法務庁の21階より上は、職員の間では「ホテル」と呼ばれている。嫌疑があっても尚、ご機嫌を損ねることが出来ないような大物の被疑者や、様々な理由で足止めをかけねばならない関係者、また病人を宿泊させる為の特別エリアになっているのだ。
 普段なら係官が部屋に出向き、トードーに調査室への移動を告げる時刻、サミュエル・クワンは一人エレベータを降り、植物の脇を通って彼の個室へと向かった。
 勿論「ホテル」には、自由という付録はついていない。フロアは圧迫感のないまま巧みに仕切られており、クワンが部屋まで歩く間にも、職員以外すれ違う者はなかった。
 ドアの前に立つと、クワンはそこをノックする前に、一度俯いて腰に両手を当てた。そしてしばし後、気力を振り絞るように顔を上げると、拳を作ってドアを叩く。
「どうぞ」
 部屋に入ると、トードーは窓際に椅子を持ち出して座っていた。クワンの顔を見ると、欲も無いようにひそやかに微笑む。それが傷のあるクワンにはかえって苦しかった。
「珍しいですね…、クワンさんが、ここに来るのは…」
「…ええ、本当は一度くらい、挨拶に来てもよかったんですけどね。担当官なんだし…」
 私から話してもいいんだぞ。
ニカンダは腕を組んでそう言った。十五分前、事務室での事だ。それに対してクワンは、
 いえ、いいです。自分で言います。主任担当ですから。
と言い、コーヒーを一杯空にして、ここへ上がってきたのである。
「今日は…、言いづらいことを言いに来ました」
「はい」
雨を側に、トードーは静かに応対する。
「実は…、…その、あなたにはお知らせしていませんでしたが…、つい昨日の昼までニンブス・シティは、公には、全滅したことになっていました」
「………」
「あなたとエテルが生きているということ、…つまり生存者がいたということは、完全に秘密にされていたんです」
「………」
 少し俯いたトードーの顔に、微かな曇りが差した。脈が血管をずきずきと蹴るのを感じながら、クワンは続ける。
「それは、恐らく法務庁と統一政府のトップが協議の上で下した判断だろうと思います。ニンブス・シティ損壊の原因調査も完全な二部体制になっていて、現地調査団とは違い生存者からの聞き取り調査団――――つまり私たちのことですが――――は、存在自体が非公式だったんです」
「はい」
「それが昨日、見事に露見しました」
「………」
 トードーの反応は正しかった。彼は雨で流れて見えはしなかったけれども窓へ顔を寄せ、下を伺うような様子を見せたのだ。
「ええ、ここからは見えませんが、入り口は昨日から報道陣でえらい騒ぎになっています」
「………」
「このスキャンダルのせいで調査に何らかの支障が出ることは必至です。議会がどう転ぶか次第ですが、もしかすると調査の一時停止も有り得るかもしれません」
「そうでしょうね」
「…これから先、あなたの扱いを巡って、状況が激しく変化することと思います。調査云々の話ではなく、政治的な問題としてあなたの存在が様々に取り沙汰される事になるでしょう。
 このような事態になってしまったことを、ともかくもお話しておくべきだと考えまして…。きっと…、我々の対応に、ほとほと呆れられたことだとは思いますが…」
言葉が細るに従って、盛大なため息をつきたくなった。
 実際格好の悪い話だ。隠すなら隠し通すべきだし、途中でバレるくらいなら最初から公開していた方が千倍もましだ。クワンは政治的思惑に縛られて結局部下に無様な思いをさせる上官の中途半端さを、腹の中で恨めしく思った。
「―――――か聞いていますか?」
「は?」
 思考を破るトードーの声に、クワンは慌てて注意を向ける。彼はクワンが聞いていなかったのを見て取ると、気も悪くしないで質問を繰り返した。
「どうして僕たちの存在を秘密にしていたのか、その理由を聞いていますか?」
「…いえ、直接は聞いていません。
 ただ、これはニカンダ刑事調査官の受け売りですが、ニンブス壊滅の原因が5470のプログラム異常にある場合、TTMが責任を問われる事態になります。与党とTTMの繋がりは長く強いので、その線から政治的配慮があったのではないかと…」
「そうですか…」
 トードーはそれ切り黙った。クワンもまた黙っていた。自分たちの今後に深く関わる話なのに、実際に話していてもまるで他人事のような感触がするのは不思議だった。そんなことを延々話続けるよりも黙っている方が本当の気持ちに近かった。雨が洗う窓の中で、二人はめいめい目を開いたままそれぞれの思考に浅く身体を沈める。
「ここに来て初めての雨ですね」
 随分経ったころ、トードーが呟くようにそう言った。
「僕には人生初めての雨です」
 クワンはその言葉に顔を上げたが、トードーは向うを見ていて、ガラスはその表情を半ば以上外へ流してしまっていた。
「小説なんかで読んではいたけれど、こんな音だったんですねえ…。リンダにも聞かせてやりたかった…」
幽霊のように薄いトードーが鏡の中で目を閉じる。
「妙だな…、どうして今頃、こんな風に思うんだろう…」
 窓の外、霧を立てる春の雨は続いていた。
その水滴はクワンの視界を掠めると何ものにも妨げられず100メートルの高さを落下して、法務庁ビルの入り口に張り付いていた一人のカメラマンの肩へ静かに沈んでいった。








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