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千年孤独
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 午前七時。
騎士エイクが戻らない件について、教会へ提訴しようと準備を進めていた侯爵は異状に気が付いた。
 姪が召使いの一人と共に、姿を消していたのだ。姪の存在は彼の背骨だった。彼女の失踪がいかなる意味を持つのか、侯爵は一瞬にして悟ったのである。
 直ちに侯爵は兵を集めるように支持を出した。踵を鳴らして出ていった騎士隊長はしかし、ひどく取り乱した様子で戻ってきた。
 その手に握られた一枚の紙には、教会権とトリエントーレの和解が伝えられていた。
「騎士達が動揺しております」
騎士隊長は泡を食って言った。
「ここに書かれていることは本当かと……!」
――――――
『一、教会は、トリエントーレ国内において先月十四日に起きた商業都市グスクに対する略奪行為、破壊行為に関し、同国内居住のナルシウス侯爵を告発するものである。上記告発は、侯治領騎士リシャール・エイクの証言に依るものである。
一、さらに教会は同侯爵を、前侯爵謀殺の件で告発する。上記告発は、前侯爵の娘であるソフィリア・ナルシウスの証言に依るものである。
一、教会は同侯爵の逮捕をトリエントーレ王国へ要請する。これを妨害する者は教会に対する反逆者として処罰され得る。同命令の……遂行は……―――』
「侯爵様! エイクは……、ソフィリア様は―― !」
 隊長は悲鳴のような声を出した。侯爵は彼を刺し殺すほどに鋭い一瞥を彼に投げると、
「狼狽えるな、見苦しい!」
と喝を入れる。
「橋を上げろ、ぐずぐずするな! 騎士達を外へ出すのではないぞ! 中庭に集合させろ!」
「は、はっ!」
 騎士隊長は弾かれたように走り出した。命令に服従することで不安を振り払おうとでもするように。
 城門の監視台へ走り込むと、不寝番をしていた若い騎士達へ号令した。
「橋を上げろ!」
 振り向いた騎士達の目はすがりつくようだった。
「隊長殿! 教えて下さい! この布告は、ここに書かれていることは本当なのですか!」
「橋を上げるのだ!」
「我々は崇高な王国の復活を目指して尽力していたのではないのですか! そのための犠牲だったのではないのですか!」
「ぐずぐずするな! 宮廷軍を迎え撃つのだ!」
「しかし、……しかし隊長殿……」
騎士は喘ぐように言う。
「一体、何のために」
 隊長は答えず、彼等を押しのけると轆轤(ろくろ)へ走った。誰も動かないと見て取ったのだ。
 しかし、その瞬間、
「動くな!」
という声が、鞭となって彼の背骨を打った。
 長い槍の切っ先が、何本も狭い入り口から彼等を狙っている。その王国騎士達の背後に、枢機卿、公章をまとった男たちの姿が見えた。
 中の騎士達は両手を上げた。隊長一人が、背後から与えられた別の命令に動きを止め、そのまま凍り付いていた。
「……それ、いい疑問点ですね」
 一人の痩せた男が呟くように言った。
「いつも覚えておくといいかもしれない」
「こいつらに戦意はないが油断するなよ」
 髭面の巨漢がそう言って、一人の騎士の肩をぽんと叩く。青白い視線に見送られながら、彼等は城の中へ入った。



 侯爵はなだれ込んだ騎士達に自室で囲まれた。
武装もままならなかった彼はしかし平然と、恐れもせずにそこに直立していた。
 騎士達は剣を構えたまま、上司達の到着を待つ。
「侯爵、既にご存じとは思うが」
 一日前までは、にこやかに交渉に臨んでいた枢機卿が、今は罪人を見下す目で声高に彼を呼ぶ。
「教会はあなたの告発を決定した。大人しく我々と来ていただこう」
 ふ、と侯爵は蔑みの微笑を浮かべた。
「……聖帽を被った豚が」
「何!」
「いけませんよ、騎士より前に出ちゃ」
 食ってかかろうとした枢機卿の短気な襟首を、ギードが苦もなくつかんで止める。
「殺されたいんですか」
 ゆっくりと一同を見回すようにしていた侯爵は、オッシア・アルアニスの顔のところでぴたりと視線を止めた。
「……してやられたな……」
 上唇をめくり上げるようにして言う。オッシアは静かに返答した。
「あなたは無理をしすぎました。実際、そこまでする価値があったのかどうか、私にはいささか疑問です」
「お前などには分からぬ。
 全ては国のためだったのだ。目の前であの愚昧な兄がこの国のかたちをお前達に売り渡したとき、いかに我々が無念だったか」
「国は入れ物です。入れ物に拘るのは馬鹿げています。あなたは国のためと言い行動しましたが、周りの人々もあなたも、少しも幸福になどならなかったではないですか」
「達成には困難が伴う、当然のことだ」
「……それは、あなたが国のために髪の毛を白髪にするのは勝手です。しかしあなたは、あなたを愛し助けてくれる人々の誠実を信じず、自覚だけを恃んだ。これは、いけません。あなたは人を信じなかった」
 皮肉に、目を細めて孤独な男は笑った。幸福な男だとオッシアを見る。
「甘い夢を幾らでも貪っているがいい。人間は、一生誰とも分かり合うことなど出来はしない。たとい千年共に生きたとしても、人はどこまでも孤独なのだ。何かを成そうとすればその時、自分以外に恃むものはないのだ」
「その通りです」
 オッシアは苦々しく目を閉じた。
「しかしそれでも、他者への信頼を拒む人生は、たといそれが千年続いたとしても所詮千年がかりの自慰に過ぎません。
 そんなあなたが国を統治して、一体誰を幸福に出来るというのですか」


