L'inutile
おいしい水





おいしい水だよ おいしい水だよ 友よ
おいしい水だよ おいしい水だよ 友よ





「――だろ、ヤコブ。……ヤコブ? おい、聞いてんのか?」
 三度の呼びかけがあって、老プロデューサはやっとまぶたを開いた。モダンスタイルのずんぐりしたソファの脇に腕をつき、体を斜めにして、ほとんど居眠りの態だったのだが。
 網膜に映るのは暖色で統一された店内の淡い灯り。そしてジダン・レスコーの不満げな顔だ。
 時刻は午後十時過ぎ。ジダンは九時過ぎに頼んだ珈琲茶碗の横に腕をつき、書類を手にしていた。
「オフの時間をつき合わして悪いとは思ってるが、もうちょっと真面目にやってくれよ。眠いのか?」
「いや? ――この曲」
「あ?」
 見えもしないものを見るみたいに、ジダンは宙を見上げる。
「『おいしい水』」
「知ってるよ。ジョビンだろ」
「好きなのさ」
 ジダンはじろ、と彼を睨む。
「――計画に反対なら反対だと、きっぱり言えよ」
「反対? 別に反対じゃない」
 ヤコブはこたえた様子もなく、静かに投げ出していた足を引き戻す。座りなおして、座高が若干高くなった。
「ただ、正直あまり気は進まないな。ヨシプは反発するはずだぞ。知らない間に転居先から引越しまで、勝手にセッティングされたら」
「そんなことはない。あいつは役者だ。演出の言うことには従う」
 ジダンはその議論はしない、とでもいうように不動産の書類に手をつけた。あちこちの仲介業者で集めてきた、独居者用の部屋の賃貸情報は二十枚にもなる。
 橙色の灯りが彼の眼鏡のレンズに照り映えてその表情を消し、どことなく頑なな、人形みたいな印象を与えた。
 そんな彼をヤコブは遠くから見つめる。
「――それとも、まだあいつに二四時間監視や保護が必要だと思うか?」
「いいや」
「経済的自立が困難だと?」
「いや」
「友人や女の子との縁がなくなる?」
「寧ろ活発になるだろうな」
「だろう? あいつは自由になることが出来るところまで成長したんだ。だからそろそろ一人立ちすべき時期だ。俺の家にずるずる居続けることはない。ヤコブも俺の言うことが分かるなら協力してくれ。
 あいつの名義じゃいい部屋を借りるのは難しいし、あいつに任せておいたらいつになるか分からない。だから俺が探しているだけだ」
「だが、彼は知らないんだろう。君がこうして勝手に部屋探しをしていることを」
「今、舞台の仕事が忙しいから言わないでいるだけだ。終わり次第話すさ。それにさっきも言っただろう。俺が命令すれば、あいつは聞く。それだけがとりえの男だ」
「――……」
 かつて『新しい歌』と言われた昔の曲が、ゆっくりと店の中へ流れていく。橙色に染まったテーブルの間を、客の女の子が静かに歩いていく。
 ヤコブ・アイゼンシュタットは胸の前で両腕を組み、腕時計をじゃらりと言わせた。
 その口元が、笑っている。それに気付いたジダンはペンと書類を持ったまま、眼鏡のレンズの奥から彼を見た。
「何がおかしい?」
「いや、別に」
「…………」
「私が南米びいきだってことは知ってるだろう? この曲はいい曲だ」
 ジダンは子どもみたいに舌打ちした。
「抜かせ」
 それから通りかかった給仕に珈琲の追加を頼む。








