L'inutile
33.







 ヴィカは、ピアノを弾いていた。
三十人ばかりの前で。
 クリスティナが事務所の開いたクリスマスパーティーの会場。
 何故、こんなことになったのか分からない。
ただ、ジャンヌが昨日クリスティナからの招待状を持ってやって来て、私は行くがあなたも行きたいなら来なさいと言い――是非もなかった。
 全く自由を与えられぬまま十日近く監視され続けて、年の瀬も押し迫り、精神的に限界だった。
 それに、その招待状の向こうに、あのヨシプ・ラシッチがいることも分かっていた。
だから来たのだ。それなのに。
 会場に着くなり、まるで「ピアノのじょうずな親戚の子どもさん」のように人々に紹介されて、なし崩し的にそれじゃ一曲ということになる。
 ヴィカはもちろん、自分がラジオ扱いされるそんな場面は嫌いだった。だから、精一杯、悲愴に弾いてやった。
 いつものように。あのコンサートの時と同じように。
油断しきっている幸福な観客達に教えてやった。
 世の中は、辛いことや寂しいことが一杯なんだと。それを自分は知っているんだと。
 その分、あんた達よりも上等なんだと。



 客の中には、ジャンヌ――マダム・ダールはもちろん、クリスティナ。どこかで見たメガネの無精なおっさん。目に入るだけで胃が重くなる東洋人の女と、その隣に、ヨシプ。
 さらに、見覚えのない結構な年寄りや、やたら赤いネクタイを締めたイタリア男もいた。役者や劇団のスタッフだろうか。お金を持ってなさそうな若者もゾロゾロ。
 彼らは、ヴィカの演奏に初め驚いたような顔をした。
 だがやがて、その大半は薄い苦笑を唇に浮かべ、曲が終わった後には、勘に障る拍手をした。


わかったわかった。
おちびさん。ブラボー。


 これは、音楽学校の同級生達が示す非難の態度よりも、はるかに彼女を狼狽させた。
彼女は急に怖くなった。
 ひょっとしたら、ヨシプがみんなに話したのではないか。この場にいる人々は、全員が自分のしでかしたことを知っていて、自分はワナにはめられたんじゃないか。
 疑心に駆られた彼女は演奏が終わると、隅に逃げ込んでじっとしていた。
 誰も彼女に話しかけなかった。
しまいにヴィカは、腹が立ってきた。


 一体、なんなのよ。
ひどいわ。この人たち。


 壁を捨てて歩き出し、人々の間を縦断してヨシプの袖を引いた。
 アキと会話していたヨシプは「?」と振り向いて彼女を見る。
「ちょっと外に付き合ってよ」
 ヴィカの声が震えていたのは、怒りのためか。或いは、それがあの事件後初めての再会だったためか、定かではない。
「自分の身は守れるだろうな?」
 メガネおっさんの声に、ヨシプは手を上げる。
その自然な仕草にさえ感情が動き、会場の外に彼を連れ出しながらヴィカは、激しい苛立ちの為に唇を噛んだ。


 わたしだけが このばで ひとり だ。






「――行っちゃったね。なんか、相変わらずすごい迫力のコ…。大丈夫かしら?」
「うん、まあ大丈夫だろう。二度目があったら、寧ろあいつがバカだ」
「二度目?」
 何も知らずきょとんとするアキの肩に、ぽん、と後ろから馴れ馴れしい手が乗った。
 その一瞬前に、香水の濃厚な香り。それで振り向く前から誰だか分かる。
 あのマストロヤンニと並んだとかぬけぬけと抜かす老人性無礼イタリア色男プリンチペ、シニョール・マッシモ・アイローニだ。
 もちろんアキは、この濃い男のことがだいきらいである。
 数日前、楽屋で大変無礼なことを面と向かって言われ、以来、通常温厚な彼女にしては珍しいくらいに根に持っていた。
 多分、ずっと気にしていた事をズバッと言われたからだ。出会うなり素っ裸にされたら、誰だって相手が嫌いになる。
「やー、十人並みのお嬢さん。
 我々も部屋の外にしけこまんかね。そら、二階に上がる階段の踊り場におあつらえ向きのいいソファがあった」
 なにがおあつらえ向きだ!
「ごめんこうむります…!」
アキは肩を引いて、アイローニ氏の手を落す。
 もちろんイタリア色男がそれくらいでメゲるはずがない。ますます彼女の上にかがみこんで行くその横顔の目元に、きれいに流れる三本のシワがジダンの目に入った。
 おーかっこいい。
俺もこんなになれるかしら。
「そうツンケンせずに付き合いなさい、日本のお嬢さん。このマッシモが君の悩みの相談役になってやろうと言うんじゃないか。滅多にあることじゃないよ。うん?」
「何のことですか!」
「君は、今、色々思い悩んでいるんだろう? ヤコブから聞いたよ」
 あ、目から火花出た。 と、ジダンは思う。
「――な、なんですって?!」
「もっとも、ヤコブも君のあのニブそーな共演者君から聞いたんだがな。彼は君のことを心配して、ヤコブにお願いしていたぞ。相談に乗ってやってくれって」
「なッ…?!」
 そして、ヤコブはその言葉に苦笑を浮かべ、首を振ったのだ。
『残念だが、私には、勤まらないだろう。
 マッシモ。聞いてやってくれるかね。私に内容を話す必要はないから』


「……! ……!! ……!!!」
 アキは、あまりのことに赤面し、言葉をなくして立ちすくんでいた。頭の中は、悪気なく善人すぎるデミトリに対する文句で破裂寸前だ。
 なんでよりにもよって、ヤコブ・アイゼンシュタットにそんなことを言うのだ!
 心配は嬉しいが、彼は彼女がこの世で一番、不調を知られたくない存在ではないか…!
「うーむ、さすがは『かっこ兄さん』。女心が分からん分からん」
 ジダンは腕組みしつつ、遠くで仲間達と飲んでいるデミトリを眺めていっそ感心顔だ。
「いやいや、女なら男のニブさに乗っかる時は乗っかるものだ。さー、今のうちなら今年最後の愚痴で済むぞ。それとも、君はあの煮え切らない演技で来年も仕事する気かね?」
「ぐっ……」
「日本人といい韓国人といい、君ら極東の娘さんはどーにも抑圧されててお行儀よくていかん。上品なのは結構だが、悩んでるだけじゃ問題は解決せんだろうが。
 廊下が嫌ならここでもいい。外国人相手に、全部ブチまけてしまいたまえ。カモンカモン」
「……」
 困り果てたアキの目が、傍らにいたジダンをどうしようと探った。ジダンは、肩をすくめる。
「いいんじゃない。
 なんだかんだとショウ・ビジネス界で35年も飯を食ってきた人だよ。それは立派だよ。
 一人で煮えてるよりは、いいかも」
「……」
 ――うう…。
アキは一度下を見た。
 それから、指輪のはまった手を額に当てて、表情と恥を隠す。





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