* 晩霞終息 *
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第一章 鈍化 「この甘ったるい匂いは……、なんだろうな」 宮廷から兵舎へと続く長い石畳の廊下を、今日もまっすぐに歩んでいたシバリス・クレイは、ふと左から横顔を見せ、後ろに従う二人の部下にそうもらした。 「しますか?」 だが、無骨なラクスは怪訝な顔で太い首をひねるだけだ。シバリスも初めから彼にはあまり期待していない。苦笑いして、もう一人の部下タナジオの言葉を待った。 「果物の香りではありませんか。どこかでとり忘れの……、ああ」 と、タナジオは貴族らしい洗練で、すいと中庭に生える一本の桃の木を指す。 「騎士団長殿、あれでは?」 彼の示した濃い緑の葉陰にいくつかの桃の実が、どういうわけか取り残されてぶら下がっていた。もうほとんどの実が茶色い斑点を抱え、半分が生きたまま腐りかかっている。その腐臭に誘われて、蝶や羽虫が周囲を盛んに飛び回っていた。 「ははあ、そうかな」 言いながら歩調は緩めないので、すぐにその木は後ろへ隠れてしまった。目に黒ずんだ果実の残像だけが幾秒か踊って消えた。 「お前の鼻は器用なのだな」 むしろ文句を付けるような調子で、ラクスが言う。 「君は筋肉に神経が圧殺されているのじゃないかね」 淀みない返答に、この体の大きな騎士は鼻を鳴らした。 「きかんのは今だけだ。こっちに近づくといつも、女達の化粧の匂いで鼻がおかしくなる」 「そんなことを言いながらやっぱりきれいでかわいい女が好きなのだろ、人一倍」 うなり声を発して、彼は黙った。押し込められて憮然としているのだろう。タナジオは澄ました顔をして、彼一人片づけることなど彼には何でもない。 シバリスは密かに笑った。 貧乏人の娘、息子が出世のために命を売るように入隊していた昔とは違って、貴族の騎士も増えた今ではむしろ、ラクスのような男の方が珍しい。自分のような古株はついこういうのをかわいがってしまう。 最近では騎士という響きになにやら洗練と輝きとが加味されているのだから、全く長生きしたものだなどと、シバリスは半分感心しているくらいだった。 昔はいかつく無粋で、血なまぐさい印象しかなかった。かつまた戦死、全滅という要素は予感ではなく、間違いなく現実の一部だったが……。 「反乱軍の情勢はどうなのでしょうか。本日の訓練では、閣下は何もおっしゃいませんでしたが」 このタナジオなどは舌もよく回り、宮廷の悪ふざけにも如才なく対応できる新手の騎士だ。かと言って別段ハト派だということはないし、騎士らしい精神を持ち合わせていないわけではない。 「どうだかな。あの国軍大将に圧されてのことだろうが、丞相殿はあくまで鎮圧する気構えでいる。 だが、彼らの反乱に理由がないわけでもないから、兵士達も本腰では戦えまいよ」 「宮廷では北部の住民達の貧苦を、本当に正しく認識しているのでしょうか」 皮肉な皺を刻み込んで、シバリスの唇が曲がった。 「貴族のご令嬢達が、あちこちへ遠出して施しをなさってるそうじゃないか。馬車から貧民に金を投げて」 「浮薄な流行です。あの娘達はいつもと同じように遊んでいるだけで、そんな遠征をすること自体が金の浪費だと分かっていません」 「そんな知恵を、いつ宮廷の娘達が持ったことがあった。それはな、タナジオ。無い物ねだりというものだ」 シバリスは前だけを眺めて歩いていたが、若い部下が眉をひそめ、だだをこねる子供のような顔をして下を向いたのが分かった。 確かに自分が若かった頃は、宮廷の中にもそれなりに道徳が存在していたような気がする。しかし、それも昔を懐かしむあまりの、一種のえこひいきだろう。