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千年孤独
= 8 =
エイクは運の悪い男であると言えるかも知れない。彼は堅物のあまり、自分が宰相らに接触を受けたことを他人に話すことすら出来なかった。 だから侯爵から、手紙を持っていくようにと命令されたときに、拒否する手も思い付かなかったのである。 昼過ぎ、トリエントーレ軍の陣幕に入ってきたときも、彼は努めて何事もなかったかのような顔をしていたが、端々に動揺の影が見え隠れしていた。 陣営内の責任者はギードである。彼は真面目な顔で侯爵の手紙を受け取ると、広げて目を通した。それから左にいるオッシアに、 「お前にだ。…もしもこれ以上、領内で内偵活動をするのであれば、もっと強硬な手段に訴えざるを得ないとさ」 ―――― 捕まったか。 平然とした表皮の下で、オッシアは部下を思いやり眉をしかめた。 「ご返事をどうぞ」 床に跪いたまま、エイクは顔も上げないで杓子定規な台詞を吐く。リキシルは先程から主人の隣で胃の痛そうな顔をしていた。 「……騎士殿。あなたにもう一度聞きたいことがあるのですが、構いませんか」 「私は、ご返事を賜ることだけが任務でございます」 「エイク、あなたの―――」 「ご返答無しと言うことでございますな」 エイクは取り合おうとしなかった。さっさと立ち上がり、出ていこうとする。だが相手を無視したのはオッシアも同じで、彼はかまいもせずに先を続けた。 「あなたの奥さんは随分あなたのことを心配しているようですね」 じゃり、と騎士の靴の下で砂が鳴った。 そして彼は憤怒の形相で、振り返る。 「妻は関係ない……!! こんなところに持ち出して来るな!」 「関係ありますよ。……あなたの奥さんは、私に手紙をくれました」 騎士のみならず、唖然とする面々に対し、オッシアは白い紙を一枚取り出して見せた。 「もちろん間諜からの報告書と一緒に、間接的に私に届いたものです」 「…………な」 「……奥さんは、長く会うことが出来ないので、私からあなたに伝えて欲しいのだそうですよ、エイク。 ……彼女は自分達の赤子が死んでしまったのは、グスクで幼い子どもをたくさん殺したせいなのだと、あなたが悩んでいるのは知っている、と書いています」 エイクの唇が微かに開いた。その隙間から息の漏れる音がひゅうひゅうと鳴る。 「自分のせいで子どもが死んでしまったのだと言って、ひどく苦しんでいるのも知っている、と。 でも自分はそういうふうには思っていない。子どものことは仕方がないと諦めている。……ただ、こんなにもあなたが辛い思いをするのなら、騎士なんかやめてしまった方がいいのじゃないかと、時々……」 「やめろ……!」 振り絞るように声が出た。わななく両の瞳の下に、涙が盛り上がっている。 「……それとこれとは別問題だ……!」 「ではどう別なのか教えて下さい、エイク」 オッシアはびしりと反問した。 「現実にあなたは子どもの死と、自分の犯した罪を結びつけて苦しんでいるではありませんか。……我々が問題にしているのは」 と、手紙をもつ指に力を込める。 「これに他なりません。あなたが忠誠を誓っているその政体が、本当にあなたとあなたの家族を幸福にしているのかどうか、ただそれだけの問題なのです。 ……さあ選択して下さい、エイク。 あなたの人生をあなたが選択して下さい。その決断がどちらに下されようとも私たちはそれを信じ、あなたの意志を尊重します。 今、侯爵が時代に逆行して復活させようとしている世界は、その誇りや恩恵を置き棄てても、本当にあなたを幸福にしてくれるのですか。 あなたの判断を、私たちに今、示して下さい」 オッシアが口を閉じるのと同時に、見慣れたはずの陣営が、まるで別世界のもののように静まり返る。 リキシルは唾を飲んだ。 静寂の視界の中で、ただ動いているのは心音ばかりだ。 これは自分の心臓の音だろうか。それともエイクのものだろうか。 いいや、俺のでもあり彼のものでもあるのだ。 ……すっかり忘れていたが、我々は同じ人間だったのじゃないか。その悲しみや苦しみに違いなど、あるわけがない。 一歩一歩、引きずるようにして、エイクは歩いた。そして長い時間をかけてオッシアの前に立つと、わななく手を上げて、彼の手から妻の手紙を、受け取った。 「……―――――懺悔いたします」 それを抱き締めるように崩れ落ちた彼の口から、辛い自制に抑圧され続けた嗚咽が落ちる。 「ッく……!」 歯のこすれる音がした。 「ううううッ……!」 「エイク……!」 何もかもを忘れて、リキシルは彼のもとへ駆け寄る。両手を手縄に差しだすように握りしめて、泣き続けるエイクの背中に、手を――――また手だ。 思いながら小さく息を吐くオッシアの側に、ギードが立った。 