48.8時45分







 8時だ。
裏玄関のガラス戸を開き、清掃作業をしている5470に挨拶をしてエレベーターを呼ぶ。そのついでに文字盤の隣にある時計を見ると、そんな時間だった。
 上へ上がり、誰もいないだろうと思ってオフィスに入ったのに、食えないものだ。自然光のままのデスクに一人、サモラ・ニカンダの動じない姿があった。
「あれェ、また随分早いですね」
確か前にもこんなことがあった、と思いながらクワンは自分の机に鞄を下ろす。
「昼間は喚問で仕事どころじゃないが、メールやらは来るからな。お前はどうした」
「僕はええと、その…、片付けです」
 そう言うとニカンダはすぐ「ああ」と小さく漏らして納得した。
「辞令が来たか」
「はい。今朝一番で」
「良かったじゃないか。ずっとここで腐っているのも時間の無駄だ」
「…そうですね」
 どれだけ電子化しても片付かない机は片付かないもので、一月半の間にたまった紙やら資料やら持ち込んだ私物やらでほとんどの引き出しが埋まっている。それを朝のうち、つまり誰もいないうちに一人で掃除してスマートに引き上げようと思っていたのだが。
 そうは簡単にはいかないらしい。ニカンダの台詞に笑って頷いても、いささか残念してしまうのと同じだ。
「…どうも色々お世話になりました」
年の功か性格か、ニカンダの方はからりとしたものだ。
「まあまたそのうち会うさ。こういう面倒な事件に関わったってキャリアが出来ると、別のも回ってくるからな。次に何か起きた時は覚悟した方がいいぞ」
「そうなんですか? 知らない間にそういうのの専門にされても困りますねえ」
 苦笑しつつ部屋の隅に行ってハードケースを取ってくる。机の上に二つ並べて、さて整理だと引き出しを明けた時、ニカンダが言った。
「トードーを連れ出したそうだな」
 どことなく、十秒前と違う声色だった。明らかに油断した相手を突き放し、距離を作る意図があった。
 クワンは無意識のうちに背筋を伸ばし、端末から目を離さない老刑事を、――――瞬間まるで敵を見るように、見る。
「面白かったですよ」
 ヤナが悪い印象を抱くような話をしていることはないと思うが…。相手の出方を推し量りながら、クワンは注意深く答えた。
「トードーがえびのサンドイッチに感激したりしまし…」
「人間的な深入りをするのは、待った方がいい」
「………」
 顔だけが歪んで、二の句がうまく継げなかった。大人にふいに咎められて、頭が真っ白になった子供のようだ。彼が立ち直るよりも先にニカンダは理由を告げる。いつもより暗い声だった。
「我々はまだ、ミカミ長官がどうして情報を隠していたのか、その理由を知らない」
 ようやく、クワンの唇に皮肉の笑みが浮かんだ。
「あんな坊やの言うことを間に受けるんですか」
「あんな坊やの言うことだからだ。あれはお前の明瞭な月(シャオユェ)とは違う」
「手の込んだ嘘はつけませんか。二度目のリークの張本人でありながら、その捜査の指示をするあなたのように」
 8時半だ。
クワンはちょうどニカンダの左上にある、壁の時計を目の端で捕らえてそう思った。
オフィスは静まり返っていた。
他に誰もいなくて良かった。
 言わないで過ごそうと思っていた。
一度目のリークは未だ知らない。
しかし「要点を押さえ」ていたとシャオの指摘する二度目のリークは、ニカンダがヘイに命じてやらせたことだと。
 長い沈黙を破り、くしゃん、と犬が鼻を鳴らすような音がした。は、としたクワンが右足に体重を移す。
 ニカンダが白い歯並びを見せて、―――――笑っていた。そんなものを見たら難しい顔を維持するのに苦労する。
 笑ったよ!! このおっさん笑ったよ! 一旦思ってしまうともう横隔膜が震え出す。とうとうクワンの顔にもにやにやが侵入して、理性がそれと戦うものだから鬼が奥歯を食いしばるような、すごい形相になった。
 内では笑いたいような泣きたいような気持ちだった。だがもうどうでもいいとクワンは思う。
 そもそも何も言わずに去るつもりだった。だがもし言わなくてはならない時が来たら、あれを言おう、これを言おうと考えていた格好のいい説教やら意見やら、力と一緒にすうっと流れていってしまった。
 ならどうでもいいということだろう。自分には大事じゃないということだろう。ニンブスの事故が闇に葬られ、次の事故が起こるまで5470が使い続けられる方がいいなどとは思わない。
 8時45分。もうあまり時間も無い。
唯一つ、最後に残った疑問だけを口にするので、自分には精一杯だ。
「あなたはどうして刑事になったんです?」
「………」
 ニカンダの目の端にきれいな皺が寄っていた。二三度肩をゆすってまだ続く笑いの痙攣を振り落とした後、やっとのことで老刑事は答えた。
「自分の生きているシステムを信頼できず、もうそこに乗っていたくないと思った時、ヒトはどうしたらいい?」
 その問いに、クワンの目が心もち開かれる。それは少年の頃彼が直面した問いと、且つまたヌクテやトードーが抱いた問いと、同じ種の一つであったから。
「納得して耐え続けるか? システムから降りてそこから去るか? 新しいシステムを構築するか?
…俺には最後の才能が足りなかった」
 ニカンダは微笑しながら言った。
だから自分に出来る事をするために、今ここにいる。








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