――――沈黙が満ちる。
侯爵は初めて返答に詰まった。
「あなたは孤独の何たるかを骨の髄まで知っていながら、その使い道を誤りました。孤独は他者と会話するために使うのです、拒否する根拠にはなりません。
 …あなたが結局のところ他者を受け入れられなかったのはあなたの怯懦が、臆病が原因です。いかに辛い過去があったか知りませんが、正当化するのはやめてもらいましょう」
 ずるり、と侯爵は壁に背をつけた。前屈みになったその頭髪が、白い。右手で左手を掴むや、何かを堪えるように顔をしかめた。
「……その舌で、ソフィリアをたらし込んだのだな」
 オッシアはため息をつく。
「何とでも……」
「弱い女だ……。あれのことを頼む」
「……ご心配なく。あの人はじき誰の手でも恐れなく握ることが出来るようになりますよ。あなたの力などその程度のものです」
 侯爵は鼻で笑った。
「随分と仲良くなったようだな」
「今朝方求婚してきましたので」
 どよめきは味方側から起こった。前列の騎士までもが仰天して彼を振り返る。
「おい、お前の上司が狂ったぞ」
 にやにやしながら、ギードがリキシルをつついた。
「僕もあなたも、もれなくとち狂ったクチじゃないですか。今更そんなことで驚かないで下さい」
と、青年は天井を見る。
「……この……、クソガキが……」
 侯爵は歯を食いしばるように笑った。その声が、腹から何か圧力でも受けたかのように、不自然な盛り上がり方をする。
「覚えておけ、オッシア・アルアニス……。
 ……貴様は俺を嗤ったが、いつかその物言いに噛みつかれるときが来る。それは俺の苦しみなどよりも数倍深……ッ……」
 ぼとぼと、ぼと、と血の塊が床に吐き出された。騎士達がぎょっとなって一歩引く。
「は……はは……」
 笑いながら、侯爵はよろめいた。オッシアの目が、憐れを刻んで細くなる。
「……二度と逢えなくなりますよ」
侯爵の歯は赤く染まっていた。
「今更どの面下げてあいつに逢える……」
「医者を呼べ!」
 枢機卿が叫んだ。
「自殺など許すものか!」
 その言葉を嘲笑うようにグレシオは倒れる。血をかき乱して手が揺らめいた。人間の五本の指で、何かを掴もうとする。しかしやがてそれは空をきつく握りしめると、そのまま石畳へ落ちた。
 ―――びし、と血がオッシアの足下まで跳ねる。侯爵の喉からは、信じられないほど多量の血が、涙のように次から次へと溢れ出ていた。





 医者が駆けつけたとき、うつぶせに崩れた侯爵の体はまだ秒をおいて痙攣していたが、既に手遅れであることは明白だった。ギードに言われ、騎士達は剣を収める。
 オッシアは彼の体の側に跪くと、血に濡れるのも構わずに侯爵の手袋を外してみた。
 左手の甲に刻まれた、右手の爪痕。
いくつも、いくつもある。
 自分一人の手を握りしめ、危うく人間であり続けた男の孤独の傷跡がそこにあった。
 ……その通りだグレシオ。
人間はいつも独りぼっちだ。この傷を前に何が言えるだろう。
 今私が見ているのもきっと夢だろう。
いつか敢え無く消えるときが来るだろう。
お前の言うとおりそれは、ひどく辛いものになるのかも知れない。
 しかしそれでも、どうしても避けきれない夢もある。お前の希望であった祖国の再建にしても、破れて救われない夢に過ぎなかったかも知れないではないか。
 人と産まれたからには人に夢を見るのだ。そしてどうせ裏切られるなら愛しい人からやるせなく、やるせなく噛まれたいものだ……。
 唇の片側を軽く曲げて、オッシアは立ち上がる。手や公章の裾に彼の血が滲んでいた。
「終わりだな」
 ギードの言葉に頷く。遅れてきた貴族の現代への反抗は終わったのだ。これが恐らく一つの時代の終焉を示すことになるだろう。
オッシアは窓辺に立ち、空を見上げる。
 ……これからは、血統も出自も関係ない、おのおのが自分の実力だけを頼りに生き残ることを強いられる、不安と残酷に満ちた時代が会釈もなくやってくるのだ。人は今以上に孤独にすがり、臆病にすがるようになるかも知れない。
 ため息が洩れた。
「なにげんなりしてる」
「またこれからのことを考えますとね。
 ……思いもよらないようなことが、いくらでも来るだろうと思うと全く、今から気が滅入りますよ」
「元気を出せよ。終わるものはこの事件ばかりじゃないぞ、お前の独身生活も終わるんだろう?
 ……大丈夫だ。どんな苦労が来ようが、これからお前にはソフィリアの手があるんじゃないか。
 ―――― ところで、お前」
と、痩せた男の背中を景気良く叩く。
「なんて言って彼女に求婚したのか、おじさんに白状しろよ」




 


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