L'inutile
33.







「携帯、返してもらったの?」
 『おあつらえ向きのソファ』という大道具は、結句ヨシプとヴィカが使っていた。
 とは言っても並んで座っているわけではない。
ヴィカはそこに、ずん、と体をぶつけるようにして座り、ヨシプはその対面に距離を保って立っていた。
「まだよ」
「あ、そう」
 ヨシプはヴィカには飲めない酒のグラスを片手にしていた。いつもにも増して目が眠たげで、顔には少し、血の気も昇っている。
 ヴィカは最初、心配もあった。ヨシプは自分に対して怒っているのではないかという妥当な懸念だ。
 だが、その素振りは見られず、それどころか安心しきって友情と幸福に酔っている様子が妬ましくて、ヴィカはキツい物言いになる。
「――こんなパーティーに出てて、楽しい?」
「…ヴィカは、楽しくないの?」
「楽しくないよ! なに、ここの人達! えらそうに!」
 ヴィカは子ども扱いされたことが許せなかった。
 ヨシプは立ったまま、鼻の筋をちょっと掻く。それから言った。
「少なくともここに一人は仲間がいるんだからいいでしょ」
 ――これは効いた。ヴィカは、ソファの上で体が浮くような気がした。
 そうだ。彼女はこれを求めていたのだ。
大勢の人々が容認する欺瞞に対して、自分の味方になって共に戦ってくれる人間を。
 ひねくれた彼女の秘められた心情を察し、決して非難せず、常によいほうへ解釈してくれる人間を。
「じゃ、じゃあ…」
 ヴィカは驚喜のあまり浮つく声を懸命に押さえながら、言った。
「今からどこか行こうよ。逃げちゃおうよ。今ならジャンヌも――」
 こんな人間達と一緒にいるのは止めて、もっと居心地のよいところへ行こう。
「そうだ、『ムッシウ』に会いに行かない? だって久しぶりでしょ?」
 するとヨシプはその黒い瞳で、真正面からヴィカをとらえた。
 ヴィカは――まだ未成年の小柄な少女は、興奮していた。傍目にもよく分かった。頬を紅潮させ、あと一歩で彼に抱きつきそうにさえ見えた。
 ヨシプは、酒精を振り切るように首を振った。
「行きたいなら一人で」
 いきなり、夜がその場に忍び込んできた。
「僕は行かない」








「――あたし…、本当言うと一回女優を辞めて、日本に帰ろうかと、思ってるんです」
「ほーお」
 えっ、と目を見開くジダンより、アイローニ氏の方がキモは据わっていた。やっと観念して話し始めたアキの唐突な言葉に表情も変えず、先を促す。
「そりゃまた、どうして? 国が恋しいか?」
「…いいえ。それはないです。でも、あたし、ぜんぜん、なってないんだもの」
「うん?」
「…プロの女優として、失格なんです。実力は全然ないし、小さなことでくよくよ悩んで、しかもそんな状態で舞台に出て、ハンパな仕事しちゃうし、その…仕事の相手とも、なかなかビジネスライクに出来なくて、相手に迷惑かけちゃうし」
「……?」
「メガネ演出が大変解せない顔をしてるぞ、お嬢さん。全部、君の思い過ごしじゃないのかね? そうでなければ、もう少し具体的に言ってくれないと分からない」
「――…それは色々なことが、あるけど…。ていうか、もしかして、悩むほどのことじゃないのかもしれないけど…」
 あああいまいなにほんのわたし。
「一番、最近その、やっちゃったって思ったのは…。共演してる相手の男優さんに…、感情が移っちゃって…。好きに。なっちゃったんです。一瞬、本気で。
 しかも最終的に相手にバレて、ものすごいヒンシュクを買っちゃって…」
 アキの顔は、赤いのを通り過ぎて、メイクともあいまって、もうよく分かんないまだら色になっていた。両手を首の周りに回して、恥を忍ぶ。
「――自分でも、信じられない…。
 だってそれ、相手のこと好きになったんじゃないんです。相手の演じたキャラクターを、現実と錯覚して好きになったの。
 ウソなのに。お芝居なのに。そう分かってたのに…。
 まるで、女子高生じゃないですか。それ以来、もう自信がなくて…。
 他の女優さんのように、虚と実を割り切ってお仕事が出来そうにないなら、これはもうスッパリやめるべきだって、そう、思って…」
 彼女の話が終わると、喧騒が戻ってきた。
うなだれる彼女の前で、メガネ演出家のジダンとex王子アイローニ氏は顔を見合わせる。
 そして、二人の口からほぼ同時にその言葉は漏れた。
「「なんだ。そんなことか」」
「……」
 驚いて顔を上げたアキは、続く無礼にぎょっとした。なんとアイローニ氏が彼女の頭をぽんぽん、と叩くのだ。
 子どもじゃない!
 思わず気色ばんで頭を押さえる彼女を見て笑うと、老俳優は謳うように言った。
「そんなこたあ気にするには及ばない、律儀なお嬢さん。だって全人類が、そうなんだから」






