L'inutile
おいしい水




それはともかく、ついにヨシプの舞台の仕事も終わり、ジダンの腹案を彼に命じる日は来た。
 ジダンは彼を伴い、珍しく休暇を取ってパリに戻っていたヤコブも誘って、よく知った中華料理屋へランチに行った。
 普通に昼飯を食べながら、ジダンは一人、胸中で感慨に耽っていた。
 懐かしい。
最初に彼に会ったのも、中華料理屋だった。
 あの時はヤコブがセッティングした個室で、そこにいたヨシプは果てしなくだらしない空気を持った、箸にも棒にも引っかからないような青年だった。
 もちろん今でもだらだらしていて、低血圧で、やる気がないことには変わりないけれど、変わったところもたくさんあるし、知ることで無気味でなくなった部分もある。
 まさに一番おいしい時期を、自分は一緒に過ごさせてもらったのだと思う。だから、たかが一つの縁に甘んじて、彼をこのまま、自分の世界に閉じ込めてしまってはいけない。
 残念でないとは言わない――。
だが、『潮時』だ。
彼は一人で行くべきなのだ。


 ヨシプはジダンが考えていることもまるで関知しないふうで、いつもどおりマイペースに一皿一皿食べていった。
 デザートが出た頃、店が空き始めた。ジダンは書類を取り出し、おもむろに話を切り出した。
 ヨシプは揚げ団子を口の中に放り込んだところだった。むしゃむしゃ咀嚼しながら、ちょっとびっくりしたふうにジダンを眺めていたが、飲み下した後は手が止まり、次の一個に箸をつけようとはしなかった。
「…………」
 ヤコブは始めから今に到るまで、ほぼずっと黙っていた。喋るジダンの横に座って腕を組み、決闘の立会人のように成り行きを見守る。
「――というわけだ。だからな、お前はこの期にうちのアパルトマンを出ろ。新居についてはいくつか候補を決めてあるから、オフのうちに見学に行って、どれか一つ選ぶんだ。
 契約は俺がする。引越しの手続きも気にしないでいい。ただ次の稽古が始まるまでに、生活のペースを整えられるように気をつけるんだぞ。援助は惜しまないし、困ったことは何でも相談していいからな」
 ジダンが言葉を切っても、ヨシプは何も言わなかった。ロミオとかトロフィーモフとか、特殊な人格が入っていない限りきょとんとしっぱなしの黒い瞳が、ジダンを見、ヤコブを見、それからまたジダンへ戻る。
 ジダンは、ヤコブにでまかせを言ってはいない。ヨシプは絶対自分の命令を聞くだろうと思っていた。実際それだけが彼の取り柄だ。
 というより、ヨシプは自分の希望と言うものをほとんど持たない男だ。そりゃ目の前に海老の皿と羊の皿があればどっちか選ぶだろうが、手元から遠いことについては何のヴィジョンもない。それについて悩むこともない。
 遠いことを考えるのはジダンのような人間の仕事である。だから、教育者にして保護者である彼の言う事を、聞かないはずがない。
 ジダンは本心から、そう考えていたのだが――


