42.第一日目の終了







 クワンは背をかがめて通路を通ると、振り向いたヘイに目配せして席に戻った。 喚問も午後の部に入って3時間が経過しようとしている。彼は、今証言者として呼ばれているニカンダに言われて、法務庁に連絡を入れてきたのである。
「どうだった?」
ヘイが小さな声で尋ねる。
「庁にも報道各局にも、苦情とも問い合わせともつかない電話やメールが殺到しているそうです」
「そりゃそうだ」
 彼の納得にクワンも鬱とした顔で頷く。あんな証言内容を、しかもテキストのみで見せられたら誰だって混乱する。さだめしドラマチャンネルかと局番を確かめたことだろう。
「苦情についてはその大半が、生存者の言葉は出鱈目か妄言であり、そんな不確かな言葉を報道するな、喚問を中止しろ、という主旨のもののようです」
「…さすがにお見事だな、トマス・エブレンの愛娘は」
 今、目の前で彼らのボスを相手に熱弁を振るっているクロード・カーター君は確かに目障りだ。しかしこの筋書きを立てたのが彼でない事ぐらいは、恐らく大半の議員にも察しがついているだろう。
 立役者エブレン・シャオユェは、相変わらず落ち着き払って座っていた。彼女は今日、一度も発言していない。まるでもうすることのないプロデューサのように、計画済みの喚問の成り行きを静かに見守っている。
 実際、何も起っていないようだ。彼女を見ていると、遠い空の向うで4万人が死んだことなどおとぎ話みたいである。
 だからこそ先生連中は彼女の手腕を信頼する。今回の彼女の仕事は、5470の暴走などとという説は、三流の脚本家が作ったちゃちな映画台本程度の嘘なのであり、現実の議論にはなり得ない、という印象を議場全体に行き渡らせることにあるのだから。
「あなたは毎日、そんな証言記録を目にしていながら、捜査を打ち切ろうと思わなかったのですか?」
「事故について何らかの形で原因究明が進められることは必要だと思いましたので」
「しかし、話をまともに聞いていれば、ヌクテ・ロイスダールという男が犯罪者であるということはすぐに分かったはずです。そして部分的にとは言え、証人が彼の共犯を務めたことがある、という事実も。
 その時点で、どうして犯罪捜査に切り替えなかったのです? トードーは聴取開始直後、担当官の取替えを要求するなど、普通はあまりしない恣意的な行為を幾つかしています。あなたはそれに情報隠匿の可能性を考えたりはしなかったのですか?」
 証人席の脇に設えられた関係者用の証言台で、ニカンダは大きな肩をすくめた。
「私よりも未熟な人間に変えろ、というなら疑いましたが、彼の要求は若手からベテランに変えろ、というものでしたから」
「自意識の高い犯罪者は時々そんな行動を取ることがありますよ」
「そんな傾向は性格調査で報告されていません」
聞いている方が悪寒を感じるくらい素っ気無い言い方だった。
 クワンは組んだ腕に顎を落とすようにしながら苦笑いする。俺にはあんな真似はとても出来ない。さすがに海千山千は違う。
 弁護士は一瞬怯んで調子を崩されそうになったが、二、三秒視線を動かしただけで、何とか持ち直すことが出来たから立派である。
「…では、あなたはトードー・カナンの人格と証言が信頼に足ると判断なさっているわけですね。午前中の証言をお聞きになった今でも、変わらず!」
「…実際に証言どおりだったかどうかなんて調べて見なければ分からないでしょう。しかし、精神判別機が彼の正答率について96%を保障したことは事実です」
 カーターの唇から思わず白い歯がこぼれた。
「精神判別機には古くから認識されている弱点が一つあります。ご存知ですよね?」
「勿論」
 この刑事に多くを喋らせてはいけないと悟ったのだろう。カーターは右手で彼の発言を止めるような仕草をしながら、急いでその例を言った。
「そうです。嘘をつくことに全く良心の呵責を感じない人間を相手にすると、判別機は妥当な結果を出すことが出来ない。
 すると、こういう可能性もあるわけです。確かにトードーは初期の判別において良好すぎるほどの良好な結果を出している。これは、彼が正直者であるという可能性と共に、マシンを軽く出し抜くほど巧妙な偽証者であるという可能性も、同時に示している。
 そうですね?」
 ハイかイイエで答えろと怒鳴られるのは目に見えている。ニカンダは唇を曲げて、まあこれくらいの妥協は止むを得ないだろうというような顔をした。そして言う。
「はい」
と。
 クロード・カーターは長い証明を終えた学生のような満足感を示してニカンダを証言台から下ろした。そして十五分後、議長は唐突なほどルールに忠実に沿い、一日目の終了を議場に告げる。