「君には合わないかもしれないけど、僕にとってはみんな大事な人たちだ。
 彼らとは仲間で、仲良くしていないといけない。僕は明日から叔父の家へ帰るから、暮れの挨拶も済ませないと。
 だから僕は行けない。もしヴィカが帰りたいなら、一人で帰るといいよ」
 一瞬、虚を突かれたように無表情になっていたヴィカの顔が、やがて、少しずつ、失望に強張って行った。
「――なんだ…。あたし、騙されたんだ」
「……」
「あなたが今あたしのこと『仲間』だなんて言うから、それに騙されちゃった。喜んで損した…。帰る」
 すっくとソファから立ち上がり、踊り場から出て行こうとするヴィカを、ヨシプの声が追った。
「偽善者」
「……?!」
「同じ事をしただけだよ」
 踏みとどまり、振り向いた彼女の顔は、もう半分以上、敵を見るそれだった。だがヨシプは、普段誰にも見せたことのないような冷ややかな眼差しと口調を変えることなく、続ける。
「君はいつも、他人に対して何か求めてるばかりだね。
 ――君がよく言う『仲間』っていうのも、常に君の味方で、君のことだけ気にしてて、言うことには反対しない。君がどんな悪い事をしても、許してまた受け入れてくれる。
 そんな都合のいい、人間のことでしょ?」
 ヴィカが答える前に、ヨシプの声がそれを封じる。
「この世のどこにそんな人がいるの?」
「…!!…」
 瞬間、ヴィカの鋭敏な神経に火が走った。彼女は、自分を攻撃しようとしているこの男に対し、激しく肉体的な憎悪を覚える。
「――いるじゃない…! あなたには、いるじゃない!! メガネの演出家も、同年代の同性の友達も、東洋人の女も!」
 だん。と少女の足が床を踏む。
「いいわね、あなたは人気者で、幸福で! でも、あたしはそうじゃない! そりゃ、知り合いくらいはいるわ。でも、なんでも本当のことを話せる友達は一人もいない!!
 みんなと一緒にいたって、あたしはいつも一人ぼっちなの! いつも自分を偽って、いつも演技してる! そうしないと生きてこられなかったの! 仲間と恋人に囲まれてるあなたに、あたしの寂しさが分かってたまるもんですか!」
「……」
 ヨシプは僅かにうんざりしたような顔をした。指を入れて、頭を掻いた。
「一体君は、何のことを言ってるんだろう。俺には恋人なんかいないよ。アキのことなら、彼女は俺のことは友達としか見ていない。第一、演技をやめて、なんでも本当のことなんか喋ったら、友達なんてできないに、決まってるじゃない」






「…え?」
 アキは、きょとんとして、アイローニを見た。多分映画に出るたんびに、ものすごいイタリア美女と絡み合ってきた男優さんを。
 その男優さんは意外に寸詰まりで太い指を広げて、天に向けた。
「君は、バカ正直な役者がよくやる勘違いをしている。この世で演技をするのは、役者だけだと思ってるんだ。
 ――とんでもない。
演技は誰でもする。誰でもする。女も男もする。老人も子供もする。敗者も勝者も中間層だってする。坊さんも主婦も教師もだ。
 みんな演技のプロだ。自分のキャラクターと役割を演じて膨大な金を稼ぎ、一生を終える。
 役者ってのは演技を仕事にしてる人間のことじゃない。
舞台の上でしか演技しない馬鹿者のことだ。だから大抵貧乏のうちに死ぬ。
 ほとんどの人々は、日々演技をしながらあっけらかんと生き、性交し、子どもを産み育てる。そのありきたりなプロセスを真剣に向上させようと勉強したり、自分は『プロ』たり得ないと悩んだりはしない。詐欺師以外はな。
 ――もちろん、人生は全てが虚構じゃない。演技が本物にバケる瞬間もある。
 さあ、貧乏くさい演出家君。その割合は、どれくらいだと思う?」
 話しを振られたジダン・レスコーは、顔の横で水割りを振りながら、小さな笑みを浮かべた。
「1パーセントくらいかなあ」
「ペシミストだな、あんた。私はもっと楽天的だぞ。5パーセントくらいは演技なしだと思ってる。
 というわけだから、お嬢さん。そんなことで慌てる必要は微塵もない。
 恋愛はそもそも道化芝居だ。誰だって相手の演じているキャラクターに騙される。そして互いに互いの演出意図を探り合って、時に滑稽なドタバタ喜劇を演じるじゃないか。
 恋から目が醒める時の感触は、劇場から出てきてふと我に返った時の感触にとてもよく似ているだろう?
シェイクスピアの有名な言葉を知らないかね?」



