[ 14 ] 過去と未来(上)
日曜日。 シテは始めての『大革命』の挑戦を受けていた。 だが、ちゃんと情報を集めて準備をしてきたクラブの攻撃とは言えなかった。内紛の噂が流れた『カテドラル』を侮って、面白半分に死にに来た連中だ。 残り半分ででひょうたんから駒を期待していたのかもしれない。が、それほど甘くはない。 騎士隊長の未来は城の守備責任者でもある。かたつむりの貝のように重層化している巨大な城の二階バルコニーに立ち、玄関口で殲滅されつつある連中を眼下に眺めていた。 「――なんでしょう、あれは?」 傍の騎士が別方向を見て、言う。 「なんだ?」 「いえ…。おかしな連中が城門脇に数人…。闇に紛れて、何やらやっています」 未来は大きな体を乗り出して、部下の示す方を伺った。 「――新聞屋でしょうか…?」 『んー…? どこにも、強さの違いなんか、なさそうだけどー?』 『そうですか…。違うのかな…』 『本当に城壁に穴なんか、開くのー?』 『…難しい質問です、楼蘭君。この設定があるかないかと言う以前に、解読が合ってるのかどうか自体が不確かですから。 大きな城です。もしどこかに秘密の横穴が開いて、順路をショートカット出来るなら、こんなに素敵なことはないんですが…。 …フースケ君、そっちはどうです?』 『誰だよ、掘に開いた排水口から中に入れるなんて言った奴…』 『そっちも空振りですか。うーん…』 腰まで水に漬かって土管の周りを調べてみたフースケだが、服が濡れて移動速度が落ちただけだ。 彼らは戦争のどさくさに紛れて侵入し、段原のノートに書かれた内容が本当かどうか確かめていたのだが、どうも両方スカらしい…。 それほど甘くはないようだ。そうこうするうちに、城内からの剣戟の音が聞こえなくなってきた。 「やべ、引き上げだ」 慌てて掘から這い上がったその地面から、大きな二つの影柱がにゅうっと生えていた。 それはやがて一つに合わさって太い胴となる。ちょうど雲が行って月がのぞくと同時、その巨大な人影の頭上で、ぶぅん! と空気が鳴った。 「!!」 ――ずん! と、一瞬前までいた大地に大斧が突き刺さる。 飛んで逃げたフースケは砂地に着地した。濡れ手で砂。砂だらけだ。 身の丈ほどもある武器を、当たり前のように肩の上へ担ぎ上げたのは、未来だった。反り返った斧の刃が月光を食らって、ヒヤリと笑う。 フルメタルに青いマントという出で立ちは、もはや彼のトレードマークだ。 『…南州に降ったというのは本当らしいな、恒介…。早速新しい主人に言われて、城の偵察か?』 殺気を漲らせた声で囁く。フースケは尻ごみをして、愛想笑いを浮かべた。 『い、いやあ。南州の城主、なかなかグラマーなんだ。ちょっと幻惑されちゃって』 『――俺はな、恒介』 じり、と靴が軋む。怖い。 『は、はい』 『お前が抜けた時も、【エリカ】の脱走に関わったと聞いた時も、お前のことを庇ったぜ。何か事情があったんだろうと思ったからだ。 ――なのにお前は、そんな俺のメンツを潰した。もう、冗談の言い合える関係じゃない』 『はは…、俺はまだまだ言いたいなあ』 『ふざけるな。俺にまで裏切り者になれと言うのか。俺は絶対に、誠を見捨てない』 『…それは、知ってるけど…』 「――未来! 一体何をしているのです!」 ふいに空から叱責が降った。二人が同時に振り仰ぐと、壁の上に、黒髪の天使の立ち姿。 「ぐずぐずせずに討ち取りなさい! その男は、陛下の信任を裏切った最低の謀反人だ! もはやあなたの仲間ではない!」 未来は腹を立てて怒鳴り返す。 「うるせえな! 言われなくても分かってる! 前にも言ったぞ、戦争は俺の仕事だ。てめえはすっこんでろ!」 アルカンは眉をひそめ、壁の上で少し体を斜めにした。 