17.人を操る(トードー・カナンの供述)







 文書館の一件では、僕は図らずもヌクテの共犯者にされたが、もともと彼とは格別親しかったわけではない。むしろ疎遠な方だっただろう。
 僕は先に書いた通り、基本的に他者と(下手をすると社会とも)交渉の少ない「暗い」人間だったし、他方彼は施設だろうがスコラだろうが、集団の中で飛びぬけて目立ってしまう派手で魅力的な人間だった。そんなのと僕の人生が合うわけがない。
 だが、例の事件は僕を彼の「友人」という身分の中に引き入れたように見えた。ヌクテはスコラで偶然僕を見かけると挨拶を送ってくるようになったし、時折は呼び止めてつまらない話をしたり、食事に行こうと誘いをかけるようになった。すると彼と一緒に歩いている女の子は、大概珍しいものでも見るように僕のことをじろじろ見るのだった。僕がいかにも彼と釣り合っていなかったということだろう。
 勿論、僕だってそれは知っていた。だから人前で彼に話しかけられると、(それは僕のような人間に対して一種の温情でもあったわけだが、)迷惑なような嬉しいような複雑な気持ちになったものだ。
 ところが、彼はその後もう一度文書館にやって来て、今度は文書館のシステムからLANを辿り、別のシステムへ飛んで同じ様な細工をした。僕もその時にはまた彼が違法な事をするのが分かったので、かなり抵抗したのだが、強引に押し切られてしまった。
 彼はその時、僕に口づけをした。
「まあいいじゃないか」
唇を離して低い声で言った。
 そのせいで僕は電源を切られた5470のようになり、とんと胸板を押されたまま扉のところに蕭然と立って、自分の端末をいじる彼を眺めているばかりだった。
 その時彼が行った小細工も、結局発覚しなかった。ヌクテには本当に才能があるのだな、ということも二回目なのでよく分かった。しかし、彼に利用されたという思いは日に日に強まって、僕は不愉快だった。スコラでヌクテを見かけると逃げるようになり、その後二月あまり彼と顔を合わさないようにして過ごした。
 ところで、それは二三〇七年のことで、僕は一九歳になっていたが、依然として遺伝子提出義務について明確な意思を示していなかった。
 パートナーであるリンダ・ウェルスは、様々な意味で優等生であることを目指すタイプの子で、別個に遺伝子を提出して済ますのではなく自然出産を望んでいた。しかも、外部で受精させた受精卵を着床させるタイプの出産ではなく、完全に普通の男女の関係を経てという形をご希望だった。
 僕は面倒なので、出来るだけ遺伝子提出義務については考えないようにしていたのだが、パートナー・ミーティングで彼女とめぐり合って以来、向こうが理解の期待を込めて僕をじっと見やるので困り果てていた。
 言を左右にして逃げ回るうち、リンダもこれは長期戦になると気づいたらしく、担当官のカリーナに相談の上、二人がかりで僕を口説き落とす形になってしまった。
 遺伝子提出は何しろ義務なので、厚生局からはいつもレベル3での呼び出しが来た。カテドラルから強制確認警告が来てしらばっくれることの出来るシティ民はなかなか存在しないだろう。



 10月のある木曜日、その用事でカテドラルに出かけた。カリーナは呼び出し状の中で、リンダが大変悩んでいると述べ、その解決の為にはパートナーであるあなたもカウンセリングに同席すべきだと言っていた。
 カテドラルの中で受けたその日のカウンセリングでは、えらくまた持ち上げられた。
 …目先の利益や安易な賞賛を求めず学問を貫く姿勢は、スコラにあっても現在得がたいもので、その資質を持つ僕の遺伝子と、バランス感覚に優れ、他人のために尽くすという福祉の心を持ったリンダの遺伝子を掛け合わせれば、きっと素晴らしい結果が生まれる。
