49.その日が来る







 奇妙なことが起きたのは、2312年の新年祭の時だった。つまり十二月三十一日の夜から、翌一日の早朝にかけてのことである。
 僕は例によって一人で部屋にいた。住んでいる建物のすぐ前が大きな通りだったが、そこではパレードが行われて賑やかだった。
 そのおかげで僕は寝付く事が出来ず、深夜まで古い文章を読んでいた。それに飽きたのは確か1時ごろだったと思う。端末を立ち上げてメールチェックをした。
 ゲオルギウスからメールが来ていた。
節目に挨拶があるのは毎度の事だから特に気にもせず、偶然暇だったために中身を確認すると、そこには変なことが書いてあった。


 環境が整えば、生物は進化を遂げる。


 僕はあれを思い出すたびいつも、後悔とか憤激とか、自分の感情を抜きにして単純に疑問に思う。


 ヒトは、このニンブスにおいてついに進化の兆しを見せた。これは、


 ニンブスが環境として進化に最適であったということであり、またニンブスの住民たちが人間として高度であるからである。と言われて、彼らは嬉しかったのだろうか。


 カテドラルは既にある一人の少女において、その兆しを確認している。
それは背中に芽生えた、美しい羽根である。



 あなた達は人類の中で最も進化に近いところにいると言われて、信じたのだろうか。


 人間は、天使に進化を遂げる。
素直な精神を持ち、美しい容貌を持ち、情感に長け、愛情に溢れ、懼れることなく他者に向かい、社会の中で幸福を産む、天使になるのである。



 それとも、半信半疑だったのだろうか。少しくらいは疑ったのだろうか。


 勿論この進化は何十年もかけて行われるだろう。いや、既に何千年もの間行われてきたのである。ゆっくりと、新生児のような歩みで、人類は天使を目指して進んできたのであり、その一つの結論が今、このエア・シティにおいて示されているのである。


 それでも最後には信じたのだろうか。自分達が、生物として、ヒトとして最先端であるということを。そしてまた恐れたのだろうか。取り残される旧人類の最後の一人になるということを。


 私は幸福で胸を満たしながら未来を予想する。
ニンブスは天使で溢れる人類最初の街になる。
あなた方は誇り高い街に住んでいる美しい人々である。
 新年おめでとう!
私はあなた達全ての住民と、これから生まれてくる天使達と、この類稀なニンブス・シティを祝福する。