あの頃の自分は下っ端であったし、ただ何も見えていなかっただけなのだ。 何もかもが、過去よりもずっと悪くなったなどと、誰に言えよう。今は欠点しか見えないだけだ。きっとこうやって、いつの時代も過ぎてきたのだから。なんだかだと二百年続いてきた公国だ。また二百年も続いてゆくだろう。長い目でものを見れば、ほとんどのことがどうとでもなる。 訓練を終えて一旦は乾いた汗が、長く陽光に照らされるうちまた戻ってくる。午後はもう、蒸し暑いほどだ。 鼻先にこびりついた果実の甘い香りに、首を振りかけたときだった。兵舎の手前にある大きな噴水のほとりに、場違いに賑やかなものをつかみとり、シバリスは思わず足を止めた。ぶつかりそうになった二人の部下が慌てて身を逸らす。 男が、泉を囲む石垣の上に腰を下ろし、西に広がる灌木の花や実にぼんやりと視線を注いでいた。 「……なんだあれは」 率直なラクスが、眉を上げたのも無理はない。 座っている男は、常は女の着る薄手の長衣を二三枚複雑に重ね合わせ、髪を肩まで気ままに伸ばし、あまつさえ紅までも頬に散らしたあの、おどけ者と呼ばれる芸人の類だったからだ。 「なぜあのような者がこんなところへ」 不穏な声を出そうとしたラクスの腹に、タナジオの肘が突き当たった。不可解な面持ちで隣の同僚を見やると、彼は目配せしてやめるようにと伝えてくる。 シバリスは、その若い芸人に声をかけるわけでもなく、ただそこに突っ立っていた。そのうち男の方が彼らに気づき、先に声をかけてきた。 「あ、どもー。こんにちは」 大きな目でにっこり笑い、街娘みたいに手をひらひらと振る。自分の姿を恥じる様子はどこにもなかった。 「私どもは、お先に失礼させていただきます」 タナジオが頭を下げ、シバリスが何か言うより先に世話の焼ける同僚の背中を強引に押しやって、さっさとその場から離れた。 まだ合点のいかぬ騎士は、 「おいおい。なんなのだ」 と抗していたが、とうとう連れて行かれてしまった。 部下の姿が緑に消えてから、シバリスはようやく動き出した。時々剣の柄が鳴るが、足音がたたないのは職業病だ。 「元気だったのか」 側に立ってそう尋ねると、だらしなく座った青年は悪びれぬ笑みで、 「毎度のことながらご無沙汰しちゃって、どうもすんませんね」 頭を斜めにした。これで謝っているつもりなのだ。 こちらももう腹も立たない。あちらこちらの街へと、年中ふらふらしている芸人の生活につきあうことにも慣れていた。彼の放浪は病気のようなもので、理由はどうあれ、今はとにかく流れずにはいられないらしい。 「今までどこへいた」 「ま、そちこちです。クバンとかドトレアとか」 北部に連なる街道の街だ。 「今あそこでは、稼げまいに」 「その代わりに色々と見聞してきましたよ。野党化する国軍とか、農民の虐殺とか、飢え死にする孤児とか」 シバリスの眉がひそめられ、右目の上に走る古傷が引きつった。 「非難か、ジリオ」 「まさか、ご政道に楯突きゃしませんよ。ただ」 青年は膝に抱える長琴を右から左へと一度なでた。 「歌に詠うは詩人の自由だ」 「…………」 一瞬不敵な影を見せた彼だが、またすぐに目を微笑みに緩ませる。 「いやあなたも、元気そうで何よりです」 「なにか急用か? こんなところへ来るなんて珍しいじゃないか」 「普段薄情な人間がすり寄ってくるときは、何か魂胆があるもんですよ。実はお願いがありまして」 「なんだ」 するとジリオは、つとあさっての方向を向き、「出ておいで!」と不思議によく通る声を茂みに投げた。 それに応じて微かな気配が動いたかと思うと、菩提樹の根本に人が一人現れ出た。 それは地味な農民服に身を包んだ、(よく見るとようやくそうと分かる)少女だった。髪の毛が短いので遠目では男女の見分けがつかないのだ。 