All the world's a stage,
この世は舞台
And all the men and women merely players.
おとこもおんなも、みな役者




「そんなことは何百年も前から分かってたことだよ。
 何も騒ぐようなことじゃないし、君はその恋をただ楽しめばよかったんだ。誰も問題になんかしないよ。――よほどの田舎者以外はな」
「………」
 楽しくさんざめくクリスマスパーティーの中央で、アキは一人、ぽかんとして立っていた。
 まさか自分の悩みがこんな流され方をされるなんて思っていなかったのだ。
 結構な大問題だと思っていたのに。
「うーむ。呆れた真面目人間だな。それともなにか」
 アイローニ氏は首をねじ曲げてジダンを見やる。
「その相手役だった役者ってのも、同じくらいシャレの通じん堅物の田舎者なのか」
「ええまあ、割と」
 ジダンが遠くのデミトリ君を見ると、アイローニ氏はそれを追って同じ方向を見た。それからへっと鼻を鳴らす。
「たしかに釘の一本くらい打てそうな頭だ。堅物同士、さもしい寸劇を演じたわけだな? ったく、俺がその場にいれば、残らずおいしく頂いたものを。
 ――ま。十人並みのお嬢さん。そういうことだ。
いい経験になったんじゃないのかね?」







「確かに僕には友達や親類が何人か近場にいて、同居人もいるけど、それもみんな無条件なんかじゃないよ。
 僕が何かいけないことをしたら怒るし、攻撃したら嫌いになるだろうし、それが重なれば家や仕事場から追い出されるはずだ。
 そうされないために、最低限のルールは守ってるし、僕は僕なりに、日々誠意を見せてる。だからなんとか許されてる。
 君はみんなが行事にかこつけて集まって、好意を確認しあうこういう場が欺瞞だと思えるようだけど、こういう手続きなしにどうやって深い関係を築くの?
 …仲間がほしいとか言いながら、君のやり方は、ムチャクチャじゃないか。たまたま居合わせた人に、自分の都合で手前勝手に玉を投げつけて、うまく取らないと怒っている。
 受け取ってくれる人なんて、いるわけないじゃないか。
 どうして工夫して球を投げないの? 君はそんなにえらいの? 相手に怪我をさせてるのが、分からないの?」
「……っ、あなただけは…」
 どうしてか、ヴィカの目に、涙が差し込んできた。
ヨシプの言葉はヴィカの体を風のようにさっと通り過ぎて行くだけだった。
 聞いてなどいない。断じて納得なんかしていない。
なのにどうして、涙が出てくるのだろう。
 体の中央から。ネジが壊れたみたいに。
「分かってくれると、思ってたのに……!」
「分かってると思うけど」
「ウソだわ! 誤解してる! だってなんであたしを責めるの…?! あたしを責めないでよ!!
 あたしが今まで、どんなひどい人生を送ってきたか、これからも送っていかなくちゃいけないか、知ってるんでしょ?!
 そのせいなんだから! あたしが人と馴染めないのは、深い関係になれないのは、そのせいなんだから!」
 ヨシプ・ラシッチはやはり顔を反らしも俯きもしなかった。
真正面から彼女を見つめたまま、目元を細くして、はっきり言った。
「エイズキャリアなくらいで、甘えないでね」
 ヴィカの息が、止まった。ヨシプは息を吸い込んだ。
「人は、みんな死ぬよ。8歳とか17歳とかでも平気で死ぬよ。大抵その人のせいじゃない。そんな八つ当たりしてるヒマがあったら、少しはまともな語り方を勉強したら?
 ――人が、君のピアノを聴いて白けるのは当然だよ。だって君は、ろくな演奏者じゃないもの。自分の恨みをピアノで晴らしてるだけだ。
 だから君の音楽は選ばれないし受け入れられない。映画にも、コンサートにも。
 誤解なんかない。みんな、君が思っているよりはるかにちゃんと君の音楽を聴いているさ。そして君がどんな人間なのか見抜いて、顔を反らすんだ。
 いつか君も言ってたじゃない。ピアニストは――」
 いつも客席の前に自分の正体をさらしている。
逃げも隠れも出来ない。
 一体いつまで自分の領域で怒っているつもりなのか。
孤独を愛するなら文句を言うな。
文句を言うなら、前進せよ。
「じゃあ、僕は戻るから…」
「――ま、待ってよ、ヨシプ…!」
「……」
「あたし、これからどうしたら、いいの…?!」
「僕は知らない。知ってそうな人に、聞いてみたら」
 ヨシプが一人で会場へ戻った後も、ヴィカは頬に涙の跡をつけたまま、動けないでいた。
 まるでいきなり乱暴に愛されて、捨てて置かれた後のような気分だった。
 一体今のは愛だったのか、憎しみだったのか、それすら分からない。
 つまりヨシプは、彼女が彼に対してしたことを、残らず彼女に戻したのである。




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