 それはニンブス全体にとって有益なことで、僕とリンダの結果については、統治代表者ゲオルギウスも特に興味を持っている。と。
 だがそれはリンダにはともかく、僕にとっては何の意味もない会話だった――――――ゲオルギウスの方が僕より文芸解読に優れているのなら話は別だが。
 僕の無反応を見て取ると、カリーナは今度は人間同士が一緒に生きることの快楽(けらく)の話を始めた。そんなに恐れることはない。心の底から理解しあった人間が二人、手をつなぎあい心を鏡に移しあい相対しながら愛し合って生きることは、有史以来続くもっとも自然な幸福なのだと。
「それに君にだって興味がないわけじゃないでしょう? 難しく考えなくても、最初は試してみるくらいの気持ちでいいのよ」
 カリーナがまた言う。眉をひそめた僕はこの間からずっと考えていた。厚生局の5470が美男美女ぞろいなのは偶然ではないのかもしれない。現に目の前にいる褐色の肌のカリーナのほうが、年の若いリンダなどより遥かに性的で蠱惑的だ。
 そんな彼女に自分の下半身のことなどを言われる。僕は逃げ出したくなった。彼女らの言わんとすることは分かる。だが遺伝子提出義務は僕とってどうにもリアルではなく、共感できないのはどうしようもない。
 そうなれば一度たりとも頷くわけにはいかない。頷いたら僕は、彼女らの夢の中でリンダと寝なければならなくなる。子供を作らねばならなくなる。そうやって相槌も打てない話に延々と付き合わされるのは実に苦痛だった…。
 やっとのことで休憩をもらって手洗いに入る。青みがかった電光を肩に浴びながら鏡の前に立った。
 僕は、大昔に書かれた小説を読んだ事がある。時折拷問という言葉やシーンがある。僕は爪を剥がされたり逆様に吊られたりはしていない。しかしこれは…。
 今日のところは的外れに終わっている。しかし次もそうとは限らない。
 カリーナは僕の傾向を研究し始めているに違いなく、彼女らは実に優秀なので、次のカウンセリングではもっと自分の弱いところを突かれることだろう…。
「………」
 草臥れた自分の顔を見、嘆息をつこうと息を吸い込んだ時だった。偶然入ってきた男の顔を鏡越しに見て、僕はそのまま、それを吐き出すのを忘れた。
「お」
「………!」
 ヌクテだった。僕は感情に乏しいが抑制が苦手な人間なので、会いたくないものに会った、という思いが目元の辺りに露骨に出た。
 彼の方はもっと如才ない。闇のような黒いボトムスをすらりと着こなすように、僕の不愉快さを僅かな笑みで受け流した。
「何か久しぶりじゃないか、カナン。お前も呼び出しか?」
 分かっていることを聞くことはない。僕は答えず、意味もなく貴重な水で手を洗った。一瞬伏していた顔をつと上げると、もう彼はすぐ側まで来ていてぎょっとした。
「気のせいかな。何かお前、俺を避けてないか?」
「………」
 他人が肌の近くへやってくることを僕の体は望まない。本能的に離れようとするとヌクテは強い力で僕の右腕を掴んだ。勢いづいた体がうまく止まらず、僕は横の壁に肩をぶつけた。
 後ろに壁。前にヌクテがいた。
「何だよ、そんなに機嫌損ねることないじゃないか。俺達、敵同士どころか仲間だろ?」
「仲間…?」
どうにかそのスペースから逃れようとしたが、彼は上手に僕の体勢を封じていて動けなかった。背中がタイルの壁に当てられて冷たくなり、悪寒が下から上へ、ぞくっと走った。
 それを見るとヌクテはちょっと目を細くして笑った。
「…厚生局から睨まれ仲間。そうだろ? 何となく厚生局に精子を提出したくない仲間。そうだろ?
