< novels <<


* 晩霞終息 *

[ 3 ]




 シバリスはリナに関する事件を軽く見ていたわけではないが、それでもまさかこの一件が予想以上に大きなものになるとは考えていなかった。
 伯爵は、もう十日もすれば再び戦場へ赴いていって、宮廷からいなくなる身だ。だからその短い間だけ彼女を防衛すれば、この件は立ち消えになるだろうと思っていたのだ。
 小娘一人にかまけるほど伯爵も暇ではないだろう。もともと宮廷に近い貴族ではない。渋々ながらでもやがて諦めるはずだった。



 ところが数日後、伯爵方に思わぬ加勢が着くにいたって、話は無意味にややこしくなった。若公爵の妻、エルシリア公妃がある席上で、「ある騎士」についてのふしだらな行状を、激しい言葉で非難したのである。
 名前は出なかったとは言え、それがシバリスのことを指しているのは明らかだった。
 彼女は社交界の女王であって、出世を望む者達はみな後ろへついている。シバリスは一気に微妙な立場へ立たされることになった。
「何でこういうことになるんだ」
 シバリスは控え室で、あれよあれよと膨らんだ話に不満をもらす。彼は今や、悪意に満ちた囁き声を聞くことなしには、公爵に挨拶すらままならない状態だ。
「このままでは、伯爵が出ていった後も騒ぎが続きますよ」
 タナジオの言葉に、眉をひそめた。椅子の背もたれに、ずるずると丸い背を滑らす。
「反論の材料を用意して、対陣を張った方がよろしいのでは?」
「……話がさらに大きくなる、それはだめだ」
 しばらく暮らしてみて分かったのだが、リナはいかにも山造りな、誠実でいい娘だ。それだけに宮廷の化粧くさい内紛などに巻き込みたくなかった。
 いつも一部寝ているようなところのある彼女が、現在ではもう「浮気性」で「淫乱」で「人を謀る」「女(だいたいこれからして間違っている)」だということになっているのだ。もう充分、これ以上は聞きたくなかった。
「それにしてもどうして公妃は、こういつも団長を目の敵にしておいでなのかな」
 ぼそっと、遠くでラクスがもらした。彼の素朴な疑問がかえって問題の核心をついていて、こちらの二人は思わず顔を見合わせる。
「つまりそうですね。それこそ公妃はその少女のことには興味なんかないでしょう。結局は、団長殿を困らせることが目的なんです」
 シバリスはため息をついた。そういうことだろう。そしてそのためには手段なぞ選ばないのだ。
「騎士団長と公妃の仲が悪いってのは、国史上類を見ないんじゃありませんか」
「いらしたときにはまだ何も知らない女の子だったがな。二年のうちに宮廷の掟も学ばれて、こういう遊びが楽しくてたまらない時期なのかもしれんなあ」
 外国から嫁いでくる公妃を、国境まで出迎えに行くのは公国騎士団の重要な任務である。
 そしてその晩、夫となる公爵に見えるまでのくだくだした面倒な行事の間中、彼女に付き添い、エスコートするのは他ならぬ団長だ。
 二年前、全身を緊張させて自分の腕にぶら下がっていた彼女の姿を思い出す。色々に変化の激しい年頃であることは承知だが、それにしても一体何をきっかけにこう嫌われ始めたのか彼には見当がつかなかった。
「閣下がお諫めせんのがいけないんですよ」
 ラクスが断ずるが、タナジオは首をひねった。彼の判断はいつも、大当たりか大はずれかの両極端だ。
「……どうなのでしょうね。もしそうしていたとしても公妃がお聞き入れになるかどうか。
 閣下と公妃は、寝室を別になさってるという話ですが……」
 シバリスは額の傷に手をやる。
「それも噂だ、タナジオ。信用ならんよ」
「しかし……」
「事実だとしても、それは閣下の思いやりだろう。……公妃はまだ十九なんだぞ」
「子供を産めない年ではないし、男女の情愛を知らぬ年でもありますまい」
 その返答に肩をすくめ、シバリスは立ち上がった。どちらにしてもうんざりで、深く考えるのが億劫になってくる。
 粗末な造りの窓枠に額をつけるようにして立つ彼の背中に、タナジオは念を押した。
「団長、送別会で相手側は何か仕掛けてくるかもしれません。お気を付けになった方が」
「明後日だったな」
「はい」
 ラクスがぶん、と唸りを鳴らして腕を振った。
「よし無礼な振る舞いがあったら、この俺があの田舎爺をぶん殴ってやります!」
「そして国軍と決別する気か。お前は場外警備だな」
 苦笑する上司に、さすがのタナジオも不安の色を浮かべる。
「団長。笑い事ではありませんよ……」
「分かっている」
と、手を上げた。真面目な口調を取り戻し、シバリスは振り向く。
「とりあえず騎士団内に動揺が起こらぬように監督を頼む。わけても国軍との諍いなど起こさぬよう、重々注意してくれ。これ以上話を複雑にするわけにはいかん」
「はっ」
 二人の部下は踵を鳴らし、部屋から出ていった。