「ここまでおいで、大丈夫だから」 幹の側から離れようとしないので、手招きして近寄せる。おずおずと、シバリスの顔色をうかがいながら少女はジリオの隣に立った。やせっぽちの腕を後ろで所在なげに組み合わせ、もじもじしている。 「リナと言います。トレビで拾いました」 北部の貧しい街トレビは、シバリスの生まれ故郷だ。思わず心が動いた。それを覆うために声を出す。 「そうか、それで?」 「今あそこは大荒れでしてね。リナは両親を亡くして、……まあ路頭に迷っていたのです。 最初は歌かなにか習わせようかと思ったんですが、どうも引っ込み思案で人前に出る仕事には向かないんです。えー、それでですね……」 自分でいったとおり、ジリオの目がすり寄り始めた。大体内容を察して、シバリスの方はやや逃げ腰になる。 「まさかお前……、家で使えなんて言う気じゃないだろうな」 「ご明ー察」 と、嬉しげに少女の肩をぽんと叩く。 「察しのいい旦那で良かったなあ」 シバリスは口を開けた。 「……おいおい、いきなりそんな。大体、こんな子供に家事が出来るのか?」 「あ、この子こう見えても十七にはなってるんです。それに一通りちゃんとできますよ。あなたも一人くらい家にいた方が心強いでしょう」 「何がだ」 「夜中に突然、倒れたときに……」 「本気で機嫌を取ってるのか。そんな年じゃないぞ」 「ねえ、お願いしますよ。この子、あとは馴染みのないこの大きな街で、落ちるところまで身を落とすくらいしか道がないんですから」 そんなことを言われるとシバリスは弱い。 おまけに、懸命な努力も虚しくふとしたはずみで少女と眼が合ってしまった。 シバリスと同じ薄い水色の瞳は、北部地方の特徴だ。低いところから上目遣いで懇願されたら、シバリスは犬でも蹴れない。 腹いせに筋肉のないジリオの脇を軽く小突いた。 「お前色々と指導したろう」 「あらまあ、なんのことでしょ」 彼はしゃあしゃあと空とぼけて見せる。 もう一度、少女のまだ丸みの残る頬を見て、それからため息をつきつつ、彼は折れた。 「分かったよ、好きにしろ。ただし、俺は構わんぞ」 「良かった。大丈夫、彼女は食べられれば幸せというところから来てますから。リナ、きちんと仕事するんだよ」 「はい。ありがとうございます」 捨ててきた訛でにっこり笑うと、少女の両頬にはえくぼができた。……十七だと? 嘘だろ。 こんな幼いのが一人住まいの家の中を明日からうろちょろするのかと思うと、シバリスは気鬱になる。頭を振った。 「……俺はまだ仕事だ。お前が部屋まで連れてけ。それで、お前はこれからどうする予定なんだ」 ジリオは肩をすくめた。 「またすぐ出ます。ぜひ一晩なりと泊まっていきたかったんですが、積もる話もあったし」 まだ営業活動が続いているのか、かわいいことを言う。シバリスはわざとらしく目を開いて、笑いそうになったところを無理に冷やかしに変えた。 「珍しく気弱だな。旅から旅はいつものことだろ」 彼は十人ばかりの仲間と連れだって旅をしている。少しこのイストレに戻ってくることがあっても、それが旅程の途中なら数日でまたあっさり出ていく。お互いにすれ違い、半年過ぎるということすらざらだ。 彼の言葉に、ジリオは顔をひねくった。 「いえね。ちょっと今回は、何というか……」 言いよどみながら、華奢だが筋張った手を、額から長い髪へと走らせる。金髪に編み込まれた赤い布が揺れた。 そのままなかなか口が開かない。シバリスは腕を組んで、怪訝な面持ちのまま続きを待った。彼はいつも、のたくりながらも迷いのない言葉遣いをする。こんなに歯切れが悪いのは珍しい。 「なんだ? はっきり言え」 「……はは」 首を回すようにして、ゆっくり上げた顔には微かな自嘲があった。 