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* 晩霞終息 *

[ 2 ]




 およそ不幸と名の付く何もかもが、ここ三年を目指してなだれ込んできているかのようだ。
 始まりは三年前、六十年の長きに渡って公国の統治者であり続けた老公爵の死だった。武人としてはともかく、政治の才能に恵まれ、子煩悩など愛すべきところもあった施政者の死は、それだけで大きな不幸だった。国中の家が半旗を掲げ、葬儀の様子は今も記憶を離れない。
 その後、長年彼に用いられてきた長老格の官僚達が幾人か続けざまに倒れ、――その中には前の騎士団長もおり――、君主を追いかけるかのような逝去が重なった。
 保守的なこの国では、世代交代は年長組が死別するまで待たれる。一気に多くの部署での顔の刷新は、内外で混乱を招いた。
 そしてようやく喪が明け、齢三十にも達さぬ若い公爵を新たな旗印に、国が動き出そうとした矢先。穀物庫である北部一帯を洪水が襲い、その後にはお定まりのように干魃が天から見舞われたのだった。
 耳に痛い報告が続いた。当時の丞相など、(本当かどうか知らないが)胃袋に穴が開いたと言って寝込んでしまった程だ。
 根こそぎ表土が流されてしまった農地を、もとの通りに戻すのは容易ではない。天候不順は相変わらずで、修復は遅れる一方だ。国は難儀な状況にあるのだった。
 ところで、よくシバリスはせわしげな役人から、「貴公はのん気でうらやましい」とあてこすりを言われることがあった。彼がどんな悲惨な報告を聞いても少しも慌てない態度が、特に若い者には気に障ることもあるようだ。
 鈍感なわけではない。心が動かないのか、と暗に責める彼らの気持ちが、シバリスにはよく理解できる。
 ……ただ、いつのころからか、多分四十を越した頃からだと思うが、ある夜ふっと寝床で肩の力を抜くように、様々なことをため息と共に諦めたらひどく楽になって、世の中の全ての理不尽を自分は許してやることが出来るような気分になった。
 そんな心持ちになったのはきっと、戦場でのとある経験がきっかけだが、とにかく彼は愚鈍なわけではなく、ただ諦めているのだった。
 ある時、彼は腹心のタナジオにこんなことを言ったことがあった。なぜ独りでいるのかという問いに対するわかりにくい答えだった。
「これ以上寂しい思いはしたくないしな」
 ところで、彼はそれなりに年だから、人生にも色々とあったわけで、あまり物事に動じなくなるのも納得できる。しかし、二十数年を数えるばかりの若公爵が、凪のようにいつも落ち着き払っている理由は理解しがたかった。
 公爵は母親譲りの端整な顔立ちに、いつも唇を緩く結び、笑っているのでも怒っているのでもないその表情は、本人が死んだという知らせが入っても変わらないだろうと宮廷の噂だった。
 ある者は彼を大器と褒め、また別の者は貴人に付き物の冷淡と見なしていたが、本当のところは誰も分からないのだった。つかみどころのない不気味さは先代には全くないものだったから、旧来の者達は少し面食らっている。
 だが、シバリスはその若公爵が嫌いではなかった。騎士団の通常訓練の終わりには、公爵が一言話す場がある。先代はいつも長々と華やかに喋ったものだが、彼は、時々話すことはないと言ってさっさと解散させるようなこともあった。
「時間の無駄だ。騎士団長」
 つまり合理主義者なのだろうとシバリスは思う。イストレではそういう政治家はあまり受けないのだが、彼は好きだった。
 生き残りの老臣達と衝突しながら、この新しい公爵は少しずつ、旧態依然たる国を変えていくだろう。合理的で、現状に即したところまで。
 シバリスは、ずっとこんな人間を待っていたのかもしれない。否応ない力で、自分には壊し得なかった因習の鎖を断ち切ることの出来る、物静かな実行者を。





 その夜、シバリスは独りで寝室にいた。質素な木の机の前に座り、ひっそりとただ、息をしていた。