 その後シバリスも、城内の西区に与えられている自室へと戻った。夜も更けていたので家々は静寂そのもので、貴族の邸宅が集まり連日夜会の開かれる南区とは著しい対照をなしている。
 そこへ冷やかしの目の中出かけて行かねばならない明後日の憂鬱を思い、思わずため息をついたときだった。
 シバリスは、自室の黒い扉が開け放たれているのを認めた。リナには夜間、外へ出ないようにと言い渡している。
 まさか。ほとんど信じられなかったが、誘拐の二文字が脳裏に浮かび上がった。公国法では、城内での拐かし、殺人などの犯罪行為を厳しく禁じており、最高刑は死刑である。
 だから現在の状況で、伯爵が少女をさらっていこうなどとよもや考えまいと思い、見張りなどは立てていなかった。だが迂闊だったろうか。
 しかし、まさか……。納得できないままに、とにかくシバリスは扉に辿り着き、慎重に引く。そして彼はそこで、予想もしなかった光景に出会った。
 四つの背中が、灯りを取り囲むようにして肩を寄せ合っているのが見えた。みな若い女の服装で、時々、押し殺した忍び笑いがその肋骨から流れ出る。
 一体何が起こっているのか、次の一言が耳にはいるまで分からなかった。
「それにしても本当に汚い背中。騎士団長もおかしな趣味をお持ちだことね」
 ―― 瞬間、シバリスの足が動いて扉の樫を蹴った。乾いた音と共に、娘達が飛び上がる。
「きゃッ!」
 振り向いたのは、いずれも宮廷で見かけたことのある十代の少女達で、みな高位貴族の娘だった。彼女たちの分厚く重なるレースの向こうに、リナの貧弱な、どうしてか――分からないことも、ないが――傷跡だらけの背中があった。
「……一体、あなた方は私の部屋でこんな時間に、……何をなさってるんですか」
 シバリスの声は怒りに青白く震えていたが、少女達は身を寄せ合うようにしただけで、怖いもの知らずだった。四人の中から一番勝ち気で一等賢しげな少女が口を開く。
「あら、あなたの不道徳を確認しに来たんですわ。
 夜な夜なおかしな行為にふけっているって噂なんだもの。私たち信じられなかったから、この目で本当かどうかを確かめに来たんです」
 とても信じられない、といったふうに大人びて白い首を振る。
「あなたって不潔ですのね。公妃様の仰ったとおり、人の良さそうな顔のくせ非道な、いやらしい方でしたのね」
「……それで、あなた方はこんな時間に私の住居をのぞきに来られ、そして私がいなかったので四人がかりで彼女を組み敷き、背中を暴いて鑑賞していたというわけですか」
「あの子が隠すから悪いのよ」
 少女は後ろでうつむいているリナを指さす。それからまるで堂々とした正義の女神のように続けた。
「噂が嘘なら素直に背中を見せてもいいはずでしょう? 隠すから無理に開けてみたら、……やっぱり。あんなことして嬉しいだなんて……」
「出て行きなさい」
 先を遮って、シバリスは呻くように言った。
「早く出て行きなさい……!」
 彼の態度に反省も狼狽も見られず、ただ強い幻滅だけがあるのを敏感に感じ、少女達はかっとなった。
「なによ! 自分が正しいような顔して!」
「開き直るなんて、見苦しいこと!」
 口々に不満をもらす。が、バン! と扉が鳴って娘達はびくっとなった。シバリスは拳をそこへあてたまま、殴りつけるように怒鳴った。
「黙って出て行け!!」
 少女達は、一転涙声を呻らせながらとうとう部屋から逃げていった。後にはただ、床にうずくまったままのリナと、その足下にボタンが数個、侘びしく転がっていた。
 シバリスが静かに扉を閉めると、彼女はのろのろと立ち上がって、黙ったまま自分の部屋へ行こうとした。
「……着替えてきます……」
「……もう、そのまま寝なさい」
「…………あの、大丈夫ですから」
 少女の言うことが分からなかったので、シバリスは顔を向けた。
「ただ殴られただけで、別にそれ以外には別に……。
 だから、……そんな顔、なさらないで下さい。そんなにひどい目に、遭ったわけじゃないので……」
 首筋から頬の辺りが、鳥肌に冷たく凍り付くのが分かった。少女が扉を閉じた後も、シバリスは彼女の残像から視線を動かすことが出来なかった。
 年をとればとるほどに、幼い小さなものの不幸せをたまらなく感じるようになってきた。食料と同じように、世の中に限られた量だけの幸福があるのだと思うと、彼は今自分が生きている見返りに生存の枠組みから弾き出されている子どもや未来が確かにあるのであって―――。
 そうなるともう、自分の生きている意味が彼には本当に分からなくなるのだった。




