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千年孤独
= 7 =
「まあ毎日、西へ東へと忙しい奴だ。お前は一体いつ女を抱くんだよ」 天井から吊された洋燈の周りに、大きな羽根を持った蛾が二、三羽ばたばたと飛び回っている。それをなにやら神妙な顔つきで眺めやっていたオッシアに、ギードは冗談半分に尋ねた。 騎士隊長は無精ひげを生やし、ひどく簡単な格好で麦酒を飲んでいた。オッシアも胸元を緩めて普段よりは崩れた様子を見せている。あけっぴろげな友の質問に、いやな顔もしないで口を開いた。 「実際女性を口説いてる暇がありませんよねえ」 「笑い事かね」 「そんなに深刻な問題でもないでしょう」 「俺だったら深刻だよ」 「僕はあなたと違って体力がないから」 「しかし、子どもはどうするんだよ。種保存は遍く生命体の至高命令だぜ」 「だからってむやみに作ってどうしますか」 沈黙の中、昆虫の羽音だけが埃を払うように響く。 ギードは急に、両腕をテーブルの上について上体を乗り出した。 「おい、正直に答えろよ。お前、今まで女に惚れたことがあるのか?」 「いっぱいありますよ」 手応えもなくオッシアは言う。 「ただ好意を持つだけなら個人的な問題なんですからね、こちらに気力があれば幾らでもやれるでしょう。でも二人で何かするってことになると、それは相手の気持ちが問題なわけで」 「俺はお前がそれをたぐり寄せる努力をしているのを見たことがない」 「だから暇がないって言ってるじゃないですか」 「…………」 二人はしばらく睨み合っていたが、やがてギードが大きな頭をがくん、と垂れた。 「成程ね。堂々巡りなわけだ。あまりに不憫だから、今夜誰か、お前の天幕に忍ばせてやるよ」 情けない微笑を浮かべて、オッシアは手を振った。 「やめてくださいよ。明日に響く」 「知るか。いっそ過労死してしまえ」 その時、天幕の外で砂利を踏む足音がしたと思うと、 「リキシルです」 と、押し殺したような声がした。 二人はにわかに緊張を取り戻し、めいめい背骨に力を入れる。 「どうぞ」 「はい」 首都の夜とは違い、真っ黒に知恵を塗りつぶす本物の野生の闇の中から、二人の若者が天幕へ入ってきた。一人はリキシル。強張った顔をしたもう一人の男性は、エイクだ。 彼は、しばらくまぶしげに瞬きをしていたが、中にいる二人が宰相と騎士隊長と分かると、血相を変えた。 「……リキシル! これは一体どういうことだ」 気まずそうにしている彼に食ってかかる。 「相談があるというから着いてきたのに、話が違うではないか!」 「いや、その……」 「私は失礼する!」 「待ちなさい」 入り口へ向かおうとした彼の足を、オッシアの命令が止める。エイクは硬い顔をして宰相を振り向いた。 「……私はあなた方とお話しするようなことは何もございません」 「話を聞く前からそんなことを言うものではありません。言葉が分かるならお座りなさい。 もし気にくわないなら、話を聞いた後で私を刺して帰りなさい。御覧の通りこれは罠ではありません。周りには誰もいないし、隊長殿も丸腰です。 ……あなたの命も、拒否権も保証します」 一瞬の迷いを見せたエイクの体を、リキシルが両手で押し返すようにして、ようやく席に着かせる。だが彼の額には緊張が漲り、麦酒を飲むかね、というギードの勧めをすげなく断る。 「用件を」 「よろしい」 オッシアは頷いて、自分は少し、酒を口に含んだ。 「私たちは現在、グスク襲撃に際してその一部始終を証言してくれる人間を探しています。それがなければ、教会権にその残虐行為を認めさせることが出来ないからです」 「それで?」 真摯な眼差しが警戒を込めてオッシアを見る。オッシアも目を逸らさないまま、続けた。 「あなたは騎士隊の一員としてグスク攻撃に関わっていますね。