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千年孤独
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 予想通り、評議会の審問はなんの収穫も上げずに終わった。六日の間、ナルシウス侯爵は冷然と微笑み続け、誰一人その余裕を突き崩すことはできなかったのである。
 それどころか彼は遺憾なく自分の主義を主張し、もっとも進歩的土壌を持つと言われる議場において堂々と貴族的振る舞いを押し通した。彼に反発する人々は、「いかなる思想を持とうとも自由」であるとの国法が仇になったと愚痴を言ったものだ。
 それでも国王はゆるりと構えていた。あらかじめ、宰相から走り書きの手紙を受け取っていたからである。彼はこう寄こしていた。
「国法上何らかの手を打つことは不可能」
しかし、
「他二つほど考えられる方策あり。さりながらそれら時間を要す。可ならば号令を乞う」
 国王は、親書をしたためていた筆をちょっと上げ、その文面の下に「可なり」と一語書き記し、彼へ戻した。
 宮廷がナルシウス侯爵に下した評価もまた様々だったが、多くの人間が彼を警戒し、驚嘆しながらも畏怖の念を感じたことは間違いない。
 政治的才能もさりながら、その生来の優雅な仕草、男性的な声と人を威圧するような彼の態度が、人々の胸の中に眠る大貴族の記憶や美学を再び刺激したのである。
 能力主義が支配する宮廷内で自分の出自を忘れかけていた貴族達は、憧れのこもった眼差しで彼の一挙手一投足に見惚れ、熱狂した。翻って平民出身の高官達は、彼の懐古主義的な衣服やその振る舞いを生理的な範囲で忌み嫌う。一年前までは誰も名前すら知らなかった貴族の孤独な次男坊は、今や良くも悪くも時の人であった。
 オッシアはそんな彼から、急に姪と踊らないかと言われ、面食らわざるを得なかった。元々さほどに踊ったりするのが得意な人間ではない。その上、宮廷中の人間に、自分とソフィリアの踊る姿など見せてどうするつもりなのだろう。
 ナルシウスの隣で、彼女はいつもの通り表情に乏しかった。一体自分にどうして欲しいのかと、オッシアは彼女の胸の内を汲み取ることが出来なくて、何となく歯がゆい気がする。
「……それでは、もし……、よろしければ」
「どうぞどうぞ。なにせいつも叔父としか踊れない不憫な子です。この機会に是非お願いいたします」
 仕方がない。オッシアは釈然としないながらも、侯爵の勢いに逆らわなかった。たくさんの目が疑惑を込めて見つめる中で、ソフィリアの手を取った。なにしろ国王にすら触らせなかった手である。人々は大袈裟にどよめいた。
「……あなたの叔父様は何をお考えなのでしょうか。もしご存じだったら教えてもらえませんか」
 どこにも力を込めないながらも、しんなりと流れるように踊る彼女の耳に、オッシアは正直に言った。体が近いので、彼女は殊更小さな声を出す。
「あの人は試しているんです」
「試す?」
「……私を試しているんです」
 流れる人々の残像の林の合間、彼の白髪が見えた。周りの人間達と談笑をしながら、その実まっすぐにこちらを見ている。
 嫉妬なのかも知れない。
しかし……、自分が嫉妬される理由などどこにもないではないか。彼は姪に他人が触ること自体、不満なのだろうか?
「……あなたは本当に、彼と私以外の男性には触れることが出来ないのですか。…あの、こんなことを聞いてごめんなさい」
「……体が勝手に逃げるんです。心が幾ら大丈夫だと言いきかせても、全く言うことを聞かないのです」
 そういうことも確かにある。と、オッシアはバルコニーの夜を思い出していた。
「ということは私は、あなたに男性とみなされていないってことなんですかね。それならそれで全然構わないのですが」
少し笑う。しかし、ソフィリアはきっぱりと言った。
「……私はあなたが男性だと言うことは最初からきちんと分かっていました」
「……そう、ですか」
 何かが喉に引っかかった。咳払いする。
「だから問題なんです。もう二度と会わないと思って安心していたのに、あなたはこんなところにいらして」
「いない方がよかったのですか?」
「ええ。私にとって、男性は叔父だけでよいのです。迷いもなく盲目でも構いません」
 オッシアの目のすぐ下に、彼女の白い首筋があった。彼は自分の気に入らないからといって事実を曲げることなど好まない。
「……それでは、私は二度と手を握っては頂けないわけだ……」
「え?」
「あなたは、侯爵の手だけを握り続けるのでしょう?」
「…………」
「偶然に助けられて、辛くも望みを食いつないでいたのですが」
「やめてください」
 彼女は哀しく、責めるような目でオッシアを見た。
「……私を恋に誘わないで下さい」
「どうして、いけないのですか?」
「…………」
 踊りが終わるまで彼女は返事をしなかった。オッシアが掌に力を込めて言葉をもらおうとしても無駄だった。
 しかし最後に彼の耳に、
「もう二度と辛い思いをしたくないんです」
と囁くように言うなり、彼女は身を翻した。
 彼女は戻っていった。侯爵の懐へ。グレシオは彼女を受け止めながら、その鋭い目でオッシアを見る。
 そこに勝利の笑みを見てしまうのは、自分の感情の見せる錯覚なのかも知れない。 オッシアは思うのだ。あの男は、いつもソフィリアの手を独り占めにしていると。そんな下らない嫉妬を奥歯で噛みしめる。





 宴がくたびれはじめた頃。グレシオは自分の周りにいつの間にか群がっていた女性達を体よく追い払い始めた。
「宰相殿と差し向かいでお話がしたいのでね」
「おや、私ですか? なんでしょう」
「先日あなたは私の政治的決定における根拠を尋ねられた。その質問をそのままあなたにお返ししたい。