その隙にフースケは応援を頼む。と、城近くに待機していた『ふくろう党』のメンバー達が、騎馬ですぐ突っ込んできた。 「…くっ!」 彼らに未来を相手にする気はさらさらない。『暗殺者』職の者が死ぬほど爆弾を投げ、辺りを煙だらけにした挙句、フースケの首根っこをつかんで脱出した。 まさにふくろうの来襲だ。それでも混乱が終わった時には斧が濡れ、遺体が二つ残る。 未来はそのひとつに片足を乗せると、「――クソッ」と悪態をついた。 戦争時間終了後、未来はマクシムに、戦争を含めた一部始終を報告した。 最後にフースケを取り逃がしたことを話し、横に立っているアルカンを顎で示す。 「そいつが邪魔するんで取り逃した」 「何を言ってるんです。僕が声を掛けるまで、裏切り者と囁きで会話していたくせに」 未来は怒りを込めてアルカンを睨みつける。 「それがどうした。俺が誠を裏切るとでも言うのか?」 「……」 「馬鹿馬鹿しい…。――俺達には相応の過去がある。お前とは違うんだ。誠は疑わない。誠は俺が絶対に裏切ったりしないことを、よく分かっているはずだ」 「勿論だ」 誠は言って、アルカンを黙らせた。未来はよい気味だというように、口の端を曲げる。 「それで未来、連中は城周りで何をしていたんだ?」 「さあな。隠された通路でも探してたんじゃないか。一戦交える気は、初めからなかった様子だ」 「…城を探りに来たということは、向こうの目標は、『大革命』ということだな」 「大胆だ」 未来は顎をそらした。 「出来ると思ってんのかね…」 「今週は無事終了したが、来週も気をつけてくれ。それと、君がいないと騎士達の士気が下がる。くれぐれも、風邪など引かないように…」 「その言葉、そっくりお前に返しとくぜ」 未来は嬉しそうに笑い、部下達に解散を告げるために去っていった。 「…彼の言う『相応の過去』とは、何のことです?」 椅子から立ち上がり、窓辺に立ったマクシムに、不満の色を滲ませたアルカンが尋ねる。 「そんなものが、本当にあるのですか?」 「――ああ、だろうな」 「どんなことですの。興味がありますわ」 アンリエットも、何でも知りたいといった様子で傍らから口を添える。 窓際に立つと、外が暗いので光線は半分以上跳ね返って鏡のようになった。マクシムはそこに映る自分の水色の瞳孔を見つめながら言う。 「網膜剥離だよ」 「未来を味方に…? それは無理じゃね? 俺もちょっと話してみたけど、かなり怒ってるみたいだし」 ほうほうの態で逃げ帰ったフースケは俗に『寝間着』と呼ばれる真っ白い長衣を着てアラブの人みたいになっていた。本来の装備品は外で、風に吹かれている。 「それにあいつ誠に恩があるからなあ。よっぽどのことがない限り、あいつの元は離れないだろ」 いまいち諦めきれない様子で自分を見つめるキングとフェリックスの視線に、フースケは頭の後ろをわしわしと掻いて、しょうがなく、言う。 「――あいつさあ、片目がほとんど見えないんだよね。それで時々操作ミスすんだけど。 子どもの頃から柔道やっててね、そりゃもう恐ろしく強かったのよ。小五くらいの時にはもう中学生並の体格で、あっちこっちのジュニア大会に出ちゃカップと賞状さらってた。 俺たちも、完全にあいつは柔道で生きていくんだろうと思ってた。少なくとも大学くらいまではね。 ――それが中一の時、事故に遭っちゃって。 公式戦じゃなかったんだって、練習だか、練習試合だかの最中だったらしいけど、とにかく相手が振り回した腕が顔面を直撃して、衝撃で両目の網膜が剥がれちゃったんだね。 よくボクサーなんかがなるでしょ。あれと一緒で、すぐ手術受けたんだけど、右目の方だけ、うまく回復しなかった。 それでなくても網膜剥離ってクセになるから、失明を防ぐためにもう危険なスポーツは止めた方がいいってことになって…。 ――いきなりだよね、だから。あいつにしたら。 いきなり今まで生きてた世界から追放されて、普通の世界で生きて行くことになっちゃったんだ。 それが、中一の時」 ――おやじもおふくろも、もうちょっと考えればよかったんだ。 柔道さえ出来れば何でもいいなんて、学校も休まして試合に行って、挫折した時のことを何も考えてなかった。 なにより、残ったこの、大きな体。非日常では武器だったそれが、今度はひどいコンプレックスになった。 おやじもおふくろも、それについては知らない振りをして同じように弟を育ててる。 けど、もうちょっと真面目に考えた方がいい。混み合う中央線、おしゃれな雑誌の写真、小さな小さな犬。格闘用の大きな体をした無骨な男なんか、今の世の中、お呼びじゃない。 「…大きな体をもてあまして、完全に途方に暮れてたよ。 彼はそれまで拳に頼って生きていたし、『強い人間』として通っていたから、誰にも助けを求められなかった。 周りの人間も落ち込む彼に戸惑うばかりで、何を言っていいのか分からなかった。彼の母親はとんちんかんな励ましを言って彼をさらにヘコませ、彼の父親は、すーっと遠ざかって弟に目をかけるようになった。 そんなどん底な状態を救ったのが、誠だよ。 言ったんだ。そんなに落ち込む必要はない。だって『僕達は、君がそんなに強くなる前から、友達だったじゃないか』」 それは君の中に、本当の強さがあったからだよ。 その輝きが僕らを惹きつけたんだ。 君は決して力だけ、体だけの、人間じゃない。 「…俺だって、一言一句覚えてるからなあ。当人だったら死ぬまで忘れないんじゃない…」 キングとフェリックスは顔を見合わせ、黙るしかなかった。フースケは困ったような笑みを浮かべ、おもむろに尋ねる。 「あのー。ところで、楼蘭は?」 「――えっ?」 ペアを組んでいたはずのフェリックスが、飛び上がって辺りを見回した。 「あ、あれ? 途中までは確かに…」 「おーい」 ――その頃、シテの街中では、 『…何してるんだ、お前は…』 食べ物の露店が並ぶにぎやかな界隈で、未来が呆れ返っていた。 飴屋の露店の前で振り向いた楼蘭の片頬は、飴玉の形にぷっくりと膨れている。 「じゃあ…、それからずっと、未来さんはあなたと一緒に…」 「情に厚い男だからね。体育会系で」 「…そう。 今のお話を聞いて、あの『大革命』の時、未来さんがやってのけた決死の突撃がやっと理解できたわ。彼は、あなたの役に立ちたかったのね…。 でも、素敵。…未来さんはきっと最後まで、あなたの味方ね」 「そう、願うね」 「…えっ?」 マクシムはちら、と首を動かし、アンリエットを見た。あまり感情のない顔だったが、特殊記号を使って、囁きに切り変えた。 『永遠不変の情なんて、見たこともない。両親も別れたし、フースケは裏切った』 間合いからアルカンは二人の会話を察したようだ。疑るような目で、彼等を見つめる。 それに気付いたマクシムは体を反転させると、彼に言った。 「未来も含め、城内に謀反の動きがないかどうか、引き続きよく監視するように」 「――心得ております。…そろそろ時間ですので、私は先に失礼致します」 一礼しアルカンが去ると、アンリエットは疑問を吐き出した。咳き込むような口調になった。 「…マクシム。それじゃ、あなたは…。他人のことは、何もお信じにならないと仰るの…?」 「――そうなりますか? いや…、そんなことはないですよ…」 「では――何を…」 胸が詰まって、短くしか話せなかった。何も知らない横顔で、マクシムは呟く。 「我欲、かな」 整った口元で、うっすらと笑った。 「信じていいのはそれくらいでしょう」 奇をてらったり、格好をつけているような様子は微塵もなかった。 