 僕はそれに沿うことが出来なかった。
なぜなら、文章が進化した人間として指し示している「少女」エテルが、そんな人間でないことを知っていたからだ。
 彼女に羽根があることは確かに事実だ。僕も見た。しかし彼女はそれを嫌がっていた。かゆいのだといっては、しばしば手を伸ばしてはかきむしり、こんなものは嫌いだといって乱暴に背中から引き抜いていた。
 それに、彼女を知れば知るだけ進化した人間とはとても思われない。猥雑で浅はかで短絡でねばっこく、僕や他の人間たちと全然変わらない。
 何か妙なことが起きている。ようやくのこと僕はそれに気付いた。「ようやく」と言うのは、既に薄々勘付いていた人間もいたからだ。他でもない、ヌクテ・ロイスダールである。
 二日後、彼の部屋を訪ねてみると、運良く彼に会うことが出来た。彼はここのところ休日もカテドラルに入り浸りで、少しも部屋にいなかった。会うのは三週間ぶり。また髪の毛が伸びていた。
 ―――――カテドラルに、何があるというのだろうか。僕の周りの人間たちはみな、あそこへ行って変わってしまった。
 その頃にはもう、彼にはスコラの庭を風を切って歩いていた頃の面影など無かった。少し癖のある黒髪は下瞼まで伸びて、それが途切れるところからは無精ひげが始まり、目だけは相変わらずぎらぎらして人を刺すようだったが、迷っているような潤いが消え失せていた。
 一段とひどくなったと思ったが、僕には何も言えなかった。彼はいつからかたった独りになっていたのである。彼の目を見れば彼が扉を閉めて、僕以上に内に閉じこもってしまったのが知れた。
 それを僕にはどうにも出来なかった。ただ僕は彼に昨日のメールを見たか、と尋ねる。彼は見た、と言った。
 大笑いだ。
彼は病を感じさせる痩せた胸板で本当に笑い始めた。
 ゲオルギウスは狂っている。
あのメールは記録されるから、次の定期メンテが見物だよ。まあその前に誰か人間が、ゲオルギウスを取り替えろと騒ぎ出すかもしれないけどな。
 彼はもう、エテルの背中にどうして羽根が生えているのか知っている様子だった。それにゲオルギウスの行動についても、特段に驚いたという感じではなかった。
 日ごとカテドラルのデータを洗っていた彼にとって、そんなアクションは完全に予想の範囲内だったのだ。
だから、
「本当にやりやがった」
彼の感想はそういう類のものだった。
 ゲオルギウスは彼の予想を裏切らなかった。裏切ったのは、人間である。
 ゲオルギウスの進化宣言は、勿論騒ぎになった。というよりも、あれはニンブスが初めて直面した重大事だったのだ。ローカル・ヴィジョンはそれについての番組を何回も放映し、ネットでは多量の意見が吐かれた。
 しかし、議論はゲオルギウスを疑う方向へは動かなかった。気になったので幾つかの番組を見た僕は、そこで交わされているロゴスのあまりに貧弱なことに愕然とした。
 そこらの市民が議論をしていたわけではない。それなりに尊敬される地位を持つ知識人、ジャーナリスト、教育指導者などの人間たちだった。僕は珍しいことに、端末の前で悪態をついた。
何ヲヤッテルンダコイツラハ?
 彼らは何かに遠慮していた。ゲオルギウスの進化宣言について、突っ込もうと思えばいくらでも突っ込めるくせに、何かに遠慮してその一線を超えようとしなかった。
 僕はそこにカテドラルの権力など感じなかった。彼らが怖がっていたのは断じて5470などではない。人間が恐れるのはいつも人間である。そしてそれに打ち克つ勇気は、ニンブスのどこを探しても見つからない海のようなものだった。
 ではこの人間たちは一体何のために辛苦して学問を積んで来たのだろう。僕は「心を落ち着けてカテドラルの指示に従うことが…」と話す四十台の教授を見るや最後には悲しくなった。彼の頭の中に石のように積み重ねられた重い知識は何の役にも立たない。
 同様スコラで学問に従事する立場の人間として虚しさと敗北感を味わいながら、僕はヴィジョンのスイッチを切った。
 中身が無かったのだから当然だ。から騒ぎは一月もするとなりを潜めてしまった。そしてニンブスは何事も無かったかのように静かになった。
 人々は正月気分と一緒に一連の騒ぎを忘れ、同時にゲオルギウスの宣言は、新しい税制の施行のように、知らない間に既成事実として定着してしまったように思われた。
 僕は再び無関心に返りつつあった。今まで通り、エテルと時々遊んだりしながら、正直社会と関わることに懲り懲りしていた。
 ヌクテは、意外なことに少し住民たちに同情的だった。
「知らなければ人間は、信じられないくらいのん気にしているものなんだよ」
その日はきちんとひげが反られていて、懐かしい彼の印象に立ち戻っていた。
「あの故郷の村を撮影しに帰ってきた男のように」
 無知を責めることは酷だ。そう言っていた彼が、顔色を変える日は来た。
 二月に入って、ローカル・ヴィジョンが奇妙なニュースを伝え始めた。一部の住民の背中に、「羽根が生え始めた」というのだ。
 最初は囁きほどの量だった。それがあれよあれよと膨らんで耳を覆わんほどの雑音になった。
 僕は今度こそ唖然としていた。一体何が置き始たのかさっぱり分からなかった。
 そんな馬鹿な。大体、エテルの羽根は生まれた時からついていたはずだ。ゲオルギウスの宣言は進化の話であって、成人の背中に羽根が生えるのは、それとは明らかに違う。
 それは明確な間違いだった。少し知識があれば誰にだって分かることだった。
 それなのに、ニンブスでは逆のことが起きた。人々は流れに逆らうことをしなかった。それどころか、彼らは一人また一人と自ら外皮を変化させることによって、その流れに遅れまいとしたのである。



 僕は唖然とする日々の中で初めて「大衆」という言葉を意識した。近代の文章に吐き棄てるような軽蔑と共に多量に使われている語彙だ。僕はそれまでその現実を分かっていなかった。
 人は大勢集まると、各個の性格や立場とは関わりなく、不気味にうねる全く別の生物になる。人間の足し算は単純な数の問題ではないのだ。
 千人+千人のアウトプットがマイナス百になる現象は誰にも説明できない。一万人の人間が互いに牽制し合って二十万の殺戮を黙認した時、その責任の在り処を明らかにすることは不可能だ。
 未だに思う。
どうしてだ? ――――――どうしてなんだ?
 歴史に例示の暇はない。人間が進化の途上にあるというのなら、その辺りがもう少し追求されても良さそうなものだ。
 ある日ヌクテがやって来て、全く同様な心情を吐露した。僕らは相変わらず仲間であった―――――だがある一点において、僕と彼とは決定的に違う。
彼は実行者だ。
 君に迷惑がかかるかもしれないが、いいか?
と彼が言う。僕は好きなようにするといいよ、と答えた。僕は能動的に行動する彼が好きだったのだ。
 ヌクテはなんとも形容し難い笑みを浮かべると、僕の首の後ろへ左手を回した。そしてまるで小さな子供のように僕の胸に額をつけると、小さな声で「ありがとう」と言った。
 その時外には「天使」が溢れていた。既に、孵化を伝える最初のニュースが流れてから三ヶ月が経とうとしていた。5470は彼らを「天使」と呼び、その下に名前をつけて「天使○○」というような呼び方をしていた。
 とはいえ、ゲオルギウスもこの事態には驚いているはずだ。とヌクテは言っていた。今は毎日メインシステムで膨大なデータを洗い、長い長い思考モードに入っている。それ自体が迷いの証明だ。
 だから、簡単なんだ。
ヌクテは笑った。
彼に、俺が何もかも知ってるってことを伝えるのは。



 そして、その日は来た。







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