 あなたが常日頃、いかなる信条に基づいて行為を決定なさってるのか」
 オッシアの前で、赤い葡萄酒が振られる。出来るだけ長い時間をかけてそれを受け取りながら、彼は言葉を探していた。
「そもそもどうして国などお建てになったのです? あまり支配欲のある方とも思えないが。だいたいそれなら賢人書院にいた方がずっと楽でしょう。あすこは序列関係がはっきりしていましょう?」
「無論、私は人々を支配することが目的なのではありません」
「では?」
「……私は、大陸中で繰り返される破壊の連鎖を断ち切りたいと思っているだけです。そのためには一人の力ではどうにもなりません。政治的行動が必要でした。
 いつも政治決定をする際に基本的に考えていることはこれだけです。出来るだけ血の少ない道を」
グラスを傾け、三角形の鋭角を指す。
「少しでも破壊の少ない選択をしているつもりです。
 ……だから、私は先のあなたの決断には、やはり一言差し挟みたい。あれはあまりにも無益な殺生でした」
「そうですかな。秩序を保つためには時として見せしめも必要です。将来流される血を防止するための、犠牲の血です」
「問題はその秩序を、あなたの血統が定めているということです。直接血を流す民草達が認めた秩序なら、私も文句を言いません。
 しかし、あなたが先に仰ったような領民の存在意義や統治権の思考は、ただあなたの血に負うて正当化されているに過ぎません。
 生まれの偶然によって無条件に犠牲にされたり、犠牲を強いる権利があったりすることは、いささか恣意的な不条理に過ぎませんか」
「それを不条理と呼ばれるのであれば、なぜ建国の暁、貴族制を廃止なさらなかったのです」
 笑いながら、真っ直ぐに核心を突いてくる。子供の考えることなど、全てお見通しだという感じだ。
 理想はそうであった。オッシアはもっとも合理的な正統性として、法治国家を望んでいたのだ。その体制の下、国法に「法の前に全ての人間は平等である」と書き記すことができたらいかに満足だったことだろう。
 しかし建国当時、そのような過激な条項を国法に盛り込むことは政治的に不可能だった。世界はその理想を飲み込める程まだ均されておらず、さらにそれによって新たな破壊を呼び込む危険性すらある。それでは元も子もないのだ。
 非力なオッシア達は、現実的な妥協点を探し、貴族達を刺激しない道を選ぶほかなかったのである。
「……あの時はこれで精一杯でした」
と、オッシアは掌を広間の方へ広げてみせる。出身地も、産まれも育ちも職業も違う人々の集まりである、トリエントーレの煩雑たる宴。
「いずれ大陸に新たに国家が誕生する頃には、もっときちんとした制度が出来ることでしょう。それは決めるのも施行するのも享受するのも人民、という制度であるはずです。今はその準備期なのです」
「それにしても私には疑問だ。あなたは人民達の人民達による制度によって本当に破壊が止まり、平和が訪れるとお考えか? たとえ議会によって議論がつくされたとしても、そんな世界は遠い気がするが」
 オッシアは驚嘆の面持ちで侯爵を見た。
この男が古い粗雑な教育を受けたばかりにあちら側にいるのだと思うと、彼は侯爵の両親を呪いたいくらいである。
「私はね侯爵、賢人書院でたった一つ、学んでよかったと思う技術があります」
「ほう? 何ですか」
「信用です」
 ぴく、と今まで黙って二人のやり取りを聞いていたソフィリアの体が動いた。そんな彼女に遠慮をしながらも、オッシアはちょっとだけ微笑んでみせる。
「その問題については私たちの中に眠るものに対し、その清らかなることを無条件に信じるしかありません。今のところ、私は人間の魂とその理性を、信用することにしているのですよ」
「あなたはお優しく出来ておいでだ」
 侯爵は嗤う。
「きっと幸福な人生を送ってこられたのだろう」
「確かに色々な人に導いてもらう幸福には恵まれています」
手を差しだした。
「その中には侯爵殿、無論あなたもおいでですよ」
 グレシオはしばらくオッシアの顔を探るように見つめていたが、やがて手袋に黒い右手を差しだし、それに応じる。
「大変面白いお話でした。是非またお会いしましょう、侯爵」
「その時には敵同士かも知れませんな」
「あるいは」
 押し込められた探り合いの果てに、二人の男は別れた。オッシアは彼に背を向け、仲間達のいる方へ歩む。ソフィリアの瞳の中に、その黒い公章がいつまでも映っていた。
「何を話してたんだ」
 ギードはにやにや笑いながら言う。
「随分楽しそうだったじゃないか」
 オッシアは黙って手を振った。冗談に応じる気分ではない。
 リキシルの隣には見覚えのある若い男がいた。ナルシウス侯の部下の騎士、エイクだ。
「初めまして、宰相殿」
 二人は初対面だったので軽く挨拶をする。さすがに、騎士の態度には硬さが見えた。
「どうも。リキシルと気があったみたいですね」
「ええ、年も近いですから…」
「この度はお役目ご苦労様でした」
「はい。あの、それでは…」
「ええ」
 お互い、よそよそしい会話をすぐに切り上げる。若者二人は、女性と踊ってくるといって環の中へ入っていった。
 もう一度オッシアはぐるりと視線を返して、ソフィリアの姿を侯爵の隣に探す。彼女は叔父の腕にすがりついて、やっぱり伏した睫毛に床を見ていた。
 ついさっきまで彼女の手に触れていた右手を眺める。
 もう二度と、あの女性とあの手とには会えないかも知れない。何か見つけたように思えば、恋に誘うなと拒否される。
「ままならないものだ……」
オッシアはぼそりと呟いて、腕を組んだ。
 回るように天井に吸い込まれて、宴は夜明け前に終わる。





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