 灯りはもう二時間も前に吹き消した。寝ようと思って布団に横にはなったのだが、考え事が巡ってどうにも寝付けない。
 数時間粘った果てに、とうとう諦めて、すっかり闇にも慣れた目で寝台から起きあがった。
 足下には月の光が窓枠を十字に切り抜いて、床を青白く照らしていた。それを踏みながら、彼は少し憂鬱な心で、椅子に腰を下ろした。
 こんな夜は珍しい。というよりも久しぶりだ。心がかき乱され、心臓がそわそわと落ち着かぬ。ジリオのことを考えると、夜の静寂が拷問のようだ。考えまいと思うとその思考で頭が重たくなり、やっぱり彼は眠れないのだった。
 頬に掌をあて、肘をつく。そうするともうひとりでに中指が眉毛を乱す古傷を、上から下へとなぞる。癖だった。彼はその傷を愛していたし、憎んでもいる。それでとにかく、よく触る。
 十八年程前、敵の振り下ろした短剣でこの傷は貼りついた。くぐもるような音がして頭蓋骨が揺れたものだ。兜の隙間から冷たい金属の触感。それからどうとばかりに吹き出すぬるい血。
 彼は今の地位を嘆きつつ、あそこで死んでいたら、とは考えない。あそこで死んだのだから、と思うのだ。
 だから叫喚の巷から現世に戻ったとき、……彼女が生まれたばかりのジリオを抱いている姿を見た夕方さえも傷に触れ、こみ上げる動揺もおさまった。
 それがどうだ今夜ばかりは、傷の効果も現れぬ。ジリオは戻ってくるだろうか。それとも帰ってこないかもしれない。……そしてあの男は、彼の中に自身の若気の名残を見るだろうか?
 いや、そんなことは分からない。ただの噂かもしれないから。たまたま任務で隣国にたった半月居ただけではないか。その前後はずっと自分と一緒だった。だが彼には正直分からないし、自信がない。
 彼女は何も言い残していない。その代わりシバリスが父めいて、ジリオに接することにも何も言わなかった。結局そうだ、彼女は何も言わなかったのだ。自分のことを尊重し、あるいは無視して――……
 駄目だ。首を振る。
どうも暗いと思考が沈降していけない。こんな考えは陽の下では浮かび来ないはずだ。
 顔を横に曲げた。ふと、小さな鏡の中に自分の沈む両目を見つけた。寝る前に頭を洗ったので、髪の毛が額へ落ちてくる。首を傾げているのでなおさらだ。
 ふいに、左手が自然に何の思慮もなしに蝶のように伸びて、手紙を切るための鋏を冷たく探り当てた。間接は曲げられ、銀の鋏は持ち上がった。
 ―― その時彼は、全く何も考えていなかった。本当だ。なぜなのか分からない。左手が動いたのはしかし、欲望がそう命じたために違いないが、刃は開かれ、また丁寧に閉じられたとき、髪の毛が音を立てて机の上に落ちた。
 シバリスは青い顔をしている鏡の中の男の前髪を、すっかり、額がまるきり露呈してしまうまで切り落とし、初めておや、と思い鋏を見た。それからもう一度銀の円をのぞく。
 ずいぶん短く切ってしまった。これは今の流行りと違うがまあ……、こうなってはもう仕方がない。
 鋏を置いた。立ち上がってゆっくりと髪の毛を払い、彼はなにやら落ち着いて、冷え切った寝台へ戻った。
 ちくちくっと残った髪が首を指したが、まぶたは下りた。それからやっと、彼は眠りに落ちたのだった。




*




 目をまんまろくすると、少女はびっくりした猫に似ていた。シバリスは大袈裟だと思ったが、彼女にしてみれば無理からぬ反応だったのかもしれない。
「どうしたんですか?」
 そう問われても、自分にもよく説明ができないのだが。
「まあ、どうということじゃない」
ごまかしておいて、不審げな顔をしているリナに尋ねた。
「変か?」
「びっくりしました」
 それ以上いうのが失礼だとでも思ったのか、リナはそれ以降、突然短くなった主人の髪の毛に関しては何も意見を言わなかった。
 シバリスの方は朝の光のなかで鏡をもう一度覗きこみ、自分ではそれなりにこの坊主のような短髪も気に入って、少し笑ってみたりした。