さらにその後数日の間、あの街の付近に駐屯していた」 「――― あなたは」 引きつったような笑いが零れる。 「私にその証人の役をさせようと言うわけですか。一体、正気ですか? そんなことをするわけがない!」 「だめですか」 「当たり前でしょう! 私は侯爵に多大な恩恵を被っている、もっとも近しいとも言える人間ですよ! あなたはいかに恥知らずな行為を私に唆しているのか、お分かりなのか!」 「力のない住民達を虐殺する以上に卑劣な行為がありますか」 橙の明かりの下で、エイクの顔が真っ白になった。オッシアは両の指を組み合わせ、注意深く彼の反応を眺めながら再び口を開く。 初めて見たときから思っていたのだ。この男なら悩んでいると。そして言葉をつくせば必ず気弱になる、と。 「あれが罪だということくらいは、聡明なあなたには分かっているはずです。私はあなたが決して楽しんで任務を遂行したのではないと信じます。 今からでも、自分の罪を濯ぎたいとは思わないのですか。これから先、ずっとその苦味を引きずって生きていかれるのですか」 「俺は後悔なぞしていない! あれは罪ではない!」 倫理的に追いつめられそうになった騎士が椅子を蹴る。まるで自分に言い諭すかのように、拳を振るった。 「騎士の本分は忠誠を誓った主人の命令に忠実に従うことだ! 私は騎士らしく振る舞った! 罪も後悔もあろうはずがない! グスクの商人達は――― !」 「エイク……!」 震えるリキシルの声が、二人のやり取りを遮った。エイクは驚いてそこに突っ立ったまま、隣に腰掛けている友人を見下ろす。 彼に劣らず、リキシルの頬も蒼白だった。エイクが予想したこともなかった程の厳しい顔で、彼は言う。 「……殺人をするのなら、……自分の意志でやれ」 「……なんだと……?」 青い炎を瞳に込めて、リキシルはエイクを睨み付ける。 「殺人は、誰かに命令されてするのではなく、自分の意志でしろ。…さもなくば、たったいちにんの人も殺すな!」 「お前の言っていることはどこかおかしい!」 「どこがおかしいのだ! 魂も反骨心も持ち、真剣に悩んだ末に拒否するものは拒否することこそが、誠実な人間たる騎士の本分だ! 盲従する殺人集団になるならば、それは野盗の群に等しいではないか!」 「……野、野盗だと……?」 あまりの言葉に勢いを失ったエイクを前に、リキシルは視線を落とす。そして静かな声で、 「……殺しつくし焼きつくす。まさに野盗だ。そんな行為を行いながら、なお命令を立派に遂行した勝利者として振る舞うことなど、俺は絶対に認めないぞ」 言い切って、口を噤む。オッシアは彼の目の先に、燃えさかる彼らの故郷が見えるような気がした。 どさ、と腰から落ちるように騎士が椅子へ崩れる。 長い沈黙が流れた。 オッシアは充分な間を空けた後、ゆっくりと念を押すように、エイクに語りかける。 「あなたはあなたが犯した罪のことを、神の前に告白し、深く赦しを乞いたいとは、思わないでしょうか」 騎士は顔を上げた。その瞳には葛藤の苦渋が渦巻いている。オッシアは諾否を迫った。 「……エイク。教えて下さい」 棄てきれない騎士としての常識が、とうとう彼に席を立たせた。エイクは一切何も言わず、挨拶もしないままに、天幕から出ていこうとする。 「エイク……!」 リキシルが呼んだが、彼はもう留まることはなかった。何かを振り切るように幕を跳ね上げ、闇の中へ逃げ出していく。 「申し訳ありませんでした……」 リキシルがやっとのことで謝って、頭に手をやる。 「つい、感情が……」 と、髪の毛をかき回した。 「いえ、いいのですよ」 すっかりぬるくなったグラスの中身を空けながら、ギードがしばらくぶりに声を出す。 「……あと少しというところだな。それにしても真面目な男だ」 「本当は、ああいう必死な人をこういう目に遭わせたくないんですがね……」 オッシアはため息をついて、口に手を当てた。