<< novels
千年孤独
= 3 =
一挙に噂の的となった淑女ソフィリアだが、彼女は男性も駄目なら騒がしい場所も苦手と見えた。 叔父の側にいるとひっきりなしに人が訪れてくると悟った彼女は、早々に目立たないドアからバルコニーへと避難する。 彼女はそれを偶然目にした一人の男が、自分の後を追って同じ場所へやってくるなどとは思っていなかったらしい。ドアが開いた微かな音に、動物的な恐れをもって反応した。 入ってきたのが誰だろうとも関係がなかった。男性だ。男なのだ。それだけで彼女は逃げだそうとした。 彼が大急ぎで、 「待って!」 と叫んでいなければ、何があろうとも側をすり抜けて出ていこうとしただろう。しかしその声、その抑揚に、彼女は記憶があった。 「…………」 驚いた顔で振り向く。そこには宰相の公章を身に纏った痩せた男が、困ったように両手を広げて立っていた。 「大きな声ですみません。でもどうしてもあなたと、少しだけお話がしたいのです」 彼は習慣で相手に近寄ろうとする足を押しとどめながら、とにかくそれだけ伝える。 「それにしてもよかった。覚えておいてくださっていて……」 ソフィリアは彼の微笑みに応えることもなく、よろめくように側面の欄干まで後ずさりした。そして背中が行き着いてしまうと、信じられないかのように、血の気のない横顔を見せる。 彼女の神経に触れまいとオッシアは、慎重に、慎重に歩み、それでも充分な距離を取って彼女の前に立った。 「……この間のお礼を言いたかっただけなのです。すぐに退散しま…」 「あなたは」 ソフィリアが口を開いたので、彼はすぐに唇を閉じる。 「……宰相様でしたの……」 「あの時は非公式の訪問だったので、名は伏せていたのです」 彼は宴会においてもただの学者として紹介され、衣服も私物だった。彼女がオッシアの地位を知る道理がなかったのである。 「失礼を致しました。その上、助けていただいたのにちゃんとお礼をすることすら忘れていて」 「…………」 オッシアの言葉は、あまり彼女に届いていないようだった。白い衣服に身を包んだこの影の薄い少女は、じっと闇を睨みながら、別の思考に捕らわれているようだ。 「……ソフィリア? ご不快であれば、もう失礼いたしますが」 「…………」 彼女は答えない。オッシアは諦めて、目を閉じる。 「……では、これだけ言わせて下さい。あの時は、本当に助かりました。疲労にばらばらになった自分が、あなたのおかげでまた一気に取り戻されたようで…。 本当に感謝しています。…まったく、こんな言葉しか思い浮かばないのが歯がゆいくらいです」 それからまぶたを開く。すると、ソフィリアが向き直っていた。笑みを浮かべようとする彼に二、三歩と近寄って来る。 闇に光る白い手を差しだした。血管の透ける甲だ。挨拶を求めている格好だった。 重たい月が二人を見下ろしていた。梢の鳴る風の中で、オッシアはその手を取る。それから屈み込んでその肌に軽く唇をつけた。 甘い。 「…………」 密かに震えてはいたが、彼女は恐れを感じてはいなかった。ただ、怯えぬ自分に驚愕しているらしい。 とても耐えきれなくなったかのように、いきなりさっと右手を引っ込める。それを左手で抱きかかえ、今は何か、悲しげな面持ちでオッシアを見ていた。 「ソフィリア」 突然、別の声がオッシアの背骨に響いた。反射を喉の奥でひねり潰すようにしながら、ゆっくりと振り向く。 バルコニーの入り口に、一体いつからそこにいたのか、グレシオ・ナルシウスの黒づくめな姿があった。 痩せた宰相をきれいに無視し、ソフィリアへ語りかける。 「部屋へ引き揚げる。エイクについて行きなさい」 頷きもしないで、彼女は白い裾をひらめかせた。覚えのある甘い香りを追いかけるように、オッシアも部屋へ体を向ける。と、侯爵の皮肉な視線とぶつかって撥ね飛ばされそうになった。 「あれは贅沢な女だ」 グレシオは腕を組み、入り口の片方に背中に預けて、黙ったままの宰相へ白い歯を見せる。 「私か、オッシア・アルアニスかとは」 「…………。しかし……、あなたは確か……」 オッシアはその灰色の目でまず彼の黒い手袋を、それから侯爵を見る。 「彼女の叔父では?」 「それがどうした」 そうだな。 オッシアはぺろりと白いまぶたを見せる。 「失礼しました」 人々の好奇の視線に見送られながら、侯爵とその姪は広間を後にした。彼女の白い肩に回された侯爵の黒い手がいかにも背徳的な印象を与える。