3.エアポートにて










溶けかけのバターのように温い午後だった。車の中ではラジオが旧弊な曲をいつまでもいつまでも垂れ流し、前の座席に座った男二人は時折思い出したみたいに手を動かしたり、首をひねったりしながら、結局は窓の外の青空を見ていた。
「そろそろですね」
 運転席に座ったクワンがちゃらりと手首の時計を鳴らした。隣に座る男は腕を組んだまま、ただ
「うむ」
と唸っただけだ。
「こんな感じだったんですかね」
「ん?」
「誰もいない世界に取り残されるってのは。非常食、まずかったろうなあ…」
 車は、遮るものの何も無い滑走路の真ん中に故障したもののように停まっていた。一般旅客機の発着する音すら遠い風鳴りの様に聞こえる。地図に登録の無い、すなわち存在しない一区画である。
「………」
 答えない男の横顔を横目で暫く眺めた後、クワンは思い切ったように口を開いた。
「ニカンダ刑事、聞いてもいいですか」
「なんだ?」
 現場に長いこの刑事は、経験の奥にほとんどの感情を隠してしまう。物腰が堅いところも、打ち解けないところもたかが民事調査官と馬鹿にされているようで、一向好きになれなかった。
「庁は何故生存者の存在を公表しないんです?」
「…緑瑛とニンブスの交信記録を見たか?」
「見ました」
「途絶する最後の部分も?」
「見ました。…あの記録を見た限りでは、最初にニンブス・シティの住民たちに治安維持活動用の生物兵器を用いたのは、5470のほうに思われましたよ。私としては、プログラム異常の線を感じます」
「そして与党の潤沢な資金は5470製造元のTTM社から流れてきている」
「………」
 クワンの小さな鼻の上に、幾重にも皺が寄った。
「選挙が近い。TTMも法務庁も、対策の必要性は感じているが、水面下で情報のやり取りをすることを望んでいる。もし生存者があの交信記録と同様の証言をすれば、メディアも野党も放ってはおかんだろう」
「…投票率が30%をウロウロするこのご時世に、統一議会の劇場中継がそれほど大切ですかね」
「――――そうだな」
「え?」
 思いがけない肯定の返事に、クワンは少し突き放されて刑事を見る。彼は膝についた毛ぼこりを大きな掌で二、三度うるさげに払うと、その手をまた胸の前で組んだ。
「癒着は確かに信じられる原因の一つだが、それだけではないかもしれん。無論、迂闊な議員どもは本気でそう思い込んでいるだろう。非公開なのは、党がTTMとの関係性を重んじているからだと。しかし、何か他に、公開に耐えざる理由が何か―――――」
 その時、車の薄い壁材を抜けて、低くエネルギッシュに唸るエンジンの音が二人の耳に同時に届いた。ニカンダの目がほんの少し調子を崩して空を見、下りたと思ったら閉じられた。無論口もそれ以上動かない。魔法の扉が閉まってしまったかのようだった。
「『何か』?」
当然クワンは収まらず、次第に大きくなるエンジン音の中で続きを催促した。
「何のことです?」
 ニカンダはようやく瞼を開けた。しかし浮かんだものは人の悪い微笑だった。
「民事調査官の悪いところは、刑事調査官が何でも知っていると思い込んでいるところだ」
「かッ!」
 翻るのに一秒も要しない。冷や水を浴びせられたクワンは腹立ち紛れに足で壁を蹴ると、その勢いでドアを開け、外へ出た。照りかえる陽光に膨れ上がった空気が皮膚に張り付く。
 掌を額の前に掲げて見上げると、北の空に目当ての機体が確認できた。太陽をもろに浴びて光っているのに、医療機特有の強制視認塗料のせいかどこか寒々と白く、家族を迎えるためにやってきた時のような気持ちがまるでしなかった。
 風が起こり始めた頃、ニカンダの頭が車の反対側に現れた。老獪な刑事殿の口元にはまだ笑みが残る。
「君は、自分がどうしてトードー・カナンの主任担当官に選ばれたかその理由を知っているか?」
「教えてくれるんですかァ?!」
エンジン音に負けじと彼は怒鳴った。
「自分で答えを見つけたまえ!」
「どういたしまして!」
 実際に下りてくると、船は予想していたよりもずっと大型だった。自分も車も、一歩間違えれば踏み潰されるんじゃないかと思いながら、クワンは髪の毛を逆立たせてその場に立っていた。
 生ぬるい空気を思う様撹拌した後、ようやく機体が地面に落ち着く。まだエンジンはうんうんうごめいていたが、四角いカバの様な船体の腹の部分が左右に開き、二、三枚の扉が続けざまに開いたと思うと、地面までの間にステップが下りてきた。
 ニカンダが歩みだしたので、クワンもそれに続く。向うからも四人の人影が降りてきた。いや、うち二人は5470だ。そして眼鏡の白髪は白衣を着ている。ということは、残るあの一人が―――――――生存者カナンだろう。
「コードを」
 医者と思しき男は、ろくに挨拶もしないで互いのチップをチェックする。何か船の中に大切なものでも置いてあるのかしらとクワンは思った。
「確かに。では、トードー君」
「はい」
 三人の生垣の間から、青年が進み出た。彼は与えられたらしい白いシャツと黒いズボンという単簡な格好をしていた。髪の毛はクワンと同じくらいで黒く、撫で付けることなく額に落ちているさまは少し学生じみている。顔つきは穏やかな、というよりも内向的な、大人しいちょっと女性的とも言える造形だった。エア・シティのスコラをひっくり返せばどこにでもありそうな顔だ。
 トードーはまずニカンダと握手をし、それからクワンに手を差し出した。その彼が笑っているのに、クワンは一瞬面食らった。
 いや、微笑程度であったし、別段気にするようなことではないのかもしれない。やっと母星にたどり着けて素直に嬉しいのかもしれない。
 しかし、それよりもクワンを密かに圧倒したのは、トードーの目に住む、今まで接したことの無いような一種の爽やかさだった。あたりの湿気を払うような輝きがある。女共なら、「きらきらしている」と言うだろう。そこには、凄惨な現場から保護された者が持っていると予想していた傷ついた感じや、不安げな様子がまるでなかった。
 きっとそれが違和感を生んだのだろう。しかしそれは居心地の悪い違和感ではなく、奇妙に突き抜けた、吹っ切れた違和感だった。クワンはどういうリアクションをしたらいいのか分からないで、拍子抜けした表情のまま車に戻った。
 同じことをニカンダも感じているだろうかと、同志を探る気持ちで彼の方を見たが、刑事は前と同じ様に、平然とした横顔を見せるばかりだった。
「調査官さん、ご存知だったら教えて欲しいんですが…」
 車を発車させようとすると、後部座席に乗り込んだトードーが口を利いた。それがまた空気を切るような穏やかな落ち着いた声で、クワンはどきっとした。
「何かね?」
と、ニカンダはいつもと変わりない。
「僕はまた、エテルと会えますか?」
「一緒に救助された女の子だね」
「はい」
「きっと会えるよ。彼女は精密な医療検査が必要で、そのために一時的に厚生局にいるだけだからね」
「そうですか、良かった…」
 バック・ミラー越しに、トードーのほっと俯く顔がクワンにも届いた。目を閉じていると、少し冷気も和らぐようだ。
 クワンはまだ用心深い思いを棄てきれないでいる自分を感じながらも、この男は悪い男ではない、少なくとも演技をしているのではないと、そう思った。
 動き出した車の後ろでは、再び飛び上がる準備を整えた医療船が、重いエンジン音を響かせ、外の空気をけ立て始めた。












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