちょっと恐怖さえ覚える。
「ル、ルーク…!」
 一気に酔いが吹っ飛んだ。痛い。このまま離してくれなかったらどうしよう。
騒ぐべきか。助けを呼ぶか?
 ルークはつかんだ手に顔を寄せてきた。その目が、怖い。
「あのね。俺が、毎晩毎晩、どういう気分で君らに光落としてるか分かってる? ……まったく馴染んだ雰囲気の二人。出てきた瞬間、パピヨンが入る隙間なんかどこにもないと分かる二人。調和しきっている二人」
 だからそれは演出じゃないか! 色んな手を尽くして、そういう空気が出るようにしてあるのだ。
 それに対して嫉妬するなんて、スタッフのくせにジダンの術中にはまりすぎている。
「腹立つ……。俺、あいつが憎くて憎くて仕方がない時があるよ」
「お、オーバーね。同じ国の人でしょう?」
「……ああ。そうだよ、同じ国のね……」
 混乱したアキには、どうしてルークがそこで笑ったのか分からなかった。
「――けど、違う。あいつと俺は違う。違う。違うんだ……」
「ちょ、ちょっと、ルーク、いた……!」
 唐突に、ルークはアキの手を離した。彼女が咄嗟に一歩引くと同時、バスが止まる。
 ルークはついと体を回し、数人の乗客と一緒にそこで下りていった。挨拶もせず、まるで糸でつられた幽霊のようにすーっと街へ消えていった。
 再び動き出したバスの中で、アキはぐったりだった。離してもらったのはよかったが、手首はまだじんじんしているし、なによりワケが分からない。
 どうして自分がこんな目に…?
なんなの、あれは。もぉぉ…!






*





 しかし火曜、劇場に戻ると、もうルークは普段どおりだった。というよりも、どうやら飲みすぎてあの日の記憶が曖昧なようだ。
「いやー。アキと一緒にバスで帰ってきたことは覚えてるんだけど、なに喋ったとか別れ際のこととか、よく覚えてなくって。
 なんか変なこと言った? 言ってたらごめん。許して。飲みすぎだったよ。次の日も二日酔いでさー」
 もちろんアキは許したけれど、同時に彼の家に遊びに行くこともなかった。
 ただでさえもてあましていたのに、事故とは言えあんなネガティヴな面を見せられたのでは、ちょっと足が向かない。
 以前からなんとなく漠然と感じていた、信用できない感じが、はっきり心に根を下ろしてしまい、以来彼の攻撃にもまともに取り合えなくなった。
 ルークの方は残念そうだったが、アキにはどうしようもない。とにかく舞台が終わって彼と会わずに済むようになり、ホッとしていた。
 とは言え、ジダンは彼が才能豊かなスタッフであることを認めてまた仕事をしたがっていたし、ヨシプとは当たり前のように関係が継続していたので、まったくコネクションが途切れたわけではなかったのだが。
 あの晩、彼が吐き散らかした様々の言葉は、要領を得ない酔っ払いのひがみとして、アキの記憶に埋もれて行った。
 ところが、それからたっぷり二ヶ月も経った頃。
彼が何のことを言っていたのか、判明する出来事が突然起きた。
 ルークは舞台の終わった半月ほど後、ビデオ作品の編集を終え、いつものようにネットにアップした。ヨシプがボランティアで出演した例のビデオである。
 それが思いがけない反響をヨシプにもたらした。ある日、彼は叔父から電話を受け、厳しい口調で叱られたのである。
 それは内容のためではなかった。ショートフィルムの内容は芸術的で、筋などないものだ。性的な要素もまるでない。
 しかし叔父は相応しくない人間と付き合ったということで、甥を責めたのである。


 ぽかんとしているヨシプに叔父はまくし立てた。
あいつの本名はルカ・ミハイロヴィチというんだ。
「確かにクロアチア国籍を持っているらしいが――、セルビア人だぞ!!」


この話はつづく。



(了)

<< 前 トビラ 次 >>