 部下達も会う人々も皆、彼の頭をちらと見たけれど、礼儀を踏まえてとにかく黙っていた。あえて理由を尋ねてきたのは厚顔な貴族の少女達だけで、彼女たちは自分たちが不思議と思ったことは尋ねる権利があるものと思っているのだった。
「シバリス様、一体その頭はどうなさったの? どなたかにふられておしまいにでもなったの?」
 ラクスが睨んだが、益体ない。シバリスはただ愛想笑いをして、「暑いですからな」とだけ答えた。
 無論、若公爵は眉毛一つ動かさなかった。彼の沈着は人喰い池の静謐を思わせる。風が吹いても波も立たない水銀の顔だ。
 宮廷では今日も芳しくない報告が続く。農民軍は苛烈な鎮圧に反発してかえってその勢いを増しているようだった。しかしそれでも、国軍大将は断固打倒すべしとの意見を熱弁する。
 現在、対反乱の指揮を執っているのは北方の名門貴族ベリシウス伯爵で、老人達にも受けがいい。彼は自分の領地と財産をその勝利にかけている分だけそれはそれは真剣なのだった。
 シバリスにもその事情は察せられるのだが、ただ、北部農民は国を潤す貴重な宝だ。むやみに痛めつけると、我と我が首を絞める結果にもなりかねない。
 また大軍を北に投入することによって、東西両国境を固めるの軍配置のバランスが崩れる危険もある。
 ……東のトリエントーレは、今でこそ礼儀正しい友好国だが、ひとたびこちらの国内が危ういとみれば、遠慮会釈なく軍をさし向けてくるだろう。そうしたらひとたまりもない。
 農民達は別に、国を潰そうと考えているわけではない。ただ彼らには言いたいことがあり、それを聞いてもらうためには悲壮な手段に訴えるしかなかったのだ。貧苦が救われれば反乱は鎮火する。
 敵を見誤っているんじゃないかね。軽く目を細め、終いに閉じる。
 しかし色々と意見も警告をも持ちながら、シバリスはいつも黙ってそこに突っ立っているだけだった。呑気者と言われても無理はない。これでは年寄りの名誉職そのものだ。
 さて、執務はいつも通りの時間に終わり、若公爵は黙ったまま退出した。頭を上げて、皆がそれぞれの立ち位置から動き始めたとき、シバリスはつかつかと近寄ってきたベリシウス伯から、唐突に奇妙なことを言われた。
「貴公のお持ちである女奴隷を、私にお返し頂きたい」
「は?」
 開いた口のままの声が出たが、空とぼけたわけではない。何のことか本当に分からなかったのだ。
「女奴隷……と? 言われますと?」
 伯爵の方はそれをまずい芝居だとでも受け取ったらしい。社交辞令の笑みが消えて、途端に眉間のしわが深くなった。
「ごまかされますな。昨日、貴公の飼い犬が連れて参ったはず。ちゃんと調べはついております」
 そこまで言われてやっと何のことやら了解した。
「あー……、ああ。……リナのことですか?」
「あれは私のものですから、速やかにお返し頂きます」
 シバリスは相手の有無を言わせぬ語調に眉を曲げる。
「……どういうことなのかよく分かりませんが?」
「あの娘は私がしかるべき手段を踏んで買い取ったものです。それが勝手に逃げ出して、当方で行方を追っておったのです。
 ……もちろん、見つけだす手がかりになったわけではありますからな、それなりにお礼は差し上げます」
 段々と事情が飲み込めてきた。あの馬鹿は、どうもとんでもない娘を押しつけていきやがったらしい。リナのあの短い髪の毛は、変装するためのものだったのだ。
「……伯爵。まだあまり付き合いがありませんが、彼女は素直でよい子だと思います。何故またお屋敷から、逃げ出したんでしょうな?」
「奴隷は逃げたがるものです」
「…………」
 シバリスはあまりにご無理ごもっともなのでかえっておかしくなってしまった。こんな台詞を吐く男の下から彼女が逃げたくなるのも当然だし、また彼にはその理由が理解できないので、また逃げられるわけだ。
「出口なし」
ぼそりと言う。
「なんですと?」
「いえ。
 ……申し訳ありませんが、伯爵。リナをお返しできません」
 額まで届く縦じわがぴくりと痙攣した。
「何とおっしゃる?」
