L'inutile
32.心配




 情念は強烈じゃなくちゃいけません。 われわれには感嘆詞や、間投詞や、句切りや、中断や、肯定や、否定が必要です。 われわれは率直に、呼んだり、訴えたり、叫んだり、呻いたり、泣いたり、笑ったりするんです。 才智や、警句や、あの気の利いた思想なんかありゃしません。あんなものは素朴な自然からはおよそ縁遠いものです。
 ところで、舞台の役者の演技や彼らの朗誦法なんかがわれわれのお手本になれるなどとは思わないで下さい。
 なあにあんなもの! ――われわれにはもっと力強くて、もっとわざとらしくなく、もっと真実なものが必要なんです。








 夜の図書館。閉館の三〇分前。
ジダンの前で、静かな靴音が狼狽したように歩調を落したかと思うと、やがて止まった。相手を見て、ジダンは微笑み、挨拶する。
「どうも、マダム」
「……ジダンさん…。……お久しぶりですわね。こんばんは。今日も、調べ物ですか?」
「今夜は、ヒマつぶしをしてました。前にお見かけした曜日と時間帯にマトを絞って。見事に会えましたね。僕は、運がいい」
「……」
 マダムはショールごと腕を組んだ。そして、覚悟を決めたように口を開く。
「一週間ですわね、あれから。ヨシプさんは、お変わりなくお元気かしら?」
「ええ。友人の公演を見に行ったり、テレビを見たりと変わりなくのたのた過ごしてますよ。明後日で舞台の仕事が終わったら、クリスマス休暇に入れるでしょう」
「そう。よろしかったわ。正式な検査の結果が出たら、連絡してください。電話番号はボラスさんが知っていますから」
 再び立ちかけた靴音が何かに阻まれたように、乱れて止まる。
「……」
「…ジダンさん…。離して、下さらない?」
「すいません。……でも、手を離したら、あなたが、今にも帰ってしまいそうなので。待ち伏せなんてして、行儀が悪いのは承知ですが、私は悪臭でも発していますか?」
「悪臭を発しているのは、私達のほうですわ」
 『私達』か。
 ジダンはかすかに漂うマダムの香水を、空気と一緒に吸い込む。
「ヴィカは、どうしてます」
「家に閉じ込めてます。ピアノも携帯も学校も、取り上げてあります」
「――罰ですか?」
「人に害を為したのですから、当然です。あの子は、自分の持っている危険性をもっと理解する必要があるんです。場合によっては、学校も辞めさせなくてはいけないかもしれませんわ。…いずれ、二度とヨシプさんには近寄らせません。安心なさったら、私を行かせてくださいません、ジダンさん」
「…マダム。年明けに、私はヨシプを使って『ラモーの甥』の舞台をする予定でしてね」
「………」
「ご存知なくても普通です。地味な作品なので。ともかくそれで彼にその原作を読ませたんです。命令してね。あいつはそれはつまらなそうに渋々読んでましたが、最後に感想を聞くと、ある箇所だけ面白くて、繰り返し読んだと」



 何度俺は自分に向かって言ったことだろう。おい、ラモー、パリにはそれぞれ十五人ないし二十人も座れるうまい食卓が一万もある。それなのに、それだけの料理のうち一人前すら、お前のものではないんだぞ! 右に左に、湯水のように撒かれる金貨で一杯の財布はある。だのに、その金貨一枚だってお前の上には落ちてこない! 才能もなく値打ちもないたくさんの小才子どもや、何の魅力もないたくさんの売女どもや、くだらないたくさんの食わせ物が立派に着飾っている。だのにお前はすっぱだかで歩くのか!
 それほどまでにお前はまぬけなんだろうか。
 お前は他の者のようにおべっかが使えないのか?
 お前は他の者のように四つんばいになることができないのか?
 ――ろくでなし。
 恥ずかしくないのか!




 どこが面白かったのかと聞いたら、彼は、
『これはあのコのことだ』
と。
 ここに書かれているのは、あの子のことだ。
 ジダンは、マダムの腕を離した。マダムは、柱の傍に少し身を寄せて、少女のような上目遣いで、メガネの演出家を見た。
「不思議ですね。僕はもちろん怒りも抱いている。しかし同時に、救いが必要だろうと感じてるんです。マダム。――どんなことにも。誰にも。ヴィカにも。あなたにも。
 罰して家に閉じ込める。あなたの処置は大変立派で、断固としてます。きっと、今までもずっとそうなさってきたんでしょう。でもまさか、この先一生家の中に閉じ込めておくわけにもいかない。牢獄生活の慰安として、ピアノを与えたわけでもないでしょう? 彼女のことを思ってのことでしょう?」
「……」
「幽閉による管理は、誰も救えない。分かっているはずです。あなたには」
 家族を残らず失ったあなたには。
「あなたは、そんな狂信的で残酷な女性じゃない」
 マダムは沈黙を守ったまま、柱を離れ、静かに図書館を出て行った。
 ジダンはコートのポケットに両手を突っ込み天井を仰いで、一体、どうしてこんな事をしているのかと我ながら呆れた。いや、誰よりも呆れた男なのはあのヨシップだ――


『携帯にメールも、送ってるんだけど。
 返事がないんだよ。
 読んでないのかな』


 ヨシプは未だに、思い出したようにそんなことをポツリポツリと言うのである。
 ジダンは最初呆れ果てて、こいつは事態が分かっていないのだろうかと思った。
 自分が何をされたのか分からないのか?
確かめると、や。分かってるよ、との返事。
では馬鹿なだけだ。
 少々腹さえ立て、しばらく彼の言動を無視していた。
ほうっておけばいずれ収まるだろうと思った。
収まらなかった。
 彼は確かにものは言わなくなったが、無言のまま、未だにぼんやり心配し続けているのだ。
一度触れたあのか細く、年下で、
生暖かく不遜な生き物のことを。




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