 この間も仲間だから助けてくれたんだろ? 感謝してるよ。確かにお前の端末を強引に使ったのは悪かった。でもそんなに怒らないで、俺と仲良くしてくれよ」
「………」
 僕の非力な眼光はいつも、相手に何をさせることも、何かをさせないことも出来ない。ここでも話が終わることを一心に念じた僕の希望も空しく、ヌクテの顔が滑らかに動いて、残酷な微笑を形作る。
「俺にはお前が必要なんだ…。それにお前の繊細さに惹かれてる。仲間でいようぜ。
 …知ってるか、カナン。カテドラルの中に、防犯カメラの撮影範囲でないところは一つしかない。
…ここだ」
 次に、こんな映像を連中が見たらカウンセリングの内容ががらりと変わると彼が言ったように思う。しかし最後まで言い切っただろうか? 或いは、僕自身がそう思っただけで、彼はものも言わず、また僕の唇に噛み付いただけだったのかもしれない。
 前回の時もそうだが、それがどこから始まったのか記憶が定かでない。気が付いたら、唇の上に柔らかいものが押し付けられていたという感じだ。
 想像していたものと随分違う。僕は人間の唇はもっと固いものかと思っていた。その落差に躓く。 そして性懲りもなくその粘度に溶かされそうになった。水の中を回転しながら落ちていく絵の具のように、拡がるめまいに全てを誤魔化されそうになる。
 祈るような思いで右手を振り上げる。知らない間にヌクテの手が顎の辺りに移動していて、そのために拳は思いがけない乱暴さで彼の頭を跳ね飛ばした。
「ッツ…!」
 ヌクテの体が離れ、非現実的なゆっくりした速度で、流しの上に傾いた。彼は拳の当たった耳の辺りに手をやり、驚いたように僕を見た。
 目が合った瞬間、彼からの仕返しが突き抜けるほど恐ろしくなったが、それを凌駕して余りある怒りが、臆病風より先に爆発した。
「…いい加減にしろ!」
僕は信じられないくらい腹から声を出した。
「これ以上君に利用されるのは真っ平だ! 君はそりゃあ、立場上一部は僕の仲間かもしれない。だが、本当はそんなこと考えてもいないだろう!」
 言いながら顔に血が上ってくるのが分かった。羞恥とか侮辱に対する感情というのは足がのろくて、いつだって事が起きてしまった後にのこのこと追いついてくる。僕は自分の身に何が起こったか、その頃やっと理解していた。
「君は僕が都合のいい男だから自分の手駒にしておきたいだけだろう! またシステムをいじるために!
 いつだってそうなんだろ?! 君の周りを取り巻いてる女達にも、男達にも、みんな君の『友達』とか『恋人』とか結構な呼び名と性感を与えておいて、その実利用しているだけなんだろ?!
 キスだの微笑みだの、そんな連中にやれよ! 僕はその中には入らない! 厚生局でも、あんたでも、誰でも…! 操られるのはごめんだ…!」
 ヌクテは呆然といきり立つ僕を見つめていた。鏡の向うに、彼と僕とがもう一対ずつ動いている。右頬に血が集まって、赤くなり始めているのが、ちらと僕の視界に入った。
 それで、自分が彼に暴力を振るったことが瞬間に飲み込まれ、同時に怒りの火勢もしゅんと縮んでしまった。それでも尚、わなわなとする両足を持て余しながら、僕は最後に彼に言った。
「性は甘いものなんだろう。僕はそのほとんどをまだ知らないけど。きっと柔らかいものなんだろう。
 君はそれを与える才能があるからそれで人を支配するんだ。好きにすればいい。だがそれは君が嫌っている厚生局のやっていることと同じだ! 前も言っただろ、僕にとって君は連中と同類だ!」
 僕はそのままトイレを出、カウンセリングルームに帰った。でも頭がふらふらしていて、部屋を二度も間違えそうになった。勿論カリーナにもリンダにも、遅れた理由は話さないでいた。
 カテドラルから帰る時、ふと見返すと三階のガラス張りの廊下のところにヌクテと、彼のパートナーのエテルが手をつないで立っているのが見えた。
 棒のように立っている背の高い彼の隣で、エテルは普通の握手に飽きたと見え、どんどん激しく腕を振っていた。ヌクテはこっちを見ているような気がしたが、僕は近眼だし、あまり頓着しないで再び背を向けた。
 また明日から「流行」とか、「現実」とかそういうものと接触を持たずにやっていくんだなと思った。一抹の寂寞が舌の上に乗ったが、しかしそれが自分自身だとするなら納得のほかない。
 ヌクテと一緒にいるのははらはらして楽しかった。明るい世界を垣間見ることが出来るような気がした。しかしやはりそれはイレギュラーなもので、自己の性格とは遠い。
 僕らは自分自身になるより他に仕方がない――――。これで彼との縁は切れるだろう。それも残念だが仕方がない。所詮自分には空想の世界しか似合わない男なのだろう。
 僕は本気でそう考えていた。
しかし二日後、彼はまた深夜の電子文書館にやって来て、以前の非礼を詫びた。二度と同じことをしないと言って、僕に友情を求めた。
 それ以来だ。僕と彼とが支配/被支配の緊張を持たず、本当の意味で友人同士になったのは。








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