*




 翌朝、鏡の前でひげを剃っていると、急に昨晩の自分の対応のまずさが蘇ってきて彼は後悔した。あの娘達を、あんな形で部屋から追い出すのは得策ではなかった。もっと良いやり方が他にあったはずだ……。
 シバリスは四十を超しても感情を制御できない自分にがっかりしてため息をついた。この髪の毛も、よく見るとかなりおかしい。もう仕方のないことながら、彼は今さら唇を噛んだ。
 リナはいつも通りに朝食を用意して彼を待っていた。シバリスはテーブルに着くなり彼女に向かって、
「この髪型はおかしいか?」
と尋ねて、彼女の顔をまた猫にした。
 リナはためらうような仕草を見せる。彼が促すと、遠慮を込めて笑いながら、ゆっくりと、
「あたしは、前の髪が一番いいと思います」
と白状した。シバリスも苦笑しつつ頷いて、よく分かったと手を上げる。
 やっぱりそうか。ちょっと考えれば、これが自分に合わないことくらい分かったようなものだが。あの晩は少し……つまり、とち狂っていたのだろう。




 その日の執務には少しばかり波乱があった。若公爵が北部への柔軟論を口にしたのだ。
 公爵は廷臣達の話を黙って聞いていることが普通で、時々幾ばくかの質問を差し挟んだり、発言を反復させたりしたが、それもあまりないことだった。それだけに突然しゃべり始めた公爵に、長老達は驚く、というよりも慌てた。
 公爵の言い分は鎮圧後の北部を慮ったもので、筋が通っていた。けれども長老達や主戦派の廷臣達は、彼の若さを突き、そんなことを言うのは無経験だからだということで話を早々に片づけようとする。
 シバリスはそれでもいつもの通り黙っていたが、長老達があまりに公爵の発言を下らない夢物語にしようとするので、ついに口を開いた。
「公爵閣下の仰ることに理なしとは私には思えませんが。もう少し真面目に考えてもよろしいのでは」
 長老の一人である丞相が、これまた急に話し始めたシバリスをにらみつける。
「騎士団長殿。あなたのような経験豊かな方がそのようなことを仰っては困りますな。立場上、断固とした態度を貫いて頂かなくては」
「態度をここで示したところで農民達を恐れさせることなどもはや出来ますまい。彼等には、もう怖いものなどないのですから」
「それこそが問題なのではござらんか。
 国民達が残らず皆、公爵閣下とその国体に畏怖を感ぜなくなったらば、一体この国はどうなるとお思いか。反乱に対しては極刑で臨む。それがただ一筋の王道というものじゃ!」
「……それはあなたの決めることではない……」
 ため息と共につるり、と本音が滑った。小さな声ではあったが、耳の健常な丞相はキッと猛禽の眼光を向けてくる。
「屁理屈を申されるな! 今この時を見るがよい。弱気とはこういうものじゃ。誰かが思わず口にもらしただけで、波紋のように広がって宮廷全体を腐らせてしまう!
 あなた方はそれが一番正しいと思っている道かもしれんが、結局は最も悲惨な結果を招くことになるのだ。国が死ねばもう秩序も何もないのですぞ!」
 シバリスは黙った。これ以上は泥仕合になるばかりだし、「あなた方」と自分に公爵までつけられたとあっては、徒に若い君主の立場を悪くするだけだ。
 ちらり、と公爵が目線をこちらに走らせた。そこには何の記号もなく、ただ彼はシバリスを見たのだ。そしてさして残念という調子でもなく、またいつものようにだんまりへ帰った。
 長老達はその後、黙り込んだ公爵を前に満足げに執務をすすめ、結局定刻に解散した。彼等は手堅く、容易なことではその支配を脱することが出来そうにもなかった。シバリスは諦めの吐露に近いため息をついて、執務室を出た。
 やはり黙っていれば良かった。こんな結果になることは分かっていたのに。







<< BACK < top > NEXT >>