30.内部へ









 冷え冷えとしたマシンルームの中で、他の作業員に混ざり何食わぬ顔をして手順どおりに作業を進めている時、彼は意外な感情が血管に流れるので、我ながら不思議になった。
 それは突然降って湧いた情で、彼は数台並んだコンソールで黙々と作業を続けている5470達と、それを不安げな面持ちで後ろから眺めている人間たちとを見て、―――――本当に変な感情だが、可哀相に、と思ったのである。
 お前が今生きているという真実と、この箱の中に詰まったマシンとの間に、一体何の関係があるというのだ? なにをそんなに必死になってこんな―――――所詮人間が造り出したものの機嫌を取っているのか。
 どうでもいいじゃないか。
現段階の作業に人間としてはただ一人参加している彼は、手だけは休みなく動かし続けながらも、僅かに目を細めた。それは痛みをこらえる人のようだったが、5470達は作業に集中していて気が付くことはない。
 5470は悲しいかな機械である。どれほど処理が高速化し複雑に足りようとも、顕在化しない事象には反応できない。彼がどれほど危険な計画を胃臓に蓄えていても、彼らにはその存在を「勘付く」ことは出来ないのだ。
「よろしい、では、交替だ」
 不純分子を見つけ出すことのないまま、マシンルームの5470はとうとうシステム・ダウンを決定した。ここから先は作業者が人間だけになり、他ならぬ彼が、作業の指揮を執るのである。
 今まで後ろに並んで、作業の経過を見ていた人間の作業者たちが、おっかなびっくりやってくる。無理もない。彼らはこういう作業でもなければ、普段は基幹システムADAMを操作することなどなく、万が一手順書に書いていないことでも起ったらあとはもうさっぱり分からないのだ。
 自分たちの作業の後、もしシステムが不具合を起したらどうする。どのように責任をとったらいいのか予想も出来ない。そんな仕事をするのは、誰だって嫌だろう。
「大丈夫だ、前と手順は一緒だから、落ち着いてやろう」
 彼は全員に声を掛け、作業を開始した。そしてDBシステムを落とし、壁際の5470達が気配もなく減衰した時、既に用意してあったコマンドを発行し、シャットダウン作業に紛れて一本のジョブを走らせたのである。
 悲しいかな彼らは人間である。環境に慣れるまで時間がかかり、緊張は視野狭窄に拍車を掛ける。ほんの少しの作業量で手も頭も一杯になって、誰も彼が予定にない一手を入れたことに気がつかないのだ。
 可哀相な奴らだ――――――。
また彼は思った。しかし今度はそこに自分自身も含まれていることをはっきりと意識していた。
 そんなにうろたえて、そんなに執りつかれて、あの少女を抱くことも出来ずに…。与えられた場所に落ち着くことの出来ない自分が憐れだった。
 どうして知らなくてはならないのか。
このまま、無邪気な一人のエンジニアとしてカテドラルの中に埋もれてしまえばいい。
誘惑されるのは当然だ。
ここは俺が「生まれた場所」なのだから。
 そして後輩が来たら言ってやればいい。
若い頃は色々気が散るものだ。
だがそんなにここでの暮らしも悪くないと。
 しかし、彼はそんなことを考えながらも、今となっては全てが表皮を撫でていくだけで体内へ留まらず、水のように流れ落ちていくのを感じていた。
 もう迷う段階ではない。ただ、憐れだ。そんな感情が湧いてくること自体が既に尋常ではない。
 彼は、このシステムを存続させようと汗をかいている作業者たちにも、カテドラルに染まろうとして染まることが出来ない自分にも、自らの内なる声に引きずられて禁を犯そうとあがいている自分にも悲しくなった。
 自分自身に忠実であることは、どうしてこれほど悲しいことなのだろう…。
 そう思った時、人間である隣の作業者がふと、彼の表情に気がついて声を掛けてきた。
「大丈夫ですか? 問題でも?」
彼ははっとして力を緩める。
「いや、問題ない。少し緊張してて…」
「ああ、分かります。ここがおかしくなったら大変ですからね…」
「そうだな…」
 触れ合うことのない会話の五分後、ADAMは完全にダウンした。直ちに再起動の手続きが踏まれ、もと来た道を戻り始める。
「頼むから何も起きないでくれよ…」
 誰かが祈るような台詞を口にした。前回は修正ファイルにバグがあったため、起動の際予期しなかったメッセージが出、面倒なことになったのだ。違う理由ではあったが、同じ願いを抱きながら、彼は立ち上がっていくシステムを作業者たちと一緒に見守り続けた。
 全ての確認作業が何の異常もなく終了した頃には、既に朝になっていた。責任者の5470にねぎらいの言葉を掛けられ、握手した時には内部で罪悪とも違う不可思議な感情が心臓を握りつぶした。
 カテドラルから外へ出ると、まだ街は覚めやらず人の姿はまばらだ。しかし太陽は上っていて通りはすっかり明るく、冷たく閉鎖されたマシンルームがまるで遠い夢のようだった。
 …そうだ。あれは夢だったのかもしれない。
彼は緊張が解けて気だるい身体を無理矢理動かしながらそう思った。
 夜と共に夢も、夢じみた感慨ももはや昔に過ぎ去ったのだ。これから先に待っているのは、彼の知りたかった、現実である。










<< back [ 30 ] next >>