「鳥を籠から出すと逃げる理由はお分かりでしょう。そちらに籠があると分かっていてまた彼女を送り返すようなことはしたくないのです」
 伯爵の顔色がさっと変わる。反抗されることに慣れていないのだ。
「……シバリス殿。その答えは今のうちに翻された方がよろしい。
 ……今後、騎士団と国軍との関係は悪化しますぞ、それでもよろしいのか!」
 終わりの方は抑制の利かない怒声になった。数人の官僚達が、何事かと足を止めてこちらを見ている。
 シバリスは彼らに視線を走らせてから、早くけりをつけるためにこう言った。
「背に腹は代えられません。少女一人見捨てたとなれば、私が騎士達から見捨てられる。
 あなたのおっしゃる事情は当方では関知しておりませんでしたし……、ご了承頂きたい」
 では、と踵を鳴らすと、シバリスは少し離れたところで上官の帰りを待っている部下達の方へ向かった。その背に舌打ちするような中傷が投げられる。
「成り上がり者が、思いあがりおって……!」
「雅だな、韻を踏んでる」
「あんまりバカにしないほうがいいですよ」
タナジオの苦笑いが、彼を出迎えた。
 ざわつき始めた執務室を後にして、廊下に一歩踏み出した途端、あの腐臭が強烈にシバリスの鼻を刺した。思わず手で鼻腔を塞ぐ。
「一段とひどくなったようだな」
「この陽気ですから。……それより、大丈夫ですか」
「ん? もともと騎士団と国軍は疎遠だ。今更な」
「そうではなく……」
「団長殿……」
 重い、改まったラクスの声に驚いて二人は振り返った。見れば彼はいかつい目元を多量の涙に滲ませている。
「……どうした」
あっけにとられてシバリスが聞く。
「……団長殿、ありがとうございます。
 自分には妹がおりました。自分がまだ騎士見習いの時、南部の貴族に売られていきました。それから一年も経たぬうちに死にました。それでも、仕方がないです。諦めておりました。
 でも今さっき、団長殿は同じような境遇の少女を守って下さって。自分は、……団長殿にお仕えできて本当によかっ……!」
 ぼろぼろっと涙が落ちた。腕を持ち上げて顔を覆う。そのまま、獅子のように吼えながら泣いた。
 シバリスはタナジオと顔を見合わせた。貴族出身のタナジオは、その悲哀に究極のところついていくことができないで、少し戸惑っているようだった。
「……ああ、困った奴だな。あんまり団長殿を驚かせるんじゃないよ。さ、もう歩け」
 同僚の大きな肩を叩き、歩を進ませながら彼はそう言ったが、多分驚いたというのは彼自身ことだっただろう。しばらく寝起きのような顔をしていたから。
 兵舎に帰ってから、タナジオが珍しく自信をなくした様子で、控え室へやってきた。
「自分は宮廷の白粉くさい娘達と同じなのかもしれません」
と、言う。
「北部農民達の不幸を身に纏い、それを理解した気になって、好き勝手なことを言っていました。けれど本当の苦難から自分は遠いところにいるのだと、今日思い知りました……」
 シバリスは苦い顔でかぶりを振った。
「タナジオ、それは仕方がない。お前とラクスでは育ちが違う。貧苦を知らないのはお前の責任ではない。
 何らかの感情に共感できることは一種の幸せで、徳ではない。だから、そうできない者を責めるのは弱い者いじめだ」
 シバリスには一つの歯がゆい思い出がある。大切な人間が心を病んだとき、彼にはその辛さが分からないで、彼女を揺り起こすことができなかったのだ。
 だが、自分に何か落ち度があっただろうか。確かに理解できず無力だったが、自分にはどうしようもなかったではないか。今ならば、などと考えても無駄に苦しいだけ、もはや詮無いことだ……。
 繊細な精神を抱えた青年は、それでもまだ自分を責める体で立ちつくしていたが、シバリスの表情に自分と同じ感情を見いだして幾分か落ち着きを取り戻していた。
 二人には、人に共感できない苦しみが分かるのだった。そしてその部分で、悲しく共感しあっていた。






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