L'inutile
自然




『――ちょっとだから、聞いてるの? あたしは悪くないんだってば!
 悪くないのにどうして折れなくちゃいけないわけ?! 誰に聞いたってそう言うよ! 前のはいざ知らず、今回のことについては、私が正しいんだから!
 どうしてもっと私の味方してくれないの?! 結構長い付き合いじゃない、味方してよ! 私はあなたを頼ってるんだから!』
 受話器から聞こえてくるマチルドの声に、ヨシプは思わず失笑してしまった。
 今夜のマチルドはちょっと酔っているらしく、いつにもまして物言いが率直だ。
「……でも、そんなに簡単に、仕事を降りたりしないほうがいいと思うよ」
「じゃ、なに?! あのバカ演出の言うこときいて、ハイハイごめんなさいって調子合わせとけっていうの? やだ! 絶対やだ! やめてやるんだから! 間違ってるのは、あっちだもん!」
「……なんかあべこべだよ……。僕は部外者だし、彼は一緒に舞台を作る仲間でしょ……」
 どっちが君の味方なんだ。
「それに正しいことって、そんなに大事なこと?」
 マチルドの声が向こうでえ? と言った。
「僕が知る限り、正しいってことは、やりきれないことだよ――とても」
 電話を切る。身をそらして置き時計を見やると、午後九時半だった。
 居間のソファの上ではアキが眠っていた。猫みたいに世をすねているうち、寝入ってしまったのだ。
 ヨシプはお腹がすいたので、彼女が持ってきた和菓子の箱から、丸いもなかを取り出して、かじった。
 外は真っ暗で、大窓に自分の姿がはっきり映っていた。ヨシプはソファの後ろを通って窓辺に立ち、カーテンを閉める。それから、眠り込んでいるアキの寝顔を上から見つめた。


 けっこう長い付き合いじゃない。味方してよ。


 と、マチルドは言った。確かにそうだ。人間ずっと身近にいるものには当たり前に愛着が湧いてくる。いかに昼行灯なヨシプであっても、蓄積されていくものはある。
 だからどうして、あんなことが起きたのか、全然分からなかった。
 村の人達は、自分達とおなじように、みんな仲良しで、時々揉め事なんかが起こっても結局はこのまま暮らしていきたいと考えているはずだと思っていた。
 お互いに憎しみを抱くのはもちろん、皆殺しとか、陵辱とか、浄化とか、どうしてそんな思いつくことも難しいようなことが一気に噴出してきたのか、理解不能だった。
 それは突然ヤコブ・アイゼンシュタットがジダンのことを排除しようと決意して、銃を向け、しかも撃つのと同じことだ。クラスメイトだったルカのパパとアナのパパは、実際に殺し合いを始めた。
 誰かに洗脳されてるんだとしか思えなかった。とりつかれているとしか思えなかった。だが小学校の教師をしていたヨシプの父親は言った。
 これは自然なことなのだよ。
『私達』は本当は、ずっとそれを知っていたんだよ。




 人間は、まったく見も知らないことは出来はしない。私も彼等も、同じ人間で、違いなどはない。
 ――お前も男なら、いずれそれに気付く日が来るだろう。腹の中で、うずく感覚。お前を男ならしめ、夫たらしめる当たり前の要素。
 今は、それが約束を忘れて、暴走しているだけだ。
 だから戦場でなくても、ここでなくても、私達の民族でなくても、同じようにひどいことが、どこでだって起きてきた。
 自然なのだよ。すべての野蛮は人間の体から、当たり前に湧いて出る。
 「家族が大事」と「殺してやる」の出所は一緒だ。
だから果てしがない。
 自分達は文明人だ。高等だと笑っていられる人間は運がいい。
 だからヨシプ。私はこう言っておくよ。
幸運をつかみなさい。
 別の言葉で言おう。
戦いのない地に逃れ、幸せになりなさい――。





 ヨシプはそれだけのことを、アキの寝顔を見つめながら考えた。
 彼女にお願いして、彼女の許しを乞うて、この体の中に生まれている自然なものを、吐き出させてもらうことも出来るだろう。
 多分、親しい女の子が出来たらたやすく恋愛に転んで普通だし、誰に聞いたって、それは好ましく自然で、いっそ正しいことだと言うだろう。
 けれども自分はとぼけていよう。
と、ヨシプは思う。
 このままぼんやりしていよう。
自然に興味などないのです――。
 ただ、多分僕は今、両親が望んだように、
幸福だ。







 玄関の方で物音がして、ジダンが帰ってきた。なんでもヤコブが気を利かせて車を回し、彼を出先で拾って戻ってくれたらしい。
「おう。飯食ったか?」
 荷物を置きながら、ジダンはとぼけたふりで言う。だからヨシプもとぼけ返して、手に持った包み紙を見せた。
「トラヤのヤサカ……。オグラアン」
 なんだそりゃ。
呆れる彼の顔を見て、ヨシプは下を向いた。
少年のようにたわんだ唇の端から、少しだけ、白い歯がのぞく。




(了)

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