その少し後、アンリエットは一人で広いバルコニーに出た。明かりのついていない部屋の前の方まで歩いて来ると、角に立って、冷えた石の欄干に手を置いた。 瞬く星を見つめていたら、クリスマスのイルミネーションを思い出した。 涙がこぼれた。 案の定、シテの飴屋の前で楼蘭を見つける。彼女はせっかくだからと水菓子ばかりの南州でも不自由しないよう、多量の飴玉を購入していたのだ。 驚いたのは近くの壁際に未来がいたことだ。勿論彼はそっぽを向いて無関係に見えるようにしていたが、どっちにしても彼は騎士で、楼蘭はお尋ね者である。 『未来…』 『このバカ女をはやく南州へ連れて帰れ』 『――…なんで…』 フースケは自分の存在も含めて尋ねる。未来は顔をしかめ、肩をそびやかした。 『戦時中でもあるまいに、女一人、いじめたところで何になる…。 お前もさっさと消えろ。拘束なんかされようものならあの大天使、間違いなく例の剣でお前らの首をちょん切るぞ』 フースケは楼蘭の腕を取り、未来には背中を見せたまま言った。 『…やっぱりお前とは、争いたくないな』 未来は応えなかった。振り返ることなく、彼らとは反対方向へ歩いていった。 * 翌十一日の月曜日は国民の祝日だった。リアルの話である。 昼過ぎ、スカスカに空いた中央線の電車から、一人の高校生が武蔵小金井駅に降り立つ。 短距離走の選手のように痩せて、肩の張った、ユニセクシャルな雰囲気の少年だった。帽子の下にのぞく顔も小型で、余計な肉がないので切れ長の目がひどくくっきりと見える。 少年は改札を出たところにある地図表示を見て見当を得た後、歩き出した。 既に情報は持っていた。マクシムの話、未来の話、そして彼にはもう一人、関係を公にしていない有力な情報提供者がある――。 番地を確かめながら商店街を南下し、迷うこともなく角を曲がって東へと進んでいった。 目当てはすぐ見つかった。古い小さなビルの二階から突き出た縦書きの看板。そして一階の地味な扉には、横書きのネームが貼ってある。 『小郡総合調査室』 休みなのだろう。灯りは落ちたままで、窓にはブラインドが下りていた。 通りの反対側から首を伸ばしていると、そこに酒屋の軽トラックがやってきて止まった。少年は携帯を取り出し、コンビニ前でメールを打っているように装う。 若い男が運転席から降りると、ビール瓶の入ったプラスチックの籠を抱え、事務所脇の壁に埋まったインターフォンを押した。 かなりしてから扉が開き、小汚い印象の男が出てきた。これには酒屋もびっくりしてわっ、と言う。 「恒ちゃんが出るかと思った…」 「どっか出かけてて…」 「あそう。お勘定いい?」 「うん…。いくら…?」 「…どしたの。なんか具合悪そうじゃない」 「胃が…、痛くてね…。朝から…」 「なに、また虫の報せってやつ? 奥さん亡くなった時もあったそーじゃない。気をつけなよ。つーか、へへ。どうせ二日酔いなんじゃないの?」 「じゃ、ちょうど…」 「あいよっ! 毎度ね! おだいじに!」 扉が閉まった。トラックはすぐにエンジンをかけて走っていく。 少年は、携帯を顎に当てて逡巡した。カバンから地図を取り出そうとした時、また同じ扉が開く。 「!」 男がよれたジャンパーを引っ掛けて現れると、扉に鍵をかけ、歩き出した。 帽子の下で少年の目が光った。すっとコンビニの前を離れると、男の背中を見失わないよう、追う。 男はどこへ行こうというのか、線路と平行して伸びる道路を、東へ向かって歩いていく。やがて男と少年の行く手に、自殺がよく起きる路線として悪名高い中央線の、踏み切りが現れた。 駅から遠いせいか、降りた遮断機の周りにはあまり人影がない。線路を挟んで反対側に、二、三人待っているだけだ。 けたたましい警告音がし、赤いランプが点滅する。少年は異様な気配を漲らせて、悪い影のように男の後ろに立った。 男はちっとも気付かない。家内の猫のように隙だらけで、若い目に不快に映るほど油断しきっていた。 やがて大きな鉄の車体が、線路を爆走してくる。特急の車両だ。風圧が少年の喉もとを押す。目が悪意に染まる。 重い車体がゴウッと音を立てて通過したその瞬間きゃーという悲鳴がした。 遮断機が上がる。人が動き出す。母親の自転車の前籠に乗った小さな男の子がでんしゃ、でんしゃと無邪気に喜びながら、少年の脇を運ばれていった。 少年も歩く。向こうから歩いてくる人々とすれ違いながら、尚も男の背中を追う。 ――男自体に、恨みはない。だがヤニの匂いを漂わせ、無精で不潔で、だらしない昼間をだらだらと生きている男の自堕落な様子は、憎い坊主の袈裟に似た。 ところが、苛立つ少年が踏み切りを渡り終えた時、おかしなことが起きた。 ふいに前を歩いていた男が、ぴたりと立ち止まったのである。 少年はどきっとした。気付かれたか。――…演技だったのか。 ところが、男はヨロヨロと傍の建物の壁に頼るや、そこで上体を折り曲げ、激しく苦悶し始めたのである。 「イツ…! イテテテ…!」 その両手は服の上から腹部をきつく押さえていた。 「うあーっ。痛い…!!」 男が体を返した弾みに、目が合った。唖然とする少年の背で、遮断機が再び鳴り始める。 *
びっくりなんてもんじゃなかった。 その日、俺はアポなしで大森家に突撃していた。昨夜久しぶりに話して、やっぱり未来とは争いたくないと思ったからだ。 どうよ味方になってくれない。お前が戻って来るなら口を利いてやる――。話がやっと本題に入った頃、図ったようなタイミングで携帯が鳴った。 救急病院からだった。 事情を聞いた未来の親父さんがすぐ車を出して、動転した俺を運んでくれた。 なんつーか、俺も大抵の事は笑えるタイプだと思うんだけど、さすがに道すがら悪いことばかりが頭をめぐる。お袋は悪性の癌だった。 青ざめた俺と、未来と、未来の親父さんとで病院になだれ込んでみたら、当直の医者は笑って、 「虫垂炎です」 「……」 コケたよ。そういや、昨夜くらいからなにかうじうじして、変に不機嫌だったっけ…。 親父は大人のくせに病院が大嫌いだ。俺に言ったら医者に行けと言われるのが分かってたから、黙っていたに違いない。 「痛み止めを飲んで我慢していたらしいんですが…」 先生も呆れたらしく半笑いだ。 「それで救急車で運ばれるんじゃねえ…」 ごもっとも。 公道で限界を迎えて、通りすがりの人を仰天させるわ、一一九番してもらうわ、息子を驚かすわ…。 バカ親父め…! 傍迷惑にも、程がある! 「終わるまで着いててやるんだぞ。お前が辛かった時には、恒ちゃんも助けてくれたんだからな。借りっぱなしは男の恥だ」 未来の父親はそう言って、一旦家へ戻っていった。手術はもう始まっていて、終わるまで二時間弱。ただひたすらに待っているより仕方ない。 未来は、プラスチックの植物で囲まれたオープンスペースに戻った。奥には自販機があり、テーブルについた恒介が缶コーヒーを手に、ぼけっとしている。 「…大丈夫か?」 置かれた缶に従って彼の対面に座ると、彼はへらっと笑って見せた。 「ああ、へーきだよ、こういうのは慣れてるし。 つか悪いね。折角の休みムチャクチャにしちゃって」 「いや…」 「でも盲腸くらいでよかった、何が起きたかと思ったよ。…そういや救急車呼んでくれた人、結局誰だったんだろなあ」 居合わせたその人は救急車を呼んでくれただけでなく、病院まで一緒に来てくれたらしい。だが大事無いことが分かると、三人が来る前にさっと立ち去ってしまったようだ。 「『かわいー女の子だった』とかって、あのクソ親父、狙って倒れたんじゃねえだろな。でも小郡って名前知ってたらしいから、前の同級生とかかもな」 「ああ。そうだな…」 恒介はらしくもなく、何か一人で喋っている感じだったが、やがて減速した。髪を触りながら、 「いや、しかし、まあ…、…びっくりしたわー。病院から電話が来るなんて、お袋の時以来だし、実際心臓に悪いやねえ…」 背を反らして、疲れたように苦笑する。血の気の薄い表情の下に、未来もよく知る過去が、多段に積み重なっていた。 未来は口ごもった。的を得た、気のきいた励ましの文句が喉から手が出るほど欲しかったが、彼にはそういう才能がない。そういう才能のある奴は今、――遠くにいる。 沈黙が流れた。休日だから使われていない区画には電気もろくに灯っていない。病院中がシーンとして、時々誰かの足音が、遠くから響いてくるくらいだ。 人気のない、清潔だが孤独な空間の中に、未来と恒介は共になんとも言えない疲労を抱えて、座っているのだった。 いつの間に、こんなことになってしまったんだろう。 ずっと控えてきた感傷が、思わず未来の胸で弾けた。 誠は小金井を出るし、萎縮した太朗とはろくに会話もしなくなってしまった。愛に会っても気まずい。恒介とも敵同士で、学校で会っても一緒に昼飯すら食えない…。 風景がいつか変わっていくことはしようのないことだとしても、自分はそこから小さな花の一株すら、取り出すことができないのだろうか。 「――先の、【キング】の裁判の時、処刑に反対したクラブの代表者が、三人いてな…」 「……」 いきなりな導入だった。恒介はちょっとぽかんとしたが、すぐいつものことだったと思い出して、「ああ」と調子を合わせる。 「彼らは穏健派というか…、キングは前国王だった【パトリス】を殺したわけではないのだから、助命してやってもいいじゃないかと言ったんだ」 「なるほど」 「裁判後、その三つのクラブは、あからさまに遠ざけられた。周縁の地域に飛ばされて、未だに冷遇されている…。 やってるのはアルカンだ。だが、誠の承認なしでは、出来ないことだ。 みんな知ってる。彼等がそんな扱いを受けるのは、王の暗黙の意志に反したからだと」 「……」 「――さっきの話の続きだが…、俺だって、全く疑問がないわけじゃねえんだよ、恒介。 今の誠のやり方が、最高で唯一無二だとも、完全無欠だとも思っていない。誠の統治と、キングの統治、どちらが本当に優れているのかは正直、分からん。 現場で色々な話を聞くと、ひょっとしたらキングの方が柔軟で、パトリスには近かったかもしれないと思うこともある。太朗の件も、未だに納得し切れてないしな。 …だから、お前の言うことも分かるんだ。 だが俺は誠に、大きな借りがある。…あいつを裏切ることは出来ない。そこのところを、分かってくれ」 「…あー」 恒介は、父親そっくりの目を山型にして、情けなさそうに微笑んだ。 「分かった…。もう誘うようなことは言わないよ。悪かったな。お前の気持ちも考えずに」 「いや、俺こそこんな時にすまん…。…ただ俺もどっかで、本音を分かってもらいたかったんだ」 「うん。ありがとう。すごく納得した」 「……」 未来は、やっと安心したように、缶コーヒーの封を切った。恒介は相変わらずぐんなりと俯いて、額に手を当てていたが、その口元は微笑んでいた。 次第に打ち解けて、以前のように会話を始めた彼らは、待合室の向かい側にある窓際に一人の少年が立っていることには、最後まで全く気付かなかった。 二時間後。小郡父の手術は予定通り、さしたる問題もなく無事に終わった。 -つづく-
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