言葉を切ると、第7民事調査室の中には沈黙が満ちた。テーブルの上にはコーヒーが二つ並んでいて、湯気を吐かなくなって長い時間が経っている。クワンとトードーはその机を挟んでじっと向かい合っていた。
 本来なら今朝も事情聴取の予定であり、ニカンダが席についているはずなのだが、急な呼び出しがあって午前が駄目になってしまった。その空いた時間に急襲をかけるようにして、クワンは彼の前に座り、先の話をいきなりぶつけたのである。
 仕事ではないから、クワンは足を組み、トードーも腕組みをしていた。やがて、トードーが一つ大きなため息をつくと、腹を立てられたかとどきりとしたクワンに目をやって、
「…僕は別に、カウンセラー制自体が悪いとは思っていませんよ」
話に乗ってきた。
 クワンはその時点で疲労も吹き飛ぶほど驚いた。こんなことは無論イレギュラーもいいところだから、何の真似かと一笑に付されても不思議ではない。こんなヤケクソの突撃がうまく行くとは全然思っていなかったのである。
「聞いてます?」
「聞いてます」
慌てて返事する。するとトードーは軽く頷いて先を続けた。
「悩みを抱いて自壊するくらいなら、他人を頼って救われた方がいい。僕もそう思います。
 けれど、少なくとも僕が知るニンブスの住民たちは皆、物心ついて以来意思を問わず行われてきたカウンセリング・サーヴィスによって、ある大きな思い違いをしていました」
 間を置かれたが、悲しいかなクワンには彼の言葉の真意が分からなかった。それで問う。
「…何の事です?」
トードーは答える。
「…自分の感情にはかえりみられるだけの価値があると考えてしまうことです」
「………」
クワンは眉をひそめ、相手の顔を真っ向から凝視した。
「かえりみられるべきですよ」
「そう考えられているのは、ただエア・シティとグラナートシティの中央部でだけです。事実、僕達が一瞥すら与えない人々がいます。彼らにも感情があるのに、全く問題にされない人々がいるのです」
「……5470?」
「僕が考えていたのは、偶然南部大陸に生まれた人々のことです」
 靴の先で心臓を蹴られたような気がした。クワンは机から上体を引き上げ、代わりに椅子の背に預ける。そして両腕を深く組んで、顎を引いた形から睨むような眼差しを相手に向けた。
「彼らは、中央部とエア・シティの人々を安楽に生活させる為のシステムの中に、もう百年以上も取り残されてきました。
 彼らの貧困と労働なしには、僕達のこの生活はないのです。でも僕達はそれを長い事知りませんでした。シティでは『福祉』のための犠牲は注意深く隠されています。僕達は非公開のデータに違法にアクセスしてそういうことを知ったのです。
 人類の三分の一は、仕事で失敗をしても恋人と喧嘩してもありとあらゆる手を使ってそれが慰められるのに、残りの三分の二は劣悪な環境に住み、子供を喪うほど貧苦しても全く気にされません。その理由は簡単で、そんなものに構っていたら自分たちの生活が脅かされるからです。僕らの『福祉』はまるで勝手なものです…」
 トードーは譲歩するように、ふと優しい笑みを見せた。
「…僕だって、カウンセラー達の優しさが嫌いなわけじゃありません。僕も言われたことがあります。あなたが存在することには様々なレベルで大きな意味があるのだと。
 今僕が思うのは、そんなの詭弁だろうということです。僕はただ偶然ニンブスに生まれたからそう言われるだけで、南部大陸に生まれてたらそんな言葉一生聞かないで過ごしたはずです。
 エア・シティで何より狂わされるのはその、自分自身の生存に対する価値の感覚です。子供の頃から5470に自意識の傾向を曲ないように育てられ、成人すると遺伝子を得るためにいかに自分の生存が人類にとって貴重なものか延々と教え込まれます。
 でもそれは本当でしょうか? 本当じゃないでしょう。何を成し遂げる事も無い生のままの自分に価値があるという思考は、福祉の中の福祉でしょう。つまりは、非常に優しい嘘なんです。
 でも実際僕らはそれを浴びると、なかなか抗することができずに骨抜きにされてしまいます。5470は我々に嘘を与え、自我を育成し遺伝子を収穫する。エア・シティはそうやって維持されているのです」
「でもそれは……」
 クワンは着いていけなくなって彼を止めた。
「でも彼らがそれをするのは…、人間によってプログラミングされているからですよ」
「そうです。だからもともと人間には、自分の感情を大事にして欲しいという願望があるということですよね。悲しければ空が割れることを望み、苦しければ神の同情を乞うという具合に。
