L'inutile
33.






 十一時過ぎ。パーティーを終えて、マダム・ダールとヴィカはタクシーで家へ戻ってきた。
「イヤリングをなくさないように、外したらすぐ返してね」
 マダムは姪にそう言って、着替えに私室へ入ったが、戻ると、彼女がまだその姿のまま、居間のピアノの前に座っていたのでびっくりした。
「…どうしたの、ヴィカ…」
「………」
 ヴィカは、時々真夜中にも、怒りに任せてピアノを弾き始めることがあった。
 そんな感情の爆発には慣れていたが、今夜のこれは違っていた。
 彼女は当たり前にピアノの前に座りながら、鍵盤に手を出しかねている様子なのだ。
 人一倍、才能のある子だ。教えた最初から、船が海へ出るようにスウと弾き始めた。
 こんな有様は、はじめてだった。
 ジャンヌはすぐ傍にあった教師用の椅子を引き寄せて、姪の隣に寄り添うように座った。ヴィカは微動だにせず、鍵盤を見つめたままだ。
 どうしたのかしら…。やっぱり、何かあったのかしら。
 でも、私。この姿はどこかで知っているわ。
田舎町のリセの音楽室で家に帰りたくなくて一人泣いていた私も、教師だった夫からは、こういうふうに見えたかしら。
 思った頃、
「――どうやって、弾けばいいの」
ヴィカが、呟いた。
「教えて。ジャンヌ」
「…どうって…。
 あなたはもうそれを、知っているはずでしょう」
「…間違えて、覚えてたの。
 …あたし、今までずっと、間違えているのは、世の中のほうだと思ってた。向こうが、あたしを誤解してるんだって。
 でも、あたしだったかもしれないの。だから、一からもう一度、習いたいの。
 お願い。教えて、ジャンヌ」
「……そう。あなたはそれをもう聞いたことがあるはずだけど、それなら…、もう一度言うわね」
 ジャンヌは、自分が、姪の人生のとんでもない一瞬に居合わせていることを悟った。
 少女は今、長い長い謎の出口に通じる扉の敷居を、またいで立っているのだ。
 一体、いつのまにここまで来たのかしら。
 奥歯の付け根が震えた。
 懸命にそれをこらえながら、静かに笑って、脇から楽譜を一部、取る。
「いいかしら。
 まずは、楽譜を読んで、弾いてみて、その曲を書いた人が、どんなことを表現したかったか、読み解きましょう。その人本人の事を知ることも妨げにはならないわ。
 それから、自分のもてる技術の全てを尽くして、可能な限りその人の意図したとおりの音を響かせてみるの。
 作品として通しで完成したら、人に聴いてもらいましょう。人々はきっと、その表現の中にあなたらしさをちゃんと見つけ出して、認めて、くれるわ。
 成長するたび人間は変わって行くから、同じ曲でも見えるものが少しずつ変わってくる。いずれ前には気付かなかった音が聴こえてくるかもしれない。そうしたら、都度それを追うの。丁寧に丁寧に拾っていくの。
 それから、やっぱり誰かに聴いてもらいましょう。
 付き合いの長い友達がいたら、その人にはあなたの変化を見届けてもらわないとね。
 時には自分の曲を書いてもいいかもしれない。もしそこにいい音があれば、他の人も弾いてくれる。その人があなたのことを、その人の音で語ってくれるようになるの。
 こうして私達はひとつひとつ、進んでいくのよ、ヴィカ。
孤独や恐怖や色んな雑念に悩まされながら、ひとつひとつね。
 じゃあ私が最初に弾いてみるから…、聴いていて」
 ヴィカは立って、マダムに席を譲った。マダムは鍵盤の前に座って、その手を、静かに下ろす。


 前は、彼女の演奏が嫌いだった。ただただ柔和で、手ぬるくて、怒りが足りないような気がしたから。
 でも今聴くと、違っていた。彼女は別に自分自身を優しい弾き手として聴衆にアピールしているのではないのだ。
 作曲者――ドイツのもじゃもじゃ頭、難聴者ベートーヴェンの意図したとおりの音を、できるだけ汲みとろうとする真摯さ。
 受け取って自分の手で誠実に再現しようとする態度。
それが音に滲み出しているのだ。
 それはまさに、ジャンヌ・ダールという女性そのものの表現だった。
 途中で彼女は言った。
「道が分からなくなったら、何度でも聞いていいのよ、ヴィカ。
 私に命がある限りは、教えてあげるから」



 ヴィカの目から、涙がこぼれだした。
楽章が終わると、彼女は養母の肩に顔をつけて泣いた。
マダムの手が柔らかく彼女の頭を撫ぜた。






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