「宮廷へ車を用意する」 それからぼそりと、 「鬼」 オッシアは頷いた。その拍子に何かを振り落としてしまったような気がして、彼はしばらくぼんやりと地面を眺めていた。 * その夜、ひどくくたびれて彼は机に座っていた。窓の外には煌々たる三日月が浮かんで、夜の冷気をさらなるものにしている。 ――― 伯爵の事件はこれで終わりだ。 事務手続きは全て済んだ。あとは明朝、騎士隊と枢機卿を連れて伯爵を逮捕するだけである。 まさか自身が彼と取っ組み合うこともないだろうから、オッシアの仕事はほとんどが終了したことになる。 「…………」 疲労しているのは感じるのに、何故か眠る気にならなかった。多くの迷いや後悔は、遂げられた決断の後に吹き出してくるからだ。 これで本当に良かったのか。 大なり小なり迷いは尽きないが、その後始末をする暇もなく、また別件の仕事を始めなくてはならない。 取り戻す手が、欲しいな。 せめて手が……。 オッシアは額を包み込むように机に肘を着いて、皮肉っぽく笑う。 ……人でなしのくせにお前は、贅沢な男だ。 その時。 「卿、起きておいでですか?」 部屋の扉を叩いてそう尋ねるのはシリーだ。オッシアはびっくりして振り向く。 「どうしました?」 「ご婦人がお見えですよ」 「……また?」 あの忌々しいギィめ、と呟きながらドアを開けた。 案の定シリーの隣に外套を羽織った女性が立っている。しかしそれは売笑婦ではなく…ソフィリアだった。オッシアと目が合うと、軽く膝を折って挨拶する。 「……ああ、どうも。こんばんは……」 気の抜けた返礼をしてドアを開けると、彼女はするりと自分から中へ入った。立ち去ろうとするシリーを、オッシアは呼び止める。 「……シリー」 「はい?」 「……あの、リキシルに、済まなかったと伝えてもらえますか」 洋燈の光の中で、彼女は優しく微笑む。 「彼はちゃんと分かってます」 彼女と別れ、部屋へ戻る。客は自分からソファに腰かけていた。オッシアは彼女を注意深く観察しながら、一体この女性は何をしに来たのだろうと、考えを巡らせる。 彼女は化粧すらしていなかった。就寝後、あり合わせのものを身につけて屋敷を抜け出してきた。そんな感じだ。 「……侯爵には」 オッシアの問いに、彼女は首を振る。 「……女官の一人にだけついてきてもらいました。私の伯母です」 母方か、とオッシアは頷いた。 「あの人は何も知りません」 「……そうですか」 オッシアは咳払いをして、少し軽い口調へ切り替えた。 「……あの、もう一度お会いできたらあなたに言おうと思っていました。 ……他の人達はどうか知りませんが私は、あなたの叔父上が好きですよ」 顔を上げるソフィリアに、オッシアはやや自嘲気味の笑みを見せる。 「これは一種の自己愛かな。……いや、それも少し違うか。同族への愛着というか、そんなものです。 理想に向かっては手段を問わないその姿勢も、迅速かつ的確な判断も、もちろん尊敬の対象ですが、私が最も好きなのは……、あの見事な白髪です」 風になびく白い髪。 グスクの焼け跡を背景にその髪の毛を見たとき、オッシアにはその意味が分かったのだ。この男は冷徹な仮面の下で内部を食い荒らし、自ら魂を削りながら生きている自傷型の人間なのだと。 「……あの白さが彼のもっとも愛すべきところです。あれがなければ私は彼を好きになったりしませんでした。 あれは迷いです。……そして、人間としての苦しみです。それを隠そうという努力の前にあまりにも赤裸々な……」 一瞬の躊躇の後、オッシアは重たく、口を開いた。 「……ソフィリア。教えて下さい」 自分の理性が嫌になる。実際彼は顔をしかめていた。 「あなたはいつ、侯爵がご両親を殺したのだと気付きましたか」 「…………」 少女の大きな瞳の中に、「鬼」たる自分の顔が映っていた。そしてそれが茫と乱れたかと思うと、瞬きもないままに涙がぽろりと、頬へまろび出た。 何かの間違いのように、彼女は呆然としていた。一体彼女も自分が何を泣いているのか、さっぱり分からないのだろう。 オッシアは立ち上がった。 涙も拭かないで、ソフィリアが何か紙を差しだしたからだ。彼はそれを受け取り、中を開く。 「国王陛下。私は前侯爵殺人の件に関し、関知していること全てを、神の前でお話しする用意があります」 署名があった。 ……侯爵の動きを止めるために考えられたもう一つの方策がソフィリアによる彼の告発だった。しかしこれはとても無理だろうと思って、諦めていたのだが。 オッシアはドアへ向かうと、リキシルを呼んだ。 「これをジバル伯へ渡し、明朝の会見文の中へ加えるようにお願いして下さい。お眠りになっていたらお起こしして。頼みます」 青年は走っていった。だがオッシアはしばらく、その背中の消えていった先を眺めていた。 |