 でも、それは願望であって現実ではありません。現実はどちらかといえば、南部大陸の方です。子が死に、親が死に、友達が死んでも、その悲しみで何かが動く事も無く、泣いて腐して葬って、忘れてしまう他無い。それが本来なら、本当のことなんです。そしてそれに耐えても生き延びるのが、生物としての人間というものだったんです」
「………」
 春の陽の差し込む調査室に、青いブレスの残像と何度目かの沈黙が流れた。クワンの唇が容易に動きそうに無いのを見て取ると、トードーは再びゆっくりと口を開いた。
「…現在の過福祉的なアプローチが統治技術として使われ始めたのはエア・シティが最初です。人口調整を公的圧力で行わなければ社会が維持できないという状況から、出来るだけトラブル少なく遺伝子を提出させるための懐柔技術が自ずと蓄積されたわけです。
 これがグラナートに『逆輸入』されて、5470の普及と共に全体に影響を及ぼし続けているということは僕も先日知りました。重要なことは、これは福祉の前進であると同時に、統治の前進であるということです。
 こういう事態になればなるほど、システムは落ち着き安定しますから、偶然社会の上部に生まれた人間たちは満足する。悩みを解決してもらったあなたと同じに、充分な情報を得ないまま『悪くない』と感じる人が増えるのです。
 疎外された人間たちが絶望し、非合法な行動に走っても、もうその動機がよく分からないでしょうね…。だからこのまま、しばらく先まで続くでしょう。もう人々にとっては、5470が多量に社会に出回って自分たちのために働いていることも、南部大陸の人々が貧困に苦しんでいることも当然で、自分たちの生活と反政府活動がどのように連動しているのか、知ることは無いのです。
 僕があなたを拒否したのは、その流れに巻かれないだけの意思の強さが無かったからです。これもまた意味の無い自我の一つで、無視されても仕方ありませんでした。だから僕の拒絶を受け入れてくださったことを、とても感謝しています…」
 …それで、大体の話は終わりだった。長く話して疲れた様子の彼は机の上のコーヒーを口に含んだが、いい加減まずくなっていたらしくちらりと渋い顔をした。
 クワンは黙ったまま、局に「大人しい」と性格判断されたこの男の一連の動きを眺める。が、やがて上体を反らすと、息を吸い込みながら天井へ目をやった。
 トードー・カナンがいつまで経っても遺伝子提出義務を果たさなかった理由がようやく分かったような気がする。…この男は、自分の生存自体にも価値を認めなかったし、且つ又自分の遺伝子にも、ニンブスにも、存続させるほどの価値を見出せなかったのだ。だから自分の遺伝子を提出することを、あれ程までにのらくらと逃げていたのだ。
 納得できないことは何一つしたくない…。何が「温和」だ。クワンは眉を掻き、同時に目の前の男の性格を、頑固の二文字で奥歯にかみ締めた。
「…そうだ、話は変わりますが」
と、トードーが言うので、クワンはがくんと顎を戻した。
「ふぁい」
「エテルは元気にしてるようですか?」
あの羽根の少女のことである。余程気にしているらしい。
「ああ…、異常があるとは聞いていません。本当なら彼女にも調査に参加してもらう予定なんですが、ちょっと厚生局での精密検査に手間取っているみたいで…」
 すると、トードーの表情が急に真面目になった。
「…手間取る? 5470ですか?」
「は?」
「担当官です。5470が彼女の担当官ですか?」
「え? …ええと、はい」
 この情報をトードーに渡していいのかどうか咄嗟に判断がつかなかったが、思いがけない彼の剣幕に押されてクワンはつい喋ってしまった。
 すると、
「…駄目だって言ったのに…!」
トードーは失望して喉を絞った。
「ちゃんと言いましたよ、僕。搬送機の中のドクターに5470は駄目だって」
 苦情を申し立てられてもクワンには何のことやら分からない。目を丸くしているうちに、トードーもやっと口調を収めて俯いたが、苦々しさは目の下に皺を刻んで陰を落としていた。
…何が、駄目なんです?
 びっくりしてクワンは尋ねる。すると、彼は暗い表情のまま苦笑いを浮かべて、こう言った。
狂うんです。エテルを見てしまうと。
 …は?
彼女のことを「天使」だと言い出すんです。






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