始まりは虚である。 ヨシプが小さな映画に端役で出ることになったのだ。 登場シーンもさしてないが、ただピアニストの役で、その練習がいった。 彼はクリスティナと、その映画のスタッフらに同行してとあるピアノ教室を訪ね、若いピアニスト達の所作をコピーすることにした。 マダム・ダールのアトリエ兼住居は、郊外の庭付きの一戸建てが並ぶ界隈にあって、とても凝った造形の、品のいい、いかにも音大を目指す子どもがたくさん吸い込まれていきそうな家だった。 天窓から落ちる光を浴びながらアトリエへと移動すると、そこは風通しのよい開けた一間で、中央には大きな黒塗りのピアノが置いてあり、傍に四、五人の生徒達が彼等を待っていた。 「南仏を感じさせる、なんとも素晴らしい部屋ですね…!」 映画スタッフの一人が、もうすっかり魅了されてマダムに言った。 「全てが調和し、統一されている。あなたのセンスのやわらかい毛布に抱かれているようです」 「褒めていただいてありがとう」 にっこりと微笑むマダム・ダールは五十すこし前の、これまた上品で物腰柔らかな女性だった。肩からかけた薄い肌色の、少しラメの入ったショールが実によく似合っている。 「私、防音されたスタジオの中で音楽を教えるのがちっとも好きではないものだから、自宅を改造しましたの。 亡くなった主人も、この家を大変気に入っていました。 でも私がこんな郊外にいるせいで、生徒達は遠くから通って、苦労してるのよ」 みんな十代半ばのヒヨコ達が、一斉にとんでもありませんという顔をした。 それからは、仕事の話だ。 彼等を待ちくたびれていた従順な生徒達が、一人ずつピアノで小曲を弾き、それを全員で審査していく。 うち数人には、実際の撮影にエキストラとして協力してもらう予定である。 さすがマダムの弟子で、どの子もみんなうまかった。 晴れてぽかぽかと暖かい客間に和やかなピアノの音が代わる代わる流れ、こうしたデリカシーに普段あまり縁のないヨシプは思わず、巨大あくびをしてしまう。 「……」 げし。と、すかさずクリスティナの肘が入った。けれどマダムはにっこりと上品に微笑んで、彼の無作法を許してくれる。 「こう立て続けじゃ無理もないわ。ちょっとその辺りを散歩していらしたら? じき珈琲を出させますけど」 「もう、ごめんなさいね、マダム。 今回は無理なお願いを聞いて、協力くださっただけでも感謝してるのに、このコと来たらデクノボーで」 言われてしまうが、眠気はどうしようもない。スタッフ達は最後まで真剣に作業することになるだろうが、ヨシプの『録画』はとっくに終わっているのだし。 「…すいませんけど、お手洗いはどこですか」 クリスティナが今度は足でも蹴りたそうな顔をする。マダムは笑って場所を教えてやった。 一応、演奏が途切れたところで席を立つ。が、18歳くらいの少年ピアニストはしっかり彼らの会話を耳に挟んでいたらしく、ピアノの前から立ち上がるととても恨めしそうな顔でじろりとヨシプを睨んだ。 デクノボーはそそくさと廊下へ抜け出した。 確かに、邸内はどこもかしこも美しく均整が取れていた。ちょっとくらいほこりのたまったところもあるが、それもまた風情に思えるくらい、とても明るくて優しい、あのマダムそのもののような家だ。 自分らが住んでいるごちゃごちゃして騒がしいあのロケット通りと同じ土地とは思えないくらいである。 ただ、あまりに平穏無事すぎてヨシプはちょっと溶けそうだった。ここはなんだか、座り込んだら立ち上がれなそうな、あくびをしたら眠りこんでしまいそうな、陽だまりにも似た抗いがたい心地よさがある。 気を抜いていると、頭の芯がとろりとしてしまうのだ。 そのせいか、ヨシプは複雑な邸内で道に迷ってしまった。 手洗いまではなんとかたどり着いた。が、帰り道どこかで角を間違えたらしく、どうも見覚えのないところへ入り込んでしまっているような気がする。 パリの小道ならいいけれど、人様の家だ。ヨシプは見慣れぬ扉にぶつかったところで引き返す決心をし、うろうろ歩いた挙句やっと正しい道へと戻った。 行きもくぐった、丸いアーチを冠した廊下を歩いていた時、ふと、おかしな物音を耳にした。 いや。「物音」ということはない。早い話、誰かがピアノを弾いている音だった。 無教養なヨシプにはそれがなんの曲だか分からない。 それに、感触が奇妙だった。 まるで横壁をガリガリと爪でこすっているような。 聞いていて、思わず――夢から醒めるような。 人によったら、きっと不愉快と感じるだろう。 「……」 透明な水を流すようにまろやかに感情を表現しようと努力していた、さっきの生徒達の音とは全然違った。 これが「下手」と言うものだろうか? それとも、なにか、別物なのだろうか。 ヨシプは思わず足を止めて、辺りをうかがった。 廊下には幾つか窓が開いていて、その向こうは緑――つまり中庭だった。音は、上から聴こえて来た。 ヨシプはざくろの木をすかして、二階を伺う。縦長の窓の向こうに誰かいた。女性だと言うことだけ分かった。時折上下する腕が見えた。 どうやら、彼女らしい。 曲は続いていた。なんだか装飾の多い曲だった。 演奏は相変わらずギザギザとしていたが、じきに――というよりもふいに、ひどく、平静になった。 音が鳴っているのに「平静」もないようなものだが、ヨシプは、その突然現れた静けさに思わず心を奪われた。 故郷の丘からのぞむ冬の夕暮れが、こぼれる水のように脳裏に広がった。 清潔で寂しく、無色で感情のない毒のような、あの、広い広い、むなしい空――… 「…なにしてんだ。ヨシプ」 呆気に取られたような声が、その空を破った。窓から身を乗り出していたヨシプが首を引っ込めると、そこにいたのは映画の助監督だ。 「人の家でのぞきはよくないぜ? 何を見てたんだ? 若い女でもいたか?」 「――いや、えっと…」 言う間に助監督は近寄ってきて、ヨシプの取り付いていた窓から外をうかがう。 「なんだよ。別になんも見えないじゃないか。何がしたかったんだよ?」 「二階にも、ピアニストがいて…」 「なに? マジか? どこよ?」 なりゆきでヨシプは二階を示そうとしたが、その指が空中で行き場をなくす。 「……」 そこにはもう誰もいなかった。ただ、縦置きピアノの黒い肌が少し見えるだけだ。 騒ぎを察してひっこんだのか。或いは、一瞬の間に席を立ってしまったのか。 助監督が怪訝な顔してヨシプを見たが、ものの言いようがない。しまいに助監督さえ笑うほかなくなってこう言った。 「あんたは普段はずいぶんぼんやりしたヤツだと聞いてたが、いかさまここまでとはなあ」 「……」 この物語の始まりは虚。 映画の監督もそっぽを向く、素の役者の見た白昼夢に過ぎなかった。 でもそれが三ヶ月も後、彼の身の上に不穏な実を結ぶことになる。
(了) |
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