「いやだ」
 予想に反して、ヨシプは抵抗した。
いや、そんなものではなかった。彼はその命令を、
「――馬鹿げてる」
つっぱねたのである。
 奇妙な言いざまだった。ジダンは顔に血が集まるのを感じて、何故か慌てた。冷静さを保とうと努めつつ――
「そんな言い方はないだろう。なにが馬鹿げてるんだ? 俺はお前の将来のことを考えて言ってるんだぞ?」
 だがヨシプは、今までに見せたこともないような鋭い目で彼を見据えると、一言。
「嘘だ」
 ジダンの喉に何かがつまり、言葉が出なくなった。焦った。焦ったが、直らなかった。
 意外だった。反発されるにしても、こんなにべもない調子でとは思っていなかったのだ。
 そうじゃない。これは反発ではない。
反撃だ。
 あのヨシプが――呆気に取られてしまう――自分を攻撃しているのだ。
「嘘ばっかりだ。この話はあんたが言ってるようなものとは違う。
 あんたは自分のことだけ考えてる。自分のためだけにそんなことを言っているくせに。恥ずかしくないのか」
 悪いことに、ヨシプはジダンと骨格から似ている。一緒に暮らすうちに移るものもあって、ヨシプの話し言葉はジダンのそれに、ただでさえ近い。
 だからヨシプがちょっと工夫しさえすれば、場はまるで、ジダンがふたまわり若い自分自身から、難詰されている場面になるのだった。
 そのことに今の今まで気付かずにいたジダンは、うっかり者だった。
 彼はヨシプを、普段は従順な役者である同居人を、なめていたのである――。
「あんたは、逃げ出したいんだ」
「――なに?」
「幸せになったら破滅するみたいに考えてるんだ」
 ジダンの横で、ヤコブがまぶたを閉じた。
「機会は幾らでもあったくせに、誰とも結婚せず、子どもも作らないでいたのも、そのせいだろ?
 ――あんたはなんか、誰かと家族になるのが後ろめたいんだ。それはなにかの死だと思っているんだ。
危機を覚えるんだ。
 そういうの、分かるよ。
俺にも少しあるよ。
 ちょっといいことがある度に、こんなものはまやかしだっていう思いが湧くし、いつかは何もかも崩れてどうせ悲惨なことになるんだっていう恐怖がある。
 でも、それはなんか、しょうがないよ。俺はそれに無理矢理理由をつけたり、話をねじまげたりして解消しようとは思わない。あんたのように動揺して何もかも放り出し、友達を遠ざけて安心しようなんて思わない……。
 ――つまらない策略はよしてくれ。あんたはただ単に、このまま俺と一緒にいたら、いずれ家族になってしまいそうだから、それに飲みこまれそうだから、怯えてるんだ。
 そうならそうと言ってくれ。そういう話なら聞くよ。俺は確かに今の生活に、幸福を感じてる。それがどうしてもダメだって言うなら、出て行ってもいい。あんたの家だ。
 でもそれを俺のためとか言い垂れるこんな茶番はごめんだ! 馬鹿にしてる……!
 『――ヤコブ』」
 ヨシプはヤコブに向って国の言葉で言った。
「『このインテリの臆病者の馬鹿に反省させてくれ。
 彼は俺の倍も生きてきたくせに、自分がどういう人間かそれすら知らないんだ。自分が何をしているかすら見失っているんだ。
 未来と向き合うのがいやで、なにかのせいにしてはまことしやかなことを言って、人を操作しようとしたんだ。卑劣だよ!
 必要なら精神科にでも連れて行ってくれ! 病気だ! 定期的に自殺しないと生きられないなんて。狂人だ! この国でなんて呼ぶかは知らないけど』」
 もちろんヨシプは、その頃には店内中から視線を集めていた。だが彼はそんなことに構う様子もなく、ぷりぷり怒って席を立った。ドアから一人出て行く時も、
「『ふざけんな!』」
と悪態を残していく。
 その大らかさと来たらまったく田舎の持ちもので、彼は本当に、怒って椅子を蹴り集会所から出て行く村の若者そのままだった。
 だから人々は呆気にはとられたけれど、恐怖は感じなかった。笑いながらジダンのテーブルを見た。
 パリは自由の街だ。
だからどんな人間でいようが――無作法であろうが、芋侍で笑われようが、卑怯者であろうが、自由だ。
自由だ。
自由だ。
 赤面しつつ席に残っているジダンより、彼の方が数倍当たり前の人間だった。陰謀めいた知略を張り巡らして、平和裏に、狡猾に、自分の望みを遂げようとして失敗し、面目を失った彼よりも。
 奥の席で、ヤコブが笑い出した。頭を下げるようにして、くつくつと肩を震わして笑う。
 老練な彼はひょっとしたら、この引越し話の裏に潜む胡散臭さを最初から見抜いていたのかもしれない。ジダンは恥ずかしくてとても隣を向けず、痺れた指で茶碗を持ち上げるのが手一杯だった。
 だが彼が遠慮なしにあまりにいつまでも笑っているので、ついに我慢しきれなくなって、八つ当たり気味に懇願する。
「――いい加減よせよ……! 何がそんなにおかしいんだ」
「だっておかしいじゃないか。パリの大学を出た、もの書きの君が、……ど田舎の、無教養の、フランス語を覚えてまだ十年もたたないような子どもに言い負かされるんだから」
「た、他人事だと思って……! 俺は本当に奴の将来の事を考えてだな……!」
 ヤコブはハエを払うように手を振った。
「いいや、ジダン。お前の負けだ。もう止めろ。言葉が上滑りしてるぞ」
「……!!……」
「諦めるんだな。この機会に、その文学青年じみた感傷性の貧乏根性とおさらばしてしまえ。そんなものは流行らないし、バレる人間にはバレてるんだ。
 君もとうとう追いつかれたんだよ。生活というやつに。その新しい局面を観念して受け入れたまえ。――ふっ。いい子どもが出来たと思ってな……くっくっく」
 取り澄ました印象の強いヤコブがここまで楽しげに笑うのは初めて見た。
 彼から見たら、自分なんてホンの子どもなんだろう。子どもがなにを騒いでいるのかというわけだ。
 ジダンは一人、汗が出るやら、恥ずかしいやら、目が回るやらだ。人からはジロジロ見られるし、せめて中華でよかったというくらいしか慰めがない。
 机の上に出した書類も、ヨシプの怒りを前に一気に色あせ、もう自分の眼にすら虚しい束にしか見えなくなっていた。
 この数日間、どうして自分は『一刻もはやくヨシプと別れねばならない』と決めつけ、人の意見を聞こうとしなかったのか。取り付かれたようにヨシプの転居先を探し回って、どうして彼を遠ざける計画にこうも余念がなかったのか――。
 怯えていたのだろうか。彼の言うとおり。
こんなでかい図体をして。
恐怖にかられていただって?