あの男がもっとも突かれたくないところはどこかと、残酷に思考だけを走らせながら。 「出来ればもう二度と、このような任務は受けたくないですね」 リキシルが呟いた。その苦労にオッシアも頷く。 「私も二度とこんな命令出したくありませんよ」 * 「――― 領内事情についての報告。本日公開処刑。犯罪人、中部ハナンの商人R。罪状は私腹を肥やさんとして木炭の値をつり上げたとのこと。 Rは長く当方に情報を提供していた反独立派であり、公の名とは違う咎にて処刑されたは明白。領民達も少々恐怖感を持ち始めた模様。街閑散として厳粛なり。 当方身の上に危険感じることの諸々ありて、これよりしばらく潜伏の故報告の用果たせず。許されたし。 「――― 枢機卿は現在のところ事態を静観している。おそらくナルシウスの財力を見定めんとしており、調査する旨、領内の教会へ打診。司祭達が動き出すも、現状では限界あり。 「――― 各直轄貴族達は、それぞれに宮廷内にて情報収集を行っている。ジバル伯の尽力によって、機密はほぼ完全に保たれているものの、噂話の横行は止める術無し。迅速な膠着状態の解消が望まれる。 読み終わった報告書を順に暖炉へ投げ込みながら、オッシアは今日も深夜まで眠れない。一年中ここまで忙しいわけではないが、事態が詰まってくるとこの始末である。 「ガラティアも……、内紛か。どこも大変だな……」 また一枚を火の中へ投じるが、手の中にはまだ十枚近い報告書が残っていた。オッシアはため息をつく。 「ナルシウス侯についてその後の報告」 「侯治領内物価指数について」 「徴兵軍隊の訓練率……」 「行商分野の動向」 こんこん、とドアが鳴る。 また報告書が来たのかと思い、オッシアはすぐに机を離れて扉を開けた。と、隙間を押し広げるようにして部屋にすべり込んできたのは何やら派手な肩掛けをまとった女性である。 「あれ?」 目を丸くするオッシアの胴にいきなり手を回し、紅をひいた口で愛想よくにっこりする。 「こんばんは。ギィに言われて参りましたわ」 「ギィ? ……ああ」 なんて名前で遊んでいるんだあの男は。 「どこのどなたかは知りませんけど、何が何でもお慰めするようにって言われてますから」 返事も聞かないで彼の唇を奪う。二度、三度とそれを重ねながら、肩掛けを外す。両の肩が途端に露わになった。 彼女は間違いなく売笑婦だった。これが仕事である人間だけが持っている速度で、間違いもなく彼の快楽を引き出していく。オッシアは蝋燭を落とさないようにするのが精一杯だ。 やがて仰向けになったオッシアは寝台の上で、天幕の布目を見ながら考えていた。 こうやって憂さを晴らしながら、自分の道を誠実に問い直す機会もなく、ずっと進んでいくのだろうか。 片づけなければいけない雑事が次から次へと湧きだしてきて、自分にはそれを評価し悔悟する暇もない。いつの間にか道を誤って、どこか袋小路に迷い込んでいるのかも知れないのに、それを見返るだけの時間がないのだ。 こうやって誰かの体にすがり、あるいは簡単な気晴らしを続けて何とか正気を保ちながらしかし、もしかすると自分は既に、人型を怪しくはみ出しているのかも知れない。とっくにばらばらになって、人でなしになっているのかも知れない。気が付いていないだけで……。 なんだこれは。白くはためいて蛾のように、目にちらちらするものはなんだろう? 手。 ……誰かの白い手だ――――― 「何、ぼーっとしてるの?」 不満げな女性の声に我に返る。彼女はオッシアの痩せた胸板の上で、ふくれっ面をしていた。 「憎らしいわね。一体誰のことを考えてるのよ」 「ああ…。いや、ごめんなさい」 オッシアは商売用の笑みを浮かべると、彼女の流れる髪に、耳元から手を差し入れる。そして頭を引き寄せると、真っ赤な唇に自分のを重ねた。 安い紅の妙な味が舌いっぱいに広がって、彼は今まで感じていた撞着の懸念が、どうしようもなくうやむやになっていくのを感じていた。 |