L'inutile
32.心配







 舞台の上はまぶしいから、客席に誰が座っているかなんてほとんど見えない。それでもまるで裁判官の前で演技しているような気がした。
 まちがいを犯さないように細心の注意を払って仕事をした。想定したところできちんと反応を取り、客を惹きつけ、時には突き放し、笑わせて、緊張の舞台は無事終わった。
 その晩の劇場は満席だった。たくさんの拍手をもらって、役者もスタッフも上機嫌だった。
「よかったよ!」
 楽屋に帰るまでに何度もそう言われると、義務を果たせた気がしてほっとする。一瞬この世にいていいような気分になる。
 ――それでも、アキはヤコブが怖かった。そして、楽屋を尋ねてきた彼の気遣うような笑みを見た瞬間、悟ってしまうのだ。
 ああ。やっぱりダメだったんだ。と。


 いつもこの人には見破られてしまう。
 私の正体を。
 私が所詮、ニセモノだってことを。



 コートを小脇に抱えたヤコブ・アイゼンシュタットは、相変わらずそつのない男だった。彼女に優しい声で「大変おもしろかったよ」とお世辞を言った後、廊下を振り向いて連れを呼ぶ。
 その連れはなかなか来なかった。
「何をやってるんだ…」
 その時、初めて、アキは廊下がざわざわしてるのに気がついた。
「ミラ。ああ、いい名前だねえ…。アルジェ出身? コモにあるうちの別荘にはジャン・ギャバンのサイン入り台本があるよ。今度見においで。
 彼が名づけた馬のひ孫もいる。素晴らしいサラブレッド種で足のラインが、ちょうど君の足のようにすばらしく――」
「マッシモ!」
 子どもみたいに何度も何度も呼ばれてやっとアキの部屋までやってくる。
 後で分かったことだが、その晩、ヤコブが連れて来たのはマッシモ・アイローニ氏。70年代にヨーロッパのみならず「西側」の映画界を席捲した超二枚目俳優で、イタリアじゃ未だにマストロヤンニかアイローニかと言われてる大物だった。
 ほぼ引退して今は北イタリアで静かな生活をしているが、今度パリでちょっと仕事をすることになったそうで、ヤコブが夫人に是非にと頼まれてその世話をすることになり、一緒に帰京したのである。
「アイローニが来てるって?!」
 とんでもない大物の来訪にスタッフらはもちろん、デミトリさえ目つきが変わる。
 人をかき分け、やっとのことで部屋に入ってきたアイローニ氏は、それはもう、常人とは違ったオーラを身にまとった別格の紳士だった。年のころは六十過ぎだろうか。
 さすがに少し肉がついていたが、それでも色男用のブランドスーツを見事に着こなし、真っ赤なネクタイ。頭には帽子。手にはあつらえたようにぴったりのエレガントな指輪を幾つもはめて、なんというか典型的「往年の名俳優」――誰もがすぐ「キャーッ」と叫ぶことが出来て、さらに彼もそれを愛想良く受ける準備の出来上がっている――だ。ヤコブと一緒にいて、オーラ負けしない人間を初めて見た気がする。
 この世に「名声」の神様がいるのなら、こんな姿をしているのじゃないか。


 もちろんアキも我を忘れて興奮し、顔を赤くした。ところが、70年代にはプリンチペともてはやされ北イタリアで贅沢暮らしをしている名声の神様は怖いものなどなーんもない男だった。
 彼は楽屋にやって来て、アキの顔を見るなり、普通女優さんに対しては言ってはならないことを言ったのである。
「やあ、おじょうさん。お疲れ様。――ああ、なんだ。化粧を落すと十人並みだな」



 ヤコブ・アイゼンシュタットが二人の間で額を押さえる。




(了)

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