 恥と混乱で頭が真っ白だった。
自分のしようとしていたことは、ヨシプが指摘したとおりの破廉恥な真似だったのだろうか。
それで自分は一体、明日から、どうしたら……。


「なに、そんなに途方に暮れた顔をすることはない。『おいしい水』さ、ジダン」
 やっとハンカチをしまって、腕を組みなおしながらヤコブが言った。
「ああ……?」
「『家族』を目の前にしてビクついて挙動不審になる男は、この世に君一人でも、二人でもないって話だ。
 心配するな。君が異性愛者だということは知ってる。誠意を疑ったりはしていない」
「あ、当たり前だ!」
「君がそんな男なら、ヨシプがああ懐くはずはないしな。
 彼は許してくれるさ。それが君の今までの誠実に対する褒美だ」
「…………」
「そしていいか、病人で馬鹿者で役立たずのジダン。老人の助言をしかと聞け。
 ためこんだ不動産屋の名刺も、その書類も、今すぐ全部棄ててしまえ。
 そして明日からはつまらんことなど考えず、今までどおり彼に愛情を注げばいいんだ。思うまま育てればいい。
 いつか時機が来れば、彼は勝手に自分で旅立っていく。その時の別れは辛いかもしれないが、君が今、自分で演出しようとした三文芝居より、倍はマシなものになるはずだ。
 観念しろ。君は演出家だが君の人生の中ではその限りじゃない。
 転がされろ。翻弄されろ。罠にはまれ。仕方がないじゃないか。諦めろよ。
 月並みな言い方で恐縮だが――みんなそうなんだ」




 たとえ君が孤独と不幸のなかで安堵していたくとも、人の好意や幸福から、逃れる術はない。





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