 閉会後、一時間もしないうちに議員は水が掃ける様にいなくなった。場所を移して密談なのか、ただ家に帰ったのかは知らないが、空になった議場には明日の準備をする係官だけがまばらに動き回っている。
 ニカンダとヘイ、カーター、それに人権保護官ウディーノは明日の打ち合わせ、ということで別室にこもっている。クワンは人のいない廊下を、靴先が沈み込むほど高級な絨毯の感触を楽しみながらぶらぶらと歩いていた。
 やはり緊張していたのか、全身に気だるさがあり、額の傷が時々ちくちくと神経を刺す。沈みきった心に絨毯のほの暗い赤さが何故か逆らわず、彼はまるでたった一人、夕暮れの校庭で遊んでいた頃のように、ぼんやりした意識のまま何度も何度も長い廊下を行き来した。
 喚問の様子が思い出される。トードーのぎょっとするような静かな目が思い出される。思えば何くれとなく気を遣ってくれたヘイの態度。額に汗を張り付かせて必死に戦うクロード・カーターの横顔…。
 …奇妙なことに、今は彼が憎くなかった。彼は一生懸命なのだ。真面目なのだ。そういう意識が泡のように湧いてきて、一緒に少し可哀相になった。彼はシャオユェほど、周りが見えていないことが分かっていたからである。
 どうしてなんだ。と思う。どうして力はいつも、人間の必死さを利用して平気なんだ。
 顔を上げると、目の前にシャオユェが立っていた。別段呆れた様子でもない。毎日大学で会っていた時のように、クワンは不思議に落ち着いた気持ちで話し掛けた。
「クロード君と結婚するの?」
「あれ、どこで聞いたの?」
「同じ指輪」
「ああ、そうか」
 下を向き、シャオユェも何だか気さくに笑った。
「彼は少し分かり易すぎるね」
「……はは」
「君が選んだなら家柄は申し分なしだろうけど、真面目に対峙するには少し感覚が繊細でないよ。それで構わないの」
「全然構わないよ」
「…がっかりだな」
 こういうところが、自分と彼女を遠ざけるところだ。と、クワンは思う。
 彼には彼女のその上昇志向が理解できない。自分の将来の為にと様々な苦しいことをさくさく切り捨てていける手際のよさが分からない。
 同様彼女には、クワンが野望を抱かずつまらないポストに安住出来てしまうことが不可解だ。自分に不利益が降りかかっても、ぎりぎりまで我慢するその忍耐の価値と出所が、さっぱり分からないのだ。
「…相変わらず、こういうところはお互いダメね、私たち」
 同じことを考えていたのだろう。シャオユェも珍しく優しい笑みを見せてそう言った。しかし言葉は温かくなり損ねて、賢い諦めの息を吐いた。
「だからしょうがないのよ。こういうことになるのは」
「シャオ……」
「ばいばい」
 クワンが顔を伏せている間に、彼女の足音が遠ざかっていった。絨毯の事だから、すぐにまた沈黙が戻ってくる。何か特別な事があったわけではない。今もそうだ。しかし残念なのは不思議だ。クワンは彼女と同じ感覚の中で生きることが出来ない事実を、残念に思っているのである。
 奥の扉が開いて、ニカンダとヘイが出てきた。二人とも妙な顔つきをしている。ところが開口一番ニカンダに
「何だか変な顔をしているな」
と言われたから他人事ではなかったのだろう。
「どうかしましたか?」
 答えないで問い返すと、ニカンダは眉間の皺を深くした。
「あのクロード坊がちょっと妙なことを言ってやがってな…」
「何です?」
 隣に並んだヘイがその質問に答える。
「生存者情報を最初に隠匿したのは法務庁だと」
「えっ?」
クワンは恐らく二人が驚いたのと同じ程度に驚いた。
「そんな馬鹿な。何の利益があってミカミ長官がそんな真似するんです」
「…俺も、そう思うんだが…」
 ヘイは言って、自信がなさそうにニカンダの顔をうかがった。老刑事はまだ釈然としない表情をしていたが、時間を気にしたのだろう、考えを進めるのを辞めて手を上げ、二人の部下に帰宅を命令した。








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