「えーっ? ジダンがヨシプを家から出すって言ってるの?」
「そうなのよねー。なんかそんなこと言って今、ガサガサ動いてるわ。忙しい時期に、まったくもう」
 四月だと言うのに、昨晩は雪が降った。人々はまたぞろ重装備をして街に繰り出すが、それでもクリスティナはスモーカーだから、カフェの半露天席に座る。
「今日もどっかの物件を見学に行ってるそーよ。全くこんな天気だってのにご苦労なこと。もっとも、そろそろ晴れて来たわね」
「藪から棒にどういうこと?」
 アキは空を見上げる彼女に取り合わず、呆れて聞いた。先の騒動も収まったばかりだというのに、突然そんな話が出てきたことに面食らっていたのだ。
「ん? 実はまあ、藪から棒ってわけでもないんだけどね」
「え?」
「私達が一番最初に一緒にお仕事した舞台があるでしょ。ジダンはあの時にも、公演が終わり次第、一度実家に帰るなり、他に部屋を探すなり、とにかくヨシプは出て行くべきだと言ってたから」
「え、そうなんだ。……じゃ今回いきなり言い出したわけじゃないの? でも、なんで? 一緒に住んでちゃいけないの?」
「ん? んー。まあ、教育上の問題かな」
 実はあの時には、彼の目の前にはヤコブの教訓がぶら下がっていたのだ。保護すべき若い人間に思い入れを持ちすぎたせいで、かえってその将来を潰しかけた。
 しかしさすがの彼女も当人に対しては言いかねたので、迂回路を取る。
「つまりね、ジダン自身、かなり迷走してきたわけだし、経歴もまっすぐなわけじゃないじゃない。
 ずっと舞台一筋だったのならともかく、数年間は完全なブランクがあったわけだし、業界には敵もいて、遺恨もある。あまり自分に近寄せすぎるのは、ヨシプの未来にとって得策じゃないっていう思いがあったんでしょうね。
 一回の仕事で一時的に同居しているのと、その後もずっと同居しているのじゃ、世間に与える印象も違うでしょ。
 つまり『ジダン・レスコーの秘蔵っ子』って認識が広まるのは、あまりいいことではないっていう考えがあったんだと思うわ。
 だからあの頃からずっとそうは言っていたのよ。ヨシプはひとり立ちすべきだって。あなた達は知らなかっただろうけど」
「……そ、そうなんだ……」
 アキは戸惑ったような、感心なような気分で、テーブルの上の灰皿を見つめた。
 例の芝居の終わりの頃といえば、もう自分のことだけで手一杯だった時期だ。裏でジダン達がそんな話までしていたなんて気付かなかった。
 もちろん自分もヨシプもちょっと抜けているということはあるのだろうが、大人達というものは、実に色んなことを考えて、隅々まで配慮しているものだ。
「……誰かと一緒にいると将来に差し支えるとか、有利だとか……。そんなの、考えたこともなかったよ」
「年のせいよ。同じ業界に長いこといると、そういういやらしいことを、いやでも考えるようになっちゃうの。
今、あなた達が悩む必要はないわよ。若いうちは寧ろ気にしちゃだめだし、大体、役者が悩むところじゃないもの」
「そんなものかな……。でもなら、どうしてヨシプはそこで出なかったの?」
「んー。たまたまよ。まあ順当に言ったら一旦、実家に帰るのが筋でしょ。ところが丁度その時、叔父さんの家に身重の親類が転がりこむことになっちゃったらしいのよ。
 で、叔父さんからも、今余裕がないので、しばらくそのままでいてもらえると助かります、みたいなお願いがあって……。そのうち別の仕事も始まるし、なんとなくずるずると。ね。
 ……それにねえ。確かあの時は、ヨシプが言ったんじゃなかったかな。
 『ここにいたい』って」
「…………」
「彼にしては随分はっきり言ったから私も覚えてるんだけど。それでジダンもちょっと流されちゃったんじゃない。
 でもね。確かにヨシプはここ一年で本当に大人になったし、人脈も出来たし、今やサポートしてくれる友達もいるし……、独立する力は充分ついてると私も思うのよねー。
 たかが住居の問題と言えばそれまでだけど、一人にならないと気付かないこともあるし、一人でやっていくことでさらに成長する部分や新しく開けるものもあるはずよ。それはあなたがよく知ってるでしょ?」
「…………」
 確かにそうだ。クリスティナやジダンの目はごまかせない。
 ヤコブの管理下から出たことで、アキの人生は間違いなく変化し広がった。長い間、自分はまだ半人前だという負い目があったが、今では少なくとも0.8人前くらいにはなれた気がしている。自信が、ついた。
 ヨシプも同じように成長すべきなのだと言われれば、なるほどというしかないが……。
「つまりまあ、そろそろ潮時だっていうことなんでしょうね。ジダンの意見では。私もそれは間違っちゃいないと思うわよ」
「……そう、ね……」
 二人の女はしばらくの間、黙って往来を見つめていた。
 通りが明るくなってきている。冬のなごりとは言っても、さすがに昼までは生き延びられない。太陽の光と共に、四月が街に戻ってきていた。
 やがてアキが、再び口を開く。
首をひねりながら。
「でも……、なんか変……」
「ん?」
「なんか変な感じじゃない……? ジダンの家からヨシプがいなくなるなんて」
「…………」
「なんかすごーく変な感じがする! 他人の事だからかな? 自分の時はこんな違和感なかったような気がするんだけど……」
「ふっ……」
 クリスティナが煙と一緒に笑みを吐き出した。それはやっぱり彼女もちょっとくらい、なんか想像できないなと思っていることを示していた。
「ほら、クリスもそう思うでしょ?」
「まあね――。でもホームステイしてた留学生が帰る時だって、そんな感じがするもんじゃない?」
「そーかなー」
「長い間暮らしてたんだもん、変な感じがするのは当たり前でしょ。
 でも、別れたら別れたで、またそれに馴染んで行くものよ。別に世帯を別けるだけで、絶縁するわけじゃないんだしね」
「まあそうだけどねー……。うーん……」
 そろそろ立とうかということになった。会計を済まして釣りが戻ってくるのを待っている間も、アキは納得いかないような表情を変えなかったが、
「うーん、まあいいや……。それで、いつ引越しになるわけ?」
「さあ、早ければ今月末とかじゃない。ヨシプにはさして荷物もないでしょう」
「その代わり近くにデリかカフェがないと死んじゃうよ。シリアルばっかり食べて……」
「ああ、それはジダンのことだもの。いい場所見つけてくるでしょうよ。そういうとこは本当にマメだからねー、あの男」
 この十日間、仕事もろくにせず、浴びるように不動産情報を見続けている。自分だったらそんな作業には耐え切れない。三日で投げ出して、本人に探させるだろう。
 給仕から釣を受け取ると、クリスティナは立ち上がり、アキと腕を組んで歩き出した。
「結局、あいつはさ、人の世話を焼くのが好きなんでしょーね。不動産屋になればよかったのよ。そんで優しい奥さんもらって郊外のいいお家で暮らしてりゃよかったんだわ」
「確かにジダンってそういう雰囲気あるよね……。初めて会った時、まったく当たり前に子どもさんがいるんじゃないかって思ったもの」
「ねえ? あいつよく私のことOLみたいって言うけど、あっちこそどっかの冴えないIT君みたいよ。学費で小遣い削られてちまちま食堂で食事してるみたいなさ。
 劇場ではそりゃあ演出だけど、おてんと様の下じゃただの気の弱い、不幸な会社員ってのがいいとこだわ」
「クリス……」
「ん?」
「クリスはそういうキツい言い方するから結婚できないんだと思う……」
「ほっとけーい」




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