「まさかこんなに言いにくいとは思わなかった」 事情が分からないまま、シバリスはつられて笑う。 「なんだ? おい。何事なんだ、一体」 「……今年、トリエントーレ王国は建国三十三周年だそうですね」 「あ? ああ。あちらの宗教で肉断ちが解けたら祭り続きだろうな……」 「その祭りにあっちの仲間から招かれてて、行くんです」 時々シバリスは察しがよすぎるのだった。その時点で既に先が見え、知らず身体が固まった。むしろもうはっきりと聞きたくなかった言葉はしかし、ジリオの口からこぼれた。 「……それで、どうも一度例の宰相さん、……今はもう違いますからアルアニス卿かな、彼の前に出ることが……、ありそうでしてね……」 唇を閉じてそれから、ジリオは何かを探り取ろうとするかのような視線をシバリスの方へ、静かに走らせた。 「おや、また一人増えてる。ありゃあ男か……? どっちにしてもすごい息子がいるな、団長殿も」 二階の窓から遠くに二つの姿を眺めながら、ラスクは呆れたような声を出した。 「息子じゃないぞ。知り合いの子供だそうだ」 脱いだ上着をかける空き釘を探していたタナジオが、そう訂正する。 「知り合いの?」 「昔騎士団にいた、とある女性騎士の息子だと聞いた」 「そんなのの面倒を何で見ているんだ。赤の他人じゃないか」 身軽になって部屋を横切ろうとした優男は、その質問に思わず足を止め、ちょっと同僚を睨むように眉を歪めた。 「何だよ」 「君はきっと心と頭に栄養が足りないのだ」 随分なことを言われた気がするので、多分自分もかなり不細工な真似をしたのだろう。ラスクはそう考えて、困ってしまう男だった。 「……つまりだな」 彼の様子を見て、タナジオもそんな攻撃を彼にしたところで仕方がないのだと気を取り直し、言葉を続けた。 「団長殿は、その女性にご執心だったんだよ。それでつい息子の面倒も見てしまうのだ。あの人はそういう人だから」 それから頭をかいて、付け加える。 「……それに詳しくは知らないが――……、多分、あの子が赤の他人なのかそうじゃないのか、微妙なところだと……、ま、そういうことなんだろう」 「そうか……」 唾がつまったのか、おかしな声が出た。少女の前だ。咳払いをし、言い直す。 「いい機会だ。……ああいう男に会っておくことは、後々貴重な経験になるぞ」 「……知り合いなんでしょ。挨拶しとこうかな」 シバリスは苦笑した。 「俺のことはもう忘れておいでかもしれんよ。多忙な人だからな。どうせ言うなら……」 二人の目が合いそうになる。滑るような動きで、シバリスは視線を逸らし、先を潰した。 「いや、なんでもない」 きらきら光る青年の目が、頬をかするのを熱く感じる。 その時突然、茂みから数羽のかけすが飛びだしてきたかと思ったら、重苦しい鐘の音が兵舎の方から響いてきた。晩課の準備を促す合図だ。 シバリスは動くきっかけを与えられ、ようやく再び真っ向から青年に向かい合うことが出来た。 「……行かなければならんようだ。リナは家に。それから、お前の仲間達によろしく言ってくれ」 そうか、こう言えば良かったのだと思いながら、シバリスは続けた。 「隣国の元宰相殿にも、よろしく伝えてくれ。ではな」 彼が去ったあとにも、ジリオはしばらく噴水のほとりから動かなかった。その表情は平静で、何を考えているのか知り得ない。少女はじっと待っていた。 つと顔を上げると、兵舎の二階の窓からこちらを見下ろしている、タナジオの視線に行き当たった。その怜悧と剣技で評判の騎士だ。 彼はすぐに顔を背け、無言で窓辺を離れた。その速度に微かな嫉妬の余韻を感じる。 「行こうか」 立ち上がると、ジリオは少女の手を引き、静かな廊下を二人で歩み始めた。 |