L'inutile
33.






 明るい会場に戻ると、ジダンが一人になっていた。空になった彼のグラスを受け取り、新しい酒を渡してくれる。
「大丈夫だろうな?」
 ヨシプは受け取って頷いただけで格別返事をしなかった。ジダンは、やれやれ、と思う。
「お前ちょっと、彼女にサービスしすぎじゃないか?」
「……」
「お前が人に説教するなんて、天変地異でも起きそうだ。そこまで誠意を注がなくちゃいけない相手かね」
 ヨシプは少し虚空を見つめていたが、やがて戻ってきてぼそっと言った。
「…妹だから」
 ちえっ、妹かよ。
ジダンは腕組みすると、ウィスキーくさい息を天井に吐いた。
「じゃーしょーがねーなあ」
「アキは?」
「あそこでくたくたのヤコブと話してるぜ。
 実際、外に出過ぎだよなあ、あのプロデューサも。もっとパリにいればいいのに。年を考えろっつーの」






「…あの。ごめんね。結局今年も色々、心配かけちゃって」
 ヤコブ・アイゼンシュタットの前で、アキは謝りに謝っていた。
「本当はもっとしっかりして、迷惑かけないようにしようと思ってたんだけど…。なんかやっぱり、ダメだね、私。力が足りなくて。本当に、ごめんなさい。こんな年の暮れまで」
「なんだか君は、いつも僕に謝っているような感じだね」
 ヤコブは、確かにいつもに比べると少し疲れているように見えた。もっとも、今年も休みなく内外を飛び回り、一人で働きづめだったのだ。無理もないかもしれない。
「志が高いのはいいことだけど、アキ。何も、つまづきや逡巡の全てが悪だと言うことはないんだよ」
「……うん。そうだけど…」
 だけど、そう言う彼はいつでも完璧じゃないか。
 おしかけの人生相談を経て、やっとのことで冷静になったアキは、いい加減自分でも気付いていた。
 自分がこんなに焦っていたのは、ヤコブを意識していたからだったのだ。常に落ち着いていて、明晰で公平で、自分に厳しいプロ中のプロ。
 彼を失望させてはならないという思いに、いつも縛られていた。
 別れた後でさえも。
 アキは、彼を顔を見上げながら、つくづくと言う。
「今更だけど…。あなたの存在が、私には大きすぎるんです。ヤコブ。あなたを困らせまいと意識してがんばって、結局ますます困らせちゃうのよ…」
 ヤコブ・アイゼンシュタットは笑った。彼は年を食っているので、笑うと幾筋も皺が寄る。そこに影が宿って、心なしか、寂しそうに見えた。
「…マッシモの話は、面白かったかね?」
「あ。うん。その、意外にも…。
 シェイクスピアの話をしてもらったわ。人はみんな役者だって。私、もちろんあの言葉は知ってたけど…、どういうことか今の今まで、分かってなかった気がする」
「ところで、僕もそうなんだよ、アキ」
「…えっ…」
「…だから、あまり怖がらないでくれないか。神様じゃない。
 あまり君に怯えられると、なにか同じ街にいるのが、悪いような気になるからね」
 アキは、はっとして、彼を見た。懐かしい青い瞳が、疲れたように優しく光って、閉じられた。
「たとえ十人並みでも、僕にとっては、それなりに大きな存在なんだよ」


 我らみな娼婦の子ども。
 我らはみな三文役者。
 神も悪魔も所詮、役回りだ。


 ごめん。
一番強く思ったその時には、もう言葉に出来なかった。アキはうなだれ、心の中で囁くしかなかった。
 それでもヤコブはそれが聞えたかのように、静かに笑って許してくれた。
 この自分の役割を果たしすぎる忙しい男も、来年はもう少しだけ、落ち着いてパリにいられるかもしれない。




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