おそらく百も承知でそうやっているのだろう。 ギードがにやにや笑いながら、壁で腕を組むオッシアに向かい、 「とんでもないおっさんだが」 と両手を腰に当てた。 「いや、天晴天晴。あの男の前じゃ、お前らなんかまるでヒヨコだな」 彼は侯爵と同じ世代である。オッシア達を手玉に取る様が何やら愉快なようだ。 「隊長さんは不真面目すぎます」 最も若いリキシルは青筋を立てている。心情的にとても容認できないらしい。 「何が潔癖性だ、恥知らずな……。叔父と姪ですよ!」 「まあ落ち着けよ、美少年。確かにあのお嬢さんは気の毒な感じだがね。…しかし、なんであんな娘を連れてきたのかね」 「それ、いい疑問点ですね」 黙り込んでいたオッシアが、ついと人差し指を上げた。 「おう。お前気付いてるか」 「なんですか」 「グレシオとお前は本質的に瓜二つだぜ。ただベクトルが違うだけ。お前は左で、奴は右」 オッシアは上げた指をそのまま唇に持ってきた。それから低い声で、 「初めて会ったとき思いましたよ」 と呟いた。 「これはもしかして同族嫌悪かな、と」 * お前はああいう男が好みか。 赤い天鵞絨を基調にした豪華な客間で、グレシオは姪に言った。彼女は隣のソファに大人しく腰かけて、彼の問いにも無言である。 「だがあの男は乱暴は出来ん男だ」 薄い笑みが形の良い唇に浮かぶ。そして彼は手袋をはめた右手をちょっと持ち上げると、ソフィリアに向かって短く言った。 「おいで」 びくりとしたように揺れる蝋燭の炎が、彼女の瞳に映っていた。 * 幾韻かの詠唱の後、ぼ、と蝋燭に火が灯る。まぶしさに瞬きを繰り返しながら、オッシアは受け取った手紙の封を破いた。 ついさっきリキシルが届けに来たものである。就寝中に至急の報告が着くことはしょっちゅうであるから、彼は腹も立てないで寝台から抜け出した。 一枚目。 「お尋ねの件―――ナルシウス侯爵の姪、ソフィリア嬢について報告。 同女は一二六一年、前ナルシウス侯爵を父親、邸内にて働いていた賄い女を母親に産まれたとのこと。侯爵の妻は前年に死亡。その後母親は死ぬまで侯爵と愛人関係にあり、部屋も与えられていた。 前年八月、馬車で領内を遊興中、後部脱輪により馬車が川に転落。乗っていた侯爵と母親、御者が死亡。 後継者問題が持ち上がるも、ソフィリア嬢は全ての権限を叔父グレシオに委譲するとの書類を提出。なんの波乱もなくグレシオが当主についた。 両者の間にいかなる関係があるかについては、種々の噂ありて信用ならず。いずれにせよ令嬢に野心なく、現在のところ極めて良好なり。その他追って連絡」 もう一枚――――。 オッシアは鼻眼鏡をちょっと直してから、別の書状を取り上げた。 「グレシオ・ナルシウス侯爵に関する報告―――。 当方、領地内にて捜査をするも情報極めて乏しく、現在に至るまで顧みられぬ人であったと思われる。 一二四八年に産まれて後、五歳の時グスクの私設学院に預け入れられ十六までをそこで過ごした。卒院後、侯爵邸に迎え入れられるも待遇無法に悪く、記録に残るような事件皆無。 一二八二年、合併に際して強硬に反対。兄侯爵と不仲になるも独立派の廷臣達と結びつきを深める。兄侯爵の死後、迅速に統治権を継承。 その際、反独立派の廷臣を即刻解雇する厳しい処置を採り、その後も独自間接税制、私兵制の復活を宣言するなど、中央に対し反抗的な態度を取っている。 未婚。今のところ目だった女性関係なきも、姪との親密に人の噂あり。尚、一二八五年、継承に際して領内に配られた肖像画を入手。一枚を同封する」 丁寧に四つ折りにされた紙を指先で開き、皺を伸ばす。黒髪の侯爵の図が表れた。よく似ている。 ……が。 オッシアは彼の額に触れる。 違和感があった。髪の毛がこうも黒いと、まるでひどく昔のものを見せられたような気がするが…。これは実際二月前の絵であるはずだ。 「…………」 手紙を閉じ、引き出しに収めた。それから蝋燭に蓋を被せて火を消すと、眼鏡を外しながら窓際へ歩く。 『それにしてもなんであんな娘を連れてきたのかね』 侯爵の部屋のある南棟の明かりはもう全て消えていた。今頃、旅の疲れでぐっすり寝込んでいるのだろうか。 いや、もしあの男が自分に似ているのなら―――、まず平和な眠りなど望めまい。誰かの手が……。 そこまで来て、オッシアは何故か軽く唇を引き締めた。 ……今夜は、誰かの